34.
シャリシャリと薄く凍った雪が鳴る。昨日の陽気も、路地裏までは届かなかったのだろう。表通りに出ると、剥き出しのアスファルトを踏みしめた。木陰には、薄茶色の雪が積まれていた。なんとなしに、それを眺めつつ歩く。
「おい、お前。その格好で行くつもりか?」
市民ホールを見上げていると、いつもの無骨な声が耳を叩いた。
「お前こそ、目立ち過ぎじゃないか?」
雅楽は、体に張り付いたような黒スーツ姿で現れた。筋骨隆々の大男の出で立ちとしては申し分ないが、威圧感が凄まじい。
「そろそろ、式が終わる頃だな」
雅楽は腕時計をチラリと見やり、背筋を伸ばした。
「おい、お前が張り切ってどうする。今日の主役は、あの子たちだろ」
「蓮、お前の方こそ思慮が足りん。第一、そのパーカー、いったい何年着ているんだ? 晴れの日に小汚い格好で現れるな」
「おい……喧嘩売ってんのか?」
知らぬ間に声が低くなっていた。雅楽が怪訝な顔をし、ゆっくりと息を吐く。
「……悪い、少し言い過ぎた。忘れてくれ。さて、新しい時代の幕が上がるぞ」
市民ホールから、色鮮やかな振袖姿が一つ二つと現れた。さざなみのような喧騒が外気に飛び出す。幼さを残しながらも、自信に満ちた瞳。それは新たな世界の広がりに上気し、朝露のように一面に広がった。
「蓮っ! 久しぶりじゃん!」
一際明るい声が飛んだ。落ち着いた緑色のドレス姿が、乾いた陽射しに照らされる。
「……大人っぽく、なったな」
美桜とはここ一年ほど会っていなかった。時の長さは決して均一ではない。
「なに鼻の下伸ばしてんのよ、エロガッパ。それと、エロ天狗もね」
芽稲はシックなスーツ姿だった。無駄を削ぎ落としたオーラ。今や世界的ダンサーとして活動する彼女からは、昔と変わらぬ達観した空気が漂っていた。
「おいおい、カッパと一緒にするのは勘弁してくれよ」
ここ最近、芽稲とオロチは共演する機会が重なったこともあり、軽口の応酬はいつものパターンになっていた。
「蓮、久しぶり」
「久し……ぶり、だな」
純白の生地に、奥ゆかしくも鮮やかな花が咲く振袖。それに身を包んでいたのは、日菜子だった。白い肌と迷いのない黒髪が、彼女の持つ一貫した芯の強さを物語っている。
「蓮、鼻の下」
以前は見下ろすだけだった美桜の顔を、俺は苦々しく見つめ返した。
「ふん。でも、良い日だな、今日は」
見上げた空には、透き通るような青がどこまでも広がっていた。
「————しかし、日菜子が弁護士とはな」
雅楽がコーヒーカップを置き、ソファにずしりともたれかかる。今にも悲鳴が聞こえそうだ。
「まあ、彼女らしいと思うよ。きっと、いい弁護士になるだろうな。痛みを知る者でなければ、他人の痛みは理解できないからな」
「おっさん臭いこと言うな。俺は今、全身が痛いよ」
「だから、それはお前のその格好のせいだろ」
美桜たちと立ち話をしていると、いつの間にか周囲に人だかりができていた。雅楽、そして芽稲に気づいた人々が騒ぎ出したのだ。
夕方にまた濱家寿司で会うことになり、雅楽と俺はその隣にある珈琲店に入った。
「それにしても、美桜は綺麗になったな」
「そうだな……」
考えてみれば、初めて美桜に会ったのもこの近くの暗渠だった。珍しく涼しい夏の夜、歩いてくる二つの影。俺は心に蓋をし、浮き始めた視線を目の前の大男に戻した。この作業にも、もう慣れたつもりだ。
「……まあでも、相変わらず美桜の考えることは面白いよな。宇宙飛行士、と来るとはな……」
「あん? うん……そうだな。難しい選択をしたよな」
——私はね、いつか、絶対に花梨を見つけてやるんだから——
迷いのない大きな瞳。美桜にだけ見えているその景色が、俺の目には映らない。座っているのが落ち着かなくなり、席を立ってトイレに向かった。
「……だからよ、それはまだ分からないんだろ? 今のあいつにそれを言っても、また無茶苦茶になるだけじゃないか」
席に戻ろうとすると、店内には食器の触れ合う音が規則正しく鳴っていた。その隙間から、雅楽の潜めた声が聞こえた。
「……でも、いくらそれが花梨ちゃんだとしてもさ……」
足音が早鐘を打つ。トレイを持った店員が驚いて振り返った。
「——おいっ! 今の、どういう意味だっ!?」
