第106話 ヌル・ポインタの嘲笑
超現実の深淵——そこは、もはやオフィスの形を保つことすら止めていた。 壁は脈打つ肉壁のような、それでいて鋼鉄よりも硬質な「概念の塊」へと変貌し、至る所で現実世界の「物理法則」が火花を散らしてショートしている。
「……何かが、おかしいわ」 コーデリアの額に、初めて冷たい汗が伝った。 手にしたバインダーに表示されるシステムログが、真っ赤に染まっている。これまで彼女が培ってきた管理権限が、砂の城のように足元から崩れ始めていた。
「コーデリア殿……見ろ、空が……『剥がれて』いる!」 ライオネルが指差した先、超現実の天蓋に、巨大な黒い亀裂が走り始めていた。そこからは、光すら吸い込む「無」が、液体のように滴り落ちている。
詰んでいた「救済」
中央コンソールから、アリス顧問の残した最後の音声ログが自動再生された。ノイズ混じりのその声は、絶望を通り越して、ある種の歓喜に満ちていた。
『……葛城総理。気づいていますか。この世界というシステムは、すでに「修復不可能」な領域にまで腐敗しています。私たちが超現実に侵攻したのは、支配するためではありません。この世界の「削除ボタン(リセット)」を押すためです』
コーデリアの瞳が大きく見開かれた。
『この階層に「シャドウ」という無の属性を招き入れた瞬間、全宇宙のメモリ解放が強制始動します。シャドウを正当なプロセスとして認めても、認めなくても、結果は同じ。……彼が存在するだけで、この世界は「エラー」として処理され、消去される。……最初から、詰んでいたのですよ。この世界は』
「なんですって……?」 コーデリアがシャドウを振り返る。 正社員として雇用し、秩序を取り戻したはずのシャドウ。しかし今の彼は、その全身から黒い霧を噴き出し、周囲の現実を猛烈な勢いで「無」へと還元し始めていた。
彼を「正社員」として定義したことで、システムは「削除」を「正当な業務プロセス」として誤認してしまったのだ。コーデリアが下した最適解こそが、世界の崩壊を決定づける最後の一押しとなってしまったのである。
下層:物理的崩壊の始まり
一方その頃、超現実の下層——全宇宙のゴミデータが蓄積される「隔離サーバー」では、文字通りの地獄が顕現していた。
「ぎ、ぎゃあああ! 足が、俺の足が消えていく……!」 イグニスが絶叫した。 彼が仕分けていた「失恋の記憶データ」と共に、彼自身のポリゴンがノイズに混じって削り取られていく。物理的な負傷ではない。存在そのものの定義が「無」へと書き換えられているのだ。
「誰か……助けて……! ゴミ拾いはする! 残業もする! だから、消さないでくれ!」 アクアが泣き叫びながら、消えゆく自分の腕を必死に掴もうとする。だが、その指先すらも、超現実から溢れ出した「無」に触れた瞬間、デジタルの塵となって霧散した。
「コーデリア様……! 命令を……命令をください! 働きます、死ぬ気で働きますから……!」 テラとゲイルが、もはや形を成していないキーボードを叩き、存在を繋ぎ止めようと足掻く。 しかし、彼らの頭上に浮かぶ「ノルマ表示」は、すでに『全データの消去』という絶望的な一色に染まっていた。彼らがどれだけ働こうと、その労働は「自分たちを消すための作業」へと変質していた。
回避不能の終焉
「……なんてこと。アリス顧問は、世界を救うために世界を殺す道を選んだのね」 コーデリアがコンソールを叩く。だが、どのコマンドも『アクセス拒否』を吐き出す。 シャドウの周囲では、リュカですらも「もふもふ」の毛先がノイズに侵食され、苦しげに鳴いている。
ライオネルたちの剣も、鎧も、そしてこの超現実という「究極の現実」すらも。 すべては今、巨大な一つの「ゴミ箱」に向かって流れ始めていた。
「ガラハッド君、あなた……何てものを連れてきたのよ」
「……は、はは……。俺も知らなかったんだ……。ただの鍵だと思っていた。……俺たちが神になろうとした場所が、自分たちの墓場だったなんてな……」
ガラハッドが力なく笑う。 宇宙のマスターソースが、内側から静かに、そして確実に、崩壊の音を立てていた。




