第12話:保留案件(ペンディング)の棚に、世界危機をそっと置く
「……ライオネルさん」
「なんだい?」
「今日の夕飯、クリームシチューじゃなくて、カレーにしてもいいですか? 刺激が欲しい気分で」
「ああ、もちろん。君が作るものなら何でもご馳走だ」
隣を歩くライオネルさんは、いつもの穏やかな笑顔だった。 さっきの謎の青年――タナカ(仮)が言っていた《ウイルス》という単語。 そして、空に浮かんでいた赤い警告文字。
それらは、青年が姿を消すと同時に、私の視界からも綺麗サッパリ消えていた。
(夢……だったのかしら?)
いいえ、違う。 ポケットの中には、タナカが「連絡用だ」と言って押し付けてきた、無骨な通信端末(どう見ても前世のスマホ)が入っている。 現実はシビアだ。世界はバグっていて、私の隣にいる最愛の推し(婚約者)は、世界を滅ぼす原因かもしれない。
普通ならパニックになるところだろう。 だが、私は元・社畜。 数々のデスマーチを乗り越えてきた私の脳内会議は、わずか3秒で結論を出していた。
【結論:一旦、忘れる】
これだ。 解決策の見えない巨大なトラブル(世界滅亡)より、目の前のタナカの戯言(30日後に初期化)より、まずは**「今夜のカレー」と「明日の畑仕事」**だ。 遠い未来の納期を気にして今日を疎かにするのは、三流のやること。優秀なエンジニアは、タスクに優先順位をつけて処理するのだ。
(それに、30日後と言っても、この世界の時間軸とあっちの感覚が同じとは限らないしね。……よし、この件は《保留》ボックスへシュゥゥゥッ!)
私は脳内の「未解決案件フォルダ」に世界危機を放り込み、蓋を溶接した。
「コーデリア? どうした、急に真顔になって」
「いえ、なんでもないです。ただ、ライオネルさんが素敵だなと思って」
「っ!? ……急にどうしたんだ。心臓に悪い」
顔を赤らめるライオネルさん。 もし彼がウイルスだとしても、こんなに可愛いウイルスなら感染しても本望だ。私は彼の腕にギュッと抱きついた。
「帰りましょう、私たちの家へ」
「……ああ、帰ろう」
◇
家に帰ると、リュカが尻尾をブンブン振って出迎えてくれた。 平和だ。 先ほどの「影」による襲撃で、庭の木が一本消滅してしまったが、それは「風通しが良くなった」とポジティブに捉えることにした。
夕食後。 ライオネルさんが帰宅(といっても、最近はほぼ毎日泊まり込んでいるが)したあと、私は一人、自室のベッドでスマホのような通信端末を取り出した。
画面は真っ暗だ。電源の入れ方もわからない。 ただの黒い板に見えるそれを、私はサイドテーブルの引き出しの奥へと仕舞い込んだ。
「……タナカ、か」
懐かしい名前。でも、今はまだ彼と関わる時じゃない気がする。 この世界が「開発中止になったクソゲー」だとしても、私にとっては、ようやく手に入れた「理想の職場」なのだ。
「誰にも邪魔はさせない。運営だろうが、元後輩だろうが……!」
私は拳を握りしめ、ふかふかの枕にダイブした。 明日からはまた、忙しくなる。 なにせ、まだ庭の開拓は終わっていないし、噂によると隣の領地で「ダンジョン騒ぎ」があるらしいし、アリス嬢も懲りずにまた何か企んでいる気配がする。
物語はまだ始まったばかり。 世界を救うのは、もっと畑を広げて、温泉を掘り当てて、ライオネルさんとイチャイチャした後でも遅くはないはずだ。
「……ふあ。おやすみ、リュカ」 「クゥン(おやすみ、主)」
私は泥のように眠った。 引き出しの中の端末が、一瞬だけ微かに青く明滅したことに気づかずに。




