32.揺れる海面
吹き付ける雨の中を、二つの巨大な影が進む。打ち付ける雫に、顔を背けるものはいなかった。それぞれがその胸に想いを秘め、ただ一点を見つめていた。
「振り落とされるなよ!!」
雅楽が風雨に負けじと叫んだ。吹き付ける風が一段と攻撃性を増す。美桜たちはミンジェの背中に埋もれるようにしがみついていた。
「しかし、どうする!? これじゃあ例え近づいても、声なんか掻き消されちまうぜ!?」
「わからないっ!! でも、近づかなきゃなにも出来ない!! ギリギリまで接近してくれ!!」
立ち昇る水柱を掠めるように進む。明滅する光の果てに、不気味に佇む巨大な影が見えてきた。その時、背後から複数の轟音が迫ってきた。振り返ると編隊を組んだ戦闘機がすぐ隣を横切っていった。その直後、目の前で激しい爆発が起きた。橙の炎を噴き上げ、戦闘機は海面へと吸い込まれていった。
「なんてことだ……」
黒煙を抜けると、その破壊神は姿を現した。赤黒い髪を生き物のようにうねらせ、周囲に禍々しい瘴気を放っている。近づくにつれ、内臓を締め付けるような痛みが強くなった。
「……うっ、大丈夫か、雅楽……?」
「……ああ、なんとかな。しかし、間近で見ると、おぞましいな」
雅楽の言いたいことはわかった。目の前にそびえるのは、邪神と呼ぶに相応しい巨大な怪物。だが、その真っ赤な顔貌は、花梨そのものだった。
「もっと、顔の近くへ」
雅楽が上昇し、邪神の面前を旋回する。だが、その紺碧の瞳には何も映っていなかった。
「どうやら俺たちに気付いてすらいないみたいだな!? どうする、蓮!?」
雅楽がこちらを見上げる。俺は大きく息を吸った。
「花梨っっ————!! もうやめるんだぁっっ!! 俺は生きているっっ!! 戻ってくるんだぁっっ————!!!!」
だが、縦横に吹き荒れる雨の中で、俺の声は虚しく掻き消えるだけだった。
「ったくっ!! 何なのよ、あの赤い顔っ! これで目を覚まさせてやるっ!!」
美桜はミンジェの背中に立ち上がると、大きく振りかぶり体を一気に捻った。豪雨を切り裂く弾丸が無低海大陰女王の頬にボコりと当たり、落ちた。
「砲丸投げの玉!? おい美桜っ!! 迂闊に手を出すと反撃されるぞ!?」
やはり、その紺碧の瞳に変化は無かった。
「……なによ……完全に無視なわけ……? ホント、頭に来る……」
「……いや……まて……!」
ゆっくりと虚無の瞳がこちらを向いた。同時に、振り撒かれていた瘴気が一瞬だが乱れた。
「花梨っ!! 聞こえてる!? 私だよっ!! 美桜だよっ!!」
その声に反応するように雨音が弱まった。
「私さ、ずっと花梨のことを、守らなくちゃって思ってた。そうしないと何処か遠くへ行っちゃいそうで。でも、違ったんだよね……私はさ、ただ一緒にいるだけで楽しかったんだ。一緒に学校に行って、部活して、回転寿司に行って……ほんと、それだけで十分だったんだよ。だから……だからっ!! そんなとこいないで、早く戻ってこいっっ!! 学校で浮いちゃったり、変な推し活したり、また馬鹿なことたくさんしようっっ!!」
その瞬間、紺碧の瞳が微かにだが揺れ動いた。辺りには、水滴が海面を打つ音だけが細波のように響いていた。日菜子は震える美桜の肩をそっと抱き寄せると、沈黙の女王に向き直った。
「私は以前、あなたにこう言った。呪われた力と共に生きていくしかない、と。でも、今はそれを否定する。ある人に言われたの。確固たる自らの意志で行動するとき、その魂は輝きを持つ。私はもう、この力を呪いだとは思わない。ねえ、花梨……あなたも憎しみや絶望に負けないで! あなたはかつて、そっと私に手を差し伸べてくれた! あなたの優しさは、あなたの魂を常に輝かせていた!! だから、戻ってきて!! 花梨っ————!!!!」
その時、無低海大陰女王の顔に、一筋の亀裂が走った。
「花梨……?」
だが同時に、黒い稲妻が上空をほと走り、肌がひりつくような衝撃に包まれた。
「————ぃうっ、ま、まずいっっ!! 全員つかまれぇっっ!!……」
