第27話:そのバグ報告は、世界の根幹を揺るがす
ログハウスのリビングには、重苦しい沈黙が垂れ込めていた。 テーブルの上に置かれた一本のネクタイ。 それが、かつてここにトリスタンという男がいた唯一の証明だった。
「……嘘だろ。あいつ、進捗管理の鬼だったじゃないか」
アーサーが頭を抱え、掠れた声で呟く。
「『納期を守れ』って、いつも俺たちを急かして……自分だけ先に定時退社するなんて、ありえねえよ……」
大の男たちが、子供のように肩を震わせて泣いている。 その姿を見て、部屋の隅に固まっていた魔王軍四天王――イグニスたちも、気まずそうに視線を逸らした。
「おい、女」
イグニスが私に声をかけた。いつもの傲慢さは消え、その顔には隠しきれない焦燥が浮かんでいる。
「俺たちは帰らせてもらう。こんな……訳のわからん『消滅』に巻き込まれてたまるか。俺たちは魔王城へ戻って、結界を張り直す」
「無駄よ」
私は冷め切った紅茶を見つめたまま、淡々と告げた。
「あの黒い光は、魔法防御力も物理耐性も関係ない。システム側からの《強制削除》なの。あなたたちがどこに逃げようと、IDを指定されれば、エンターキーひとつで終わり」
「なっ……! じゃあどうすればいいんだ!」
「ここにいなさい。この家の周囲には、私が構築した《認識阻害プロテクト》がある。今のところ、ここだけが運営の監視の死角になっているわ」
「ぐぬぬ……! 人間に守られるなど、四天王の面汚し……!」
屈辱に顔を歪めるイグニスだったが、それでも足は動かなかった。彼も本能で理解しているのだ。外に出れば「消される」と。
◇
私は感情を押し殺し、トリスタンが遺したデータをスクリーン(空中に投影した魔法映像)に映し出した。
「泣くのは後にしなさい。トリスタンが命がけで残したログを解析するわよ」
アーサーたちが涙を拭い、スクリーンを見上げる。 そこに映っているのは、先ほどの「窓の外に異世界の空が見えるオフィス」の写真だけではない。 解析を進めると、画像のプロパティ情報に、奇妙なデータが埋め込まれていることが判明した。
【Location: Server_Tokyo_03 / Layer: Mixed_Reality】 【Time_Dilation: -14400%】
「……東京サーバー? 複合現実(Mixed Reality)?」
ガラハッドが眼鏡の位置を直し、息を呑んだ。
「チーフ。これ、ただの異世界転生じゃありません。……この世界は、現実世界のサーバーリソースを食い荒らしながら拡張している《浸食型仮想空間》です」
「どういうこと?」
「トリスタンが言っていた『時計が逆回転していた』という言葉。……おそらく、この世界と現実世界では、時間の流れだけでなく、因果律そのものが捻じれているんです」
ガラハッドが震える手で仮説を語る。
「僕たちがここで魔法を使ったり、レベルを上げたりするたびに……その負荷は、現実世界の『何か』を消費して賄われている」
「消費って、電気代とか?」
「いいえ。……もっと人間の根源的なもの。例えば、記憶とか、存在感とか、寿命とか」
背筋が凍った。 私たちがここでスローライフを楽しんでいる間、現実世界の私たちの肉体、あるいは周囲の人々が、リソースとして削り取られている? それが《デスゲーム》の正体なのか。
「そして、この写真」
私が指差したオフィスの窓。 赤黒い空の向こうに、うっすらとだが、見覚えのあるシルエットが映っていた。 折れ曲がった東京タワー。そして、半壊した高層ビル群。
「現実世界も、もう無事じゃないのかもしれない」
部屋の空気がさらに重くなる。 帰り道など、最初からなかったのかもしれない。
その時。 私の隣で黙って話を聞いていたライオネルさんが、ふらりとよろめいた。
「……ライオネルさん?」
「っ……あ、ああ。すまない、少し目眩が」
彼が額を押さえる。 その指先が、一瞬だけ――本当に瞬きする間だけ――ノイズのように乱れたのを、私は見逃さなかった。
(……え?)
彼の美しい銀髪の一部が、テクスチャが剥がれたように透明になり、すぐに元に戻る。 トリスタンが消滅する直前の現象と同じだ。
「ライオネルさん、あなた……」
「大丈夫だ。気にするな」
彼は私の手を取り、強く握った。その手は冷たく、どこか無機質な感触がした。 彼は笑っていた。いつもの優しい笑顔で。 だが、その瞳の奥には、自分自身の異変に対する恐怖と、それを私に悟らせまいとする決意が混じっていた。
(気づいてるのね。自分が、この世界の《異物》になり始めていることに)
私は何も言えなかった。 今、それを指摘してしまえば、彼が音を立てて崩れてしまいそうで。
「……解析を続けましょう」
私は声を絞り出した。
「運営の本拠地を叩くには、各地にある《制御塔》を制圧して、管理権限を奪う必要があるわ。……最初のターゲットは、東の海にある海底神殿よ」
「行きましょう、チーフ。トリスタンの仇討ちです」
アーサーが立ち上がる。 四天王たちも、しぶしぶといった様子で腰を上げた。
「しゃーねぇ。ここで待ってても消されるなら、暴れてやるよ」 「魔王軍の火力をナメるなよ!」
呉越同舟の即席チーム。 だが、今の私たちにはこれしか手がない。
私は窓の外を見た。 赤黒い空には、うっすらとデジタル時計のような数字が浮かんでいた。
【Count Down: 23 Days】
時間は待ってくれない。 仲間が消え、世界が壊れ、愛する人がバグに侵されていく。 それでも私たちは、前に進むしかないのだ。
「出発は明朝。……今夜は、最後の晩餐(宴会)にするわよ」
私の号令に、誰も反対しなかった。 明日、誰が欠けているかわからないのだから。




