シーン4:【黄金の夜と、崩壊へのカウントダウン】
ブツンッ。
通信の切断スイッチを押し込んだ直後、熱狂の嵐が嘘のように吹き飛び、深夜の工房に濃密な静寂が舞い戻る。
ジリジリと空気を焦がしていた魔道具の駆動音がフェードアウトし、代わりに空間を支配したのは、あまりにも生々しい金属の匂いだ。
「ふぅ……っ」
俺は肺の底に溜まっていた熱い空気を、長く、深く吐き出す。
全身の筋肉が強張っていたことに、今更になって気づく。
背もたれのない木製の丸椅子にドサリと腰を下ろすと、冷や汗を吸ったドレスの生地が背中にべったりと張り付く不快感があった。
だが、そんな些細な不快感など、目の前の光景を前にすれば一瞬で消し飛んでしまう。
「……やりすぎたか? いや、帝国の貴族どもの財布の底が抜けてるだけだな」
俺の目の前、塗料の剥げた作業台の上には、小山のような『黄金の峰』が築き上げられていた。
たった五枚の純銀ガラス鏡の代金(金貨二百五十枚)など、もはや誤差でしかない。
買えなかった者たち、そして俺という未知の存在に取り入ろうとする者たちから叩きつけられた『投げ銭』の総額。
ざっと見積もっても、金貨数万枚。
アルフェン王国の国家予算の数ヶ月分が、この薄汚れたボロ小屋の机の上に無造作に積み上げられているのだ。
「キュイッ! キュイイッ!」
ウニが黄金の山にダイブし、短い手足をバタバタと動かして『金貨のプール』を泳ぎ回っている。
硬貨がぶつかり合うチャリン、ジャラジャラという澄んだ音が、工房の薄暗い壁に反響する。
ウニが金貨を一枚くわえ、カリッと歯を立てようとしたので、俺は慌ててその小さな体を摘み上げた。
「こら、食い物じゃないぞ。お前の歯が欠けたらどうするんだ」
「キュウ……」
不満げに鼻を鳴らすウニを膝の上に乗せ、俺は手のひらで金貨の山をすくってみる。
ズシリと重い。
指の隙間から滑り落ちる黄金の滝が、魔力光の残滓を反射してキラキラと輝く。
二日前まで、俺は婚約破棄され、国を追い出され、泥だらけのドレス一枚で野垂れ死ぬ寸前の『悪役令嬢』だった。
それが今や、一夜にして帝都の経済のド真ん中に巨大な楔を打ち込む、最強の商人だ。
コンコンッ。
不意に、工房の入り口――先ほどレオンハルトが吹き飛ばし、今は即席の木の板で塞いであるだけの扉――から、控えめで礼儀正しいノックの音が響いた。
「セシリア様。夜分遅くに申し訳ありません。皇帝陛下直属、近衛騎士団第七部隊隊長のガランと申します」
分厚い木の板越しでもはっきりと分かる、よく通る低い声。
俺はウニを肩に乗せ、立ち上がる。
「どうぞ、開いていますよ」
ギィ……と板が押し退けられ、身を屈めるようにして入ってきたのは、全身を黒銀の重装甲で包んだ、熊のように巨大な騎士だった。
彼は俺の姿を見るなり、ガチャリと甲冑を鳴らして深く、それこそ王族に対するような最上級の敬礼をとる。
「警護の任、大儀です。ガラン隊長。私に何かご用で?」
「はっ。セシリア様の『通信』、我々も外で拝聴しておりました。……素晴らしいの一言に尽きます。帝都の貴族たちが発狂する声が、ここまで聞こえてくるようでした」
ガラン隊長は真面目腐った顔でそう言いながら、チラリと作業台の上の『金貨の山』に視線を向け、ゴクリと分かりやすく喉を鳴らした。
歴戦の騎士すらも動揺させるほどの、暴力的なまでの富。
「陛下より、二つの命を帯びて参りました。一つは、その莫大な売上を安全に保管するため、皇室専用の『無限収納鞄』をお渡しすること。ギルドのネズミどもが嗅ぎつける前に、すべてその中に収めていただきたいと」
彼は腰から、黒い革で作られた小さな巾着袋を取り出し、恭しく両手で差し出す。
空間魔法が付与された超高級品だ。これ一つで家が三軒は建つ。
俺はありがたくそれを受け取る。これで金貨の山を一つずつ数える手間が省ける。
「助かります。では、もう一つのご用件は?」
「……陛下より、セシリア様への『極上の夜食のスパイス』だそうです」