美桜たちを載せたミンジェと雅楽が突如急降下を始めた。
「————ミンジェっ! あそこだぁっっ!!」
雅楽が叫んだ先には、海面から突き出たビルがあった。悲鳴と焦燥。雅楽の背中から放り出され、景色が激しく回転する。
「我に掴まれ」
「芽稲……!?」
芽稲に導かれ、体を丸めるようにビルの屋上に転がり落ちた。
「だ、大丈夫……か、蓮?」
「あ…….あぁ……」
体で抱きかかえるようにしたお陰で、ギターに損傷は無かった。ミンジェが守ったのだろう、美桜と日菜子には怪我は無いようだった。だが、ミンジェは人間の姿に戻り横たわっていた。
「————お邪魔虫は駆除しないとね」
歌うような明るい声だった。意識して排除していた最悪のシナリオの始まりだった。
「……田中、莉羽澄……いや、造物大女王っ!!」
「やっと言うこと聞くようになったのに、勘弁して欲しいな。大変だったんだよ? あの子、ガチガチに心塞いじゃってさ。コントロールしやすいように、幼い頃に家族を皆殺しにしたのにさ。憎悪を植え付け魂を歪ませるつもりだったのに、馬鹿みたいに自分のことを責めちゃって。ほんと、面倒くさい」
淡い山吹色の着物の周りを、雨さえも避けて通る。アーモンド型の薄茶の瞳、透き通る純白の肌。眩しい笑顔と冷酷さは調和する。冷たい空気が辺りを支配した。
「この子は、私がプロデュースするのよ」
「————ニゲテクダサイッッ————!!!!」
檮杌の姿へと戻ったミンジェが壁のように立ち塞がる。そしてその体は鮮やかに血飛沫をあげ、弾け散った。
「っな…………」
「近づくな。彼奴の攻撃は受けたら最後、内側から体を破壊される」
「芽稲っ!?」
「我も一度あれを受けたから解る。あれは攻撃などではない、破壊そのものだ」
「あら? いつかの狐ちゃんじゃない? すっかり見た目が変わって気が付かなかったわ。その通り、私は人の内面に潜む負の感情を増幅出来るの。妬み、嫉み、後悔、恐怖……此の世にいる者たちは、皆等しくそれらの奴隷なのよ。あなた、天狐ね? とても綺麗」
「我が時をかせぐ。蓮、花梨の意識は揺れている。其方の声なら届くはずじゃ。頼んだぞ」
「芽稲……お前は一体?」
「遥か昔、花梨……いや、あの女王に叩きのめされてのう。誓約させられたのじゃ。無益な殺生をせぬこと。そして、女王が求めた時には応ぜよと」
「それで、花梨が危険な時に現れていたのか!?」
芽稲は、ふわりと白銀の髪を揺らす。
「あら? 私とやるつもり? 可愛い子は嫌いじゃないけど、今は遊ぶ気分じゃないのよ」
その瞬間、二人の姿が同時に消えた。遥か上空で、白と黒の稲妻のぶつかり合いが始まった。
「おい蓮、あとはお前の番だ。行ってこい」
雅楽の力強い目を受け止め、静かに頷き返す。屋上の端まで歩き、さらに一段高いところへ続く梯子に足をかけた。梯子を上り切り、降り落ちる雨を顔全体で受け止める。目を開けると、沈黙を貫き通す異界の女王がいた。
「……康平……美桜……始めるぞ」
Gibson J-45のネックをゆっくりと握り、目を閉じる。明滅していた光が消え、雨音が遠のいていった。そこは深海だった。
ゆっくりと息を吸いこみ、そして吐いた。
打ち鳴らされた弦が、止まない雨を震わせる。
————私、あんたに推し変する!! 生きていく場所が無いんでしょ? それなら自分で作ればいいじゃない————
いつも、君には驚かされた。
————今日からあなたは水瓜蓮ね。よろしくね、蓮————
人の為に、いつも全力になる。
————蓮から見たら、私もこの花火みたいに一瞬の存在なのかな————
一人で孤独に耐え続けていた。
————聞いて、白蓮。あの日、何も告げずに去ったのは、あなたを巻き込みたくなかったからなの————
いつもそうだ。君は一人で行ってしまう。
————蓮————
…………もう、君を決して離しはしない
「二人だけの、場所に帰るために————」
————届け
————届け
————届けっ!!
