《第1章 第5話 風は記憶を運ぶ》
夕刻の風が、遠い記憶の香りを運んできた。
桐生ひよりは静かに立ち止まり、目を閉じる。風が頬を撫でるたび、
胸の奥に微かに疼く“声にならない旋律”が響く。
——聞こえる。誰かの名を、風が呼んでいる。
崩れかけた神殿の外縁に、風花のような光が舞っていた。
それは花ではなく、記憶の断片。桜魂が風に溶け、
世界のどこかで生き続ける者たちの「息」を伝えていた。
ひよりはその光の一つを指先で掬う。
淡い桃色の粒が、ふっと光り、やがて彼女の心象に映像を結ぶ。
——そこには、久遠朝臣の姿があった。
彼は微笑んでいた。だがそれは、かつての“人”としての彼ではない。
風に変わった魂、つまり桜魂そのものの意志が、
朝臣という形を借りて、ひよりの記憶に触れたのだ。
「……あなたは、まだそこにいるのね」
呟いた声は、風に溶ける。
返事の代わりに、優しい気流が頬を撫でた。
空の彼方で、幾重にも重なる風音が鳴る。
それはまるで、過去と未来が交錯する“共鳴音”のようだった。
彼女の髪が揺れ、桜色の羽衣が光を散らす。
その瞬間、ひよりは理解した——これはただの風ではない。
桜魂の残響(Resonance)。
彼女が継承した魂の、最後の呼吸が世界を巡っているのだ。
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風の流れが変わる。
砂と花弁が渦を描き、音もなく空へ昇っていく。
ひよりはゆっくりと歩き出した。
足元の花びらが靴音に共鳴し、淡い光の帯を残す。
その道は、彼女が過去へ還るための道ではなく、
未来を“風として見送る”ための道。
「——朝臣。私は、まだ歩けるよ」
声は微かに震えていた。だがその震えには、恐れではなく、
“再会の確信”が宿っていた。
彼女の胸の奥で、桜環が淡く輝く。
輪の中心で、桜魂核の光が呼応し、
かつて継承者たちが交わした誓いが静かに蘇る。
〈風は記憶を運ぶ〉
〈記憶は魂を呼び覚ます〉
〈魂は風となり、また新たな命を見つける〉
その声はもう、誰のものでもなかった。
——ただ“世界そのもの”が、彼女に語りかけていた。
光が収束し、風が止む。
ひよりの瞳に映る空は、淡い桜色を帯びていた。
そこに、確かに風が在る。
そしてその風の奥に、久遠朝臣の微笑が残っていた。
「ありがとう、朝臣。
この風が止まらない限り、私はあなたを忘れない——」
風が再び吹き抜け、
桜の花びらが、記憶のようにひよりの背を押した。