ガラン隊長が懐から取り出したのは、一本の細い竹筒だった。
両端が赤い蝋で厳重に封印されている。
情報ギルドや軍の密偵が使う、最高機密の伝令管だ。
俺は眉をひそめながらそれを受け取り、爪先で蝋の封印をカリッと削り落とす。
中から出てきたのは、極小の文字がびっしりと書き込まれた、一枚の薄い羊皮紙。
広げた瞬間、俺の鼻腔を新しいインクと、かすかな血と汗の匂いがくすぐった。
「……なるほど。そういうことですか」
俺の口元から、自然と冷酷な笑みがこぼれ落ちた。
羊皮紙に記されていたのは、国境の密偵から皇帝レオンハルトへ送られた、アルフェン王国の『現在』のリアルタイムな報告書だった。
『アルフェン王国、北のケイ砂鉱山にて大規模なストライキ発生』
『商人ギルド本部の通達により、すべての輸送馬車が出発を拒否』
『東のガラス職人街、宰相バルディスの使者を門前払い。王都への納品を完全停止』
『王都の市場にて、鏡および石鹸の価格が通常の十倍に暴騰。平民による小規模な暴動の兆しあり』
「ふふっ……あははははっ!」
俺は羊皮紙を片手で握りつぶさんばかりに持ち、腹の底から笑い声を上げる。
静かな工房に、俺の狂気を孕んだ笑い声だけが響き渡る。
ガラン隊長がビクッと肩を揺らし、肩の上のウニが「キュ?」と不思議そうに俺の頬を舐めた。
「た、隊長。驚かせてごめんなさいね。ただ、予想以上に彼らが『無能』だったもので、つい」
「……あ、あの、アルフェン王国で、何が起きているのでしょうか」
歴戦の騎士であるはずのガラン隊長が、俺の笑顔に明らかな恐怖の表情を浮かべながら恐る恐る尋ねてくる。
俺は羊皮紙を指先で弾き、楽しげに説明してやる。
「簡単なことです。私の祖国は今、自らの首を真綿で締め上げながら、窒息死へ向かって一直線に転げ落ちている最中なんですよ」
「窒息死、ですか」
「ええ。アルフェン王国の無能な王太子と宰相は、『公爵家の権限』さえあれば物流は動くと勘違いしていたんです。でも、実際の商売はそんな甘いものじゃない」
俺は作業台の上を歩き回るウニを撫でながら、言葉を続ける。
「北の気性の荒い鉱山労働者や、東のプライドの高い職人たち。彼らがなぜ、王国の安い買い叩きに耐えて商品を納めていたか。……それは、私が裏で私財を投げ打ち、彼らの生活を保障し、泥水をすするような交渉で『信用』を築き上げていたからです」
決裁印などただの金属の塊だ。
「セシリアお嬢様が言うなら、今回はツケで回してやる」。
その目に見えない『人間関係のネットワーク』こそが、王国の物流の正体だった。
それを、横領などというくだらない冤罪で切り捨てたのだ。
「私が追放されたという事実がギルドに伝わった瞬間、すべての歯車が逆回転を始めた。職人は仕事をやめ、運送屋は馬を止める。国庫には金が入らず、市場からは物が消える」
俺の言葉を聞くにつれ、ガラン隊長の顔からみるみると血の気が引いていく。
剣も魔法も使わず、ただ一人の少女が国を離れたという事実だけで、一つの国家の経済が数日で崩壊の危機に瀕している。
その事実が、騎士の常識を根底から打ち砕いたのだ。
「恐ろしい、女だ……」
ガラン隊長の口から、無意識にそんな呟きがこぼれた。
「最高の褒め言葉として受け取っておきます。……レオンハルト陛下にお伝えください。極上のスパイス、しかと味わいました、と」
俺は羊皮紙をキャンドルの火に近づけ、端からチリチリと燃やしていく。
赤々と燃え上がる炎が、俺の瞳の奥に邪悪な光を宿させる。
(さあ、アルベルト。バルディス。……物価高騰と暴動の炎に焼かれながら、せいぜい王城で震えているがいい)
お前らが俺の価値に気づき、泣き叫びながらすがりついてくる日は、もう目の前まで来ている。
だが、絶対に許さない。
俺は手元の無限収納鞄に、金貨の山をザラザラと流し込みながら、夜の闇に向かって不敵に微笑んだ。
「さて、明日の配信の準備を始めようか。次は……香水で帝国の令嬢たちの正気を飛ばしてやる」
世界を飲み込む経済戦争は、まだ始まったばかりだ。