気がつくと、雨は止んでいた。だが、見上げた女王に変化は無かった。ネックを強く握りすぎていることに気がつき、ゆっくりと剥がした。これでも届かないのか。いったい、これ以上どうすれば。
「————イライラする」
どさりと何かが投げ捨てられた。
「芽稲!?」
美桜と日菜子が駆け出した。
「……死んで……る?」
「まったく、手間かけさせて……あんた達も死になさい……ん?」
造物大女王は突然高笑いを始めた。理解の及ばない言動、縛られたように皆が、その場から動けなかった。だがその時、雅楽の無線機からノイズが漏れた。我に返った雅楽が腰につけた無線に目を向けた。
「————雅楽——蓮——すぐに退避だ——核が発射された——我々も退避を始める——可能な限り、遠くへ——」
無線はそこでぶつりと切れた。
「アハハハハっ! これだから人間は面白いのよね! あと数分で、核ミサイルがここに降り注ぐわよ。残念、あなた達は人間の手によって死ぬのよ。それにしても、自分たちの星を破壊する生物なんて他にいる? ほんと、可愛い」
「そ、そんな……」
雅楽は力無く腕をだらりと下げた。美桜と日菜子は身を寄せ合い、表情を無くしていた。血に染まったミンジェと芽稲が全ての状況を物語る。再び強まった雨には、血の香りが混じっていた。
「それと、私とあの子には核攻撃なんて意味ないからね。私たち二人は、特別だから。さ、そろそろ来るわよ」
大気を切り裂く轟音が響く。一つ二つとそれは増え、すぐに音の塊となり辺りを取り囲んだ。
「クソがぁっ!」
雅楽が潰れた翼を広げようと立ち上がった。だが、千切れた羽が痛々しく揺れるだけだった。
「美桜、日菜子、飛び込むぞ! 海中に逃げるぞ!!」
海面はゆらゆらと揺れていた。立ち止まるわけにはいかない。美桜と日菜子の手を取り立ち上がらせる。だが、二人とも動く意思を失っていた。
「歩けっ!!」
大気の振動が一際大きくなる。そして、全員が空を見上げた。雲間からミサイルの先端が突き出す。それは真っ直ぐにこちらに向かってきた。スローモーションのような無音の光景。死の足音。近づくにつれ映像はコマ送りのようになり、その瞬間、静止した。
「……と、止まった……?」
波の音が轟々《ごうごう》と響いていた。雲の間から次々と姿を表すミサイル。それらは一つとしてこちらに辿り着くことはなかった。
「えっ……?……ちょっと……まさか!?」
女王がもう一人の女王を振り返る。沈黙の女王の瞳の僅かな震え。その顔に入った一筋の亀裂が、蜘蛛の巣のように広がる。剥がれ落ちる深海の鱗。
「————花梨っ————!!」
空に並んだミサイルがカタカタと震える。突如現れた泡の膜が、それらを一つ一つ包み込んだ。水泡の中で爆破する核弾頭。しかし、それらが水泡から出ることはなかった。水泡は次々と収縮を始め、そして消え去った。
「嘘だろ……おい……」
「凄い……花梨……」
雅楽、美桜、その場にいる者全員が立ち上がりその光景を見ていた。
「————みんな、ごめんね」
無低海大陰女王の赤い顔がパリパリと剥がれ落ちる。その下から現れたのは、花梨の泣き出しそうな笑みだった。
「もう……花梨の馬鹿……」
美桜の大きな瞳からこぼれ落ちた涙に、茜色の光が反射した。雨はすっかりとあがり、雲海を切り分けるように陽光が次々と差し込んでいた。
「クリエキス、もうやめよう」
「ヒエスト……あんたまた邪魔するつもり!? 私はコイツらが自ら滅ぶところを見たいだけなの」
「聞いて、クリエキス。この星の生命たちは美しい。確かに人間は、愚かでもある。けれど、それと同時に自分たちで正しい選択を模索し続けてもいる。この星の生命たちは、自分たちで未来を決めることが出来る。私達は、ただそれを見届けるだけで良いんだよ?」
「何よ! 何よ何よ何よっっ!! また全部ぶち壊すつもり!? この星なんてどうせ最初から壊れているんだから、結局は同じことでしょ!! あなたはいつも、いつも……いつも…………じゃあ、始めから壊れている私はどうしたら良いのよ!? コイツらの垂れ流した膿を飲むことでしか存在できなかった私に、今更なにを望むのよ!?また、また、また……」
「憎しみだけじゃ、いつまで経っても一人ぼっちだよ? あなたは一人じゃない。ずっと、ずっと長い長い時間、私といたじゃない? 今度は永遠に、一緒にいよう……」
大気が波打ち、七色に光る水の幕が現れた。それは二人の女王をそっと包み込んだ。
「ちょっと……やめなさいよっ! 私は行かない! どこにも行かないから!!」
水の光の膜に、造物大女王の力は虚しく吸い込まれた。
「みんな、たくさん迷惑かけてごめんね。そして、取り返しのつかないこともしてしまった。私、全部終わらせてくるから。それとね、蓮、最後に我儘を言うね。あなたは、歌い続けて。傷ついたこの星の人々に、笑顔を思い出させてあげて。あなたにはきっとそれが出来る。だって、蓮は私の推しなんだから————」
「花梨……」
輝く水膜は、一つの球体となった。花梨は祈るように目を瞑り、微笑んでいた。
「私を見つけてくれてありがとう、白蓮————」
水光に包まれ、二人の女王は浮上を始めた。そして空の遥か向こう、この星を見下ろす彗星へと舞い上がった。
それから数時間後、彗星は閃光を放ち砕け散った。
僅かな残骸が大気圏で燃え尽き、そして消え去った。