凍りついたような雅楽の顔が、やがて諦めに変わる。そして立ち上がると、俺を上から見下ろした。
「外に出よう。店に迷惑だ」
駐車場を抜けると、雅楽は交差点の脇に立つ古びた祠の前で立ち止まった。祀られた地蔵が、立会人のように鎮座している。
「おい、花梨がどうしたんだ?」
雅楽は目を閉じ、時が止まったかのようにゆっくりと息を吐き出した。
「二ヶ月ほど前に、南極付近で桁外れのエネルギー値が計測された。それはあの日、二人の女王が消失した日に観測されたものに限りなく近かったそうだ」
「やはり、電話の相手はゴローPだったのか」
「話は最後まで聞け。その観測地点に向かうと、記録にはない巨大な海溝が見つかった。探査艇の調査では、マリアナ海溝よりも深いことが判明した」
雅楽はそこで言葉を切り、こちらを直視した。
「今の技術では、潜ることのできない深さだそうだ。したがって、調査は打ち切られることになった」
「……待て。それなら、俺が行く」
「だからお前には言わないでいたんだっ!」
雅楽の体が大きく膨らんだ。
「そこにいるのが花梨ちゃんだかどうかも分からないんだぞ! どんな危険があるかも不明だ。今の時点では確認のしようがない。何もお前が行く必要はないだろう?」
「……何故、早く言わなかった……おいっ、なんでもっと早く教えなかった!」
胸ぐらを掴み、赤い瞳を睨みつける。雅楽の背後にある電柱が大きく揺れた。
「お前はどうせまた無茶を言って行っちまうだろう!? 良いか、まだ花梨ちゃんだと決まったわけじゃない。ただの未発見の海溝という可能性だってあるんだ」
「俺なら行ける」
「おいっ!! お前はもう水龍じゃないんだぞ!! 生身で深海になんか、いけないんだよ……だから、俺もゴローPもお前には伝えなかったんだ。いいか、潜っちまったら、誰もお前を助けられない。そんな場所に、俺はお前を行かせられない」
中年の女性が、飼い犬に話しかけながらそばを通り過ぎる。チラチラとこちらに向ける視線を隠しきれていなかった。
「分かったら離せ」
雅楽は襟元を正すと、再びため息をついた。
「いいか、蓮。花梨ちゃんはこの世界を救い、俺たちに託したんだ。俺たちは、俺たちにできることをやるんだ。それが、花梨ちゃんの気持ちに応えることになるんじゃないか?」
「……六年だ。もう、六年経った。街から瓦礫は消え、人々に笑顔も戻った。オロチも世界的に活動するまでになった。だがな……何も終わっていないんだよ、俺の中では」
雅楽が見せたことのない表情でこちらを見ていた。
「なあ、雅楽。俺はこう思うんだ。この六年間、俺は世界を回り続け、数えきれないほどの人たちを熱狂させた。人々は前を向いて、新しい世界を作り始めている。花梨との約束はもう、十分に果たしたんじゃないかって。だから……今度は、俺が自分への約束を果たす番なんだと思う」
吹き下ろした風が、二人の間を静かに通り抜けた。物言わぬ地蔵の前で、互いに瞳の奥に何かを見つけようとした。
「……分かったよ」
雅楽が諦めたように、三度目のため息をついた。
「いずれ、こうなることになっていたんだろうな」
「雅楽……」
「ゴローPに、連絡を取ろう」
その瞬間、燃え盛るような紅い瞳から、一つの炎が消えたように見えた。
デッキに出ると、凍てつく空気と手加減のない剥き出しの陽射しに襲われた。そこは、眠らぬ太陽が支配する、異なる理を持つ世界だった。
「まったく、圧倒されるよね」
ゴローPの口から白い息が漏れた。砕氷船は、色彩のない世界をゆっくりと進む。それはさながら、太古の巨大生物の背中に乗っているような気分にさせた。
「この景色を見ていると、自分の存在なんて取るに足らないものに思えてくるよ。ま、実際にその通りなのかもしれないけれど」
「あの……ずっと聞きたかったんですけど、ゴローさんはなんでオロチを作ったんですか? 八岐大蛇を退治するだけなら、俺たちを集めて戦わせるだけで良かったじゃないですか」
ゴローPは遠くを見つめていた。その先では、棚氷が崩れ、巨大な氷山が新たな産声を上げていた。その緩慢で荒々しい轟音は、時の流れから見放された悠久の遠吠えだった。
「見えたんだよね。八人が、瓦礫の中で踊る姿がさ。きっと、これは僕が必ず成さなくてはいけないことなんだって直感したんだ。そして、実際その通りになった。君たちは、人々の希望となったんだよ」
