第96話 断絶の境界と、深淵なる監視者
氷の塔の最上階。そこに君臨していたはずの魔王軍四天王のうち、イグニス、アクア、ゲイル、テラの四人は、もはや立つことすら叶わず床に伏していた。新生ユグドラシル社の圧倒的な武力、そして何よりコーデリアの放つ冷徹な殺気が、彼らの戦意を根底から粉砕したのである。物理的な打撃を超えた絶望が、広大なラウンジを支配していた。
「……クソっ。確かにお前たちは強い。だが、俺たちは裏切り者である前に、神と契約したプロだ。……力で屈服させたところで、口を割ると思うなよ」
イグニスは血を吐き捨てながら、なおも不敵に笑おうとした。十倍の給与と福利厚生を盾にした、彼らなりの矜持であった。しかし、その虚勢はコーデリアが静かに歩み寄った瞬間に凍りついた。
コーデリアは魔法を振るうことはなかった。ただ、無表情に、かつて多くの部下を震え上がらせた「鬼のチーフ」としての静かな圧力を解放したのである。その場が、極寒の氷河から、窓のない密室の会議室へと変貌したかのような錯覚を全員が抱いた。
「イグニス君。契約、責任、そして進捗。……君たちは、それら全ての言葉を汚した。この不当な離職によって生じた弊害、および我が社への損害が、どれほどの額に上ると考えているのかしら」
コーデリアの低く、抑揚のない声が耳朶を打つ。それは暴力よりも深く、社畜としての本能に根ざした恐怖を呼び覚ました。
「損害賠償の請求、背任罪の適用、および……この業界での君たちの社会的評価の完全なる抹消。……理解できるわね? 私がその気になれば、君たちはこの世界のどこへ逃げても、二度と『まともな雇用』を得ることはできない」
「……あ、あが……」
イグニスの顔が、サラリーマンが深刻な不祥事を糾弾された時のような、土気色へと変わった。かつて前世で味わった「詰めの時間」のトラウマが蘇る。胃を握りつぶされるような不快感と、逃げ場のない心理的包囲網。彼はついに耐えきれず、涙を流しながら叫んだ。
「わ、分かった! 話す、話すからその目で俺を見るな! ガラハッド様は……あいつはもうここにいない! 葛城総理とアリス顧問が隠していた共同研究の極秘資料を奪って、世界の境界の先……『この世界を作った現実世界』へ向かったんだ!」
コーデリアたちは息を呑んだ. 彼らがかつていた社畜の世界でもなく、このデジタルの箱庭でもない。全ての事象を観測し、プログラムを記述した「創造主たちの現実世界」へと、ガラハッドは侵攻したのである。
「あいつは、闇のアルバイトであるシャドウだけを連れて行った。何で連れて行ったのかは分からないが……」
その凄絶な事実が語られた時、ラウンジの隅に陽炎のような揺らぎが生じた。気づけば、そこにタナカが立っていた。彼はいつ現れたのか、誰の視線も感じさせぬまま、古びた茶器を手にして佇んでいた。
「やれやれ。創造主の庭に土足で踏み入るとは、ガラハッド君も大胆なことをしますね」
タナカの言葉に、ライオネルが剣を構えた。しかし、タナカは音もなく移動し、既に数歩先で氷の壁に指を触れていた。彼の挙動は極めてミステリアスであり、物理法則そのものを超越しているかのようであった。
「タナカさん。あなたは何者なの」
コーデリアの問いに、タナカは静かに微笑んだ。その瞳には、単なる監査役とは思えぬ底知れない叡智が宿っていた。
「私はただの、見守る者ですよ。……ですが、このままでは現実世界からこの世界そのものが強制終了されてしまう。それを防ぐには、全人類を眠らせ、その意識を演算の盾とする『集団催眠ワークシェア』が必要です。……次はあちら側、本当の現実での出勤になりますね」
タナカはそう告げると、悪戯っぽく微笑んで霧のように消えた。彼が去った場所には、上位世界へと接続するための座標データが静かに浮遊していた。