ゴローPは白く眩い空を見上げた。砕氷船が氷山を打ち砕き、骨を揺らすような振動が響く。
「たまに思うんだ。僕たちは、生まれた瞬間からずっと何かを探し続けているんじゃないかって。それは、形は違えど『もう一人の自分』、あるいは『引き離された半身』のような存在なんだと思う。そして、それは簡単には見つけられないようにできている。だから僕たちは、常に何かを選択し、前に進み続けなくてはいけないんじゃないかってね。長い時の果てで、僕はそれを見つけることができた。オロチの八人と出会うことでね」
白夜に夜は訪れないと人は言う。だが、夜がないということは、昼もないということなのだと思う。ここは、片割れを失い、自らの姿をもなくした場所なのかもしれない。
————水深、1,000メートル。
太陽の光が消えた、漆黒の世界。ぼんやりと発光するクラゲを目指し、深度を下げる。
巨大な影がモニターを横切った。おそらく、餌を求め闇の世界まで降りてきたマッコウクジラだろう。タッチパネルでバッテリーが十分にあることを確認し、速度を上げた。一人乗り潜水艇の操作は、右手に握ったスティックで行う。モニターを見ながら進む様は、傍から見ればゲームをしているように映るだろう。
人々は深海の世界を宇宙に例える。巨大化したグソクムシやイソギンチャクを目にすれば、ここが火星だと言われても疑いはしないだろう。
俺はいったい、どこにいるのだろうか。規則正しく鳴り続ける機械音、時折響くソナー。さらに深度を下げ、この星の深淵へと降りていく。
————水深、7,000メートル。
永久凍土の遥か下にある、永遠に陽の光が届かない世界。生物の気配はほとんど感じられなくなった。時折、白い亡霊のような影がモニターに映り込む。驚くべきことに、この極限の世界にも生物は存在している。光も音もない場所で、人知れず彼らの時は刻まれ続けている。
————水深、12,000メートル。
暗闇にも種類があることが分かる。氷点に近い水温のこの世界では、無機物と有機物の違いもあやふやになる。モニターに映り込む影。それが果たして実在するものなのか、もはやどちらでも良くなっていた。バッテリーの残量を確認する。花梨の気配は、まだ無い。
————水深、15,000メートル。
音の無い世界が軋み始める。金属の悲鳴、鳴り響く警告音。
事前に告げられていた限界深度をすでに超えていた。モニターに映るものは何もない。けたたましい警報と振動。澄んでいた意識が、強制的に地上へと引き戻される。
「ここまでか……」
だがその時、混沌とした音の洪水の中で、甲高い電子音を聞き取った。画面を見ると、ソナーがさらに深い場所にある「何か」に反応していた。
「何かが……いるのか?」
だが、バッテリーは浮上に必要な残量を切ろうとしていた。振動がさらに大きくなる。ガゴン、ガゴンと異様な音が響く。潜水艇が耐えられる水圧の限界を超えたのだ。
「クソが!」
緊急浮上スイッチに手を伸ばす。だが、指がそれ以上の動きを拒絶した。驚愕の目で、俺は自分の手を見つめた。
ボコ、ボコと異様な音を立てる機体。明滅する赤いランプ。脳裏に浮かんだのは、雅楽をはじめとするオロチのメンバーたちだった。
「すまない……」
指は、極めて自然な動きでタッチパネルを操作した。そして、すべての機器が停止した。
暗闇の中、金属が歪む悲鳴に身を任せる。そして爆発音。身体中に衝撃を受け、視界が乱れる。次の瞬間、無限の暗闇へと放たれた————
静かな水の中を、沈むように泳ぐ。白鱗の表皮を、ひんやりとした温もりが包み込んでいた。
もはやここがどこかは関係はなかった。岩壁にへばりつく小さな友人たちを眺める。色とりどりの奇妙な形をしたその生物たちは、こちらには何の興味もないらしい。己の目的地へと、もぞもぞと歩いていた。
体をくねらせる。水流と一体となり、一気に下降する。岩壁はやがて、一つの場所へと収束していった。
淡く輝くその場所には、小さな寝息だけがそっと響いていた。そして僅かに堆積した白砂の上に、その姿はあった。
寝息が消え、静寂に満たされる。やがて貝殻がゆっくりと開くように、その瞼に一筋の隙間が現れた。




