31.感情の密度
空は咆哮に喰われ、陽は翳った。無底海大陰女王のまわりに無数の柱が現れ、竜巻により巻き上げられた海水が天へと立ち昇る。その先には、渦を巻き続ける暗雲の中で、音も無く稲光が明滅していた。天と地の区別が曖昧になる光景だった。
旋回を続けていた自衛隊機が再び隊列を組み、厄災の女王へと接近する。パイロットたちは鳴り止まない咆哮、そして未知への恐怖にも負けず、己の職務を全うしていた。
「これからどうなるの……?」
「分からない……そもそも僕に見えていたのは、八岐大蛇の復活までだったんだ。二人の女王の存在は、僕の未来視の能力の埒外なんだよ。今日がこの星の最後の日になるのかもしれない」
「おいゴローP!? ここに来てそれはないだろうっ!? なんか打つ手はねーのかよ!?」
打ち付ける雨の中、屋内に避難する者は誰もいなかった。この世の最後となる光景を、ただ諦観することしかできない人々がそこにあった。
「最後の日……」
美桜が呆然と呟き、崩れ落ちる。激しく叩きつける雨はすでに熱を帯び、肌を刺すような蒸気へと変わり始めていた。
その時だった。
死を待つだけの静寂を切り裂くように、重く、鋭い水音が響く。
横たわっていた蓮の体が、ピクリと跳ねた。
「……っ、がはあぁっ!」
肺に溜まった泥水を吐き出すような猛烈な呼吸と共に、蓮が起き上がった。
手当てをしていたオムカルが悲鳴を上げた。
「蓮!? 動いちゃダメ! まだ傷が塞がってないんだから……えっ?」
オムカルの言葉が止まる。
蓮の胸を、確かに貫いていたはずの巨大な爪痕。骨まで見えていたはずのその凄惨な裂傷が、まるで再生の時間を早送りしたかのように、滑らかな肌へと塞がっていた。血に汚れたシャツだけが、そこにあった死の事実を辛うじて証明していた。
「蓮……その体、どうなってるの……?」
蓮は答えなかった。
「……行かなきゃ」
「待てっ! 一人で行ってどうする!?」
ゴローPが制止する声を無視し、蓮は屋上の縁へと歩み寄る。
眼下には、自衛隊機の残骸が漂っていた。
「花梨を、もう一人にしないって決めたんだ」
蓮は迷うことなく、荒れ狂う海洋へとその身を投げ出した。
熱風が頬を焼く。落下の衝撃が全身を襲うと同時に、強烈な死の気配を感じた。海水はかなりの高温だった。
———誰?……蓮?……美桜?————
比衛子督の声だった。気がつくと手足の感覚が無くなり、水と一体となっていた。かつてこの星の海洋のすべてを自在に行き来し、眩い生命たちに触れ回った日々。だが、今目の前にあるのは死だけだった。生物たちは色彩を失い、灰のように漂っていた。声の元へと、白濁した泡の中を突き進む。
———白蓮なの? お願い……制御が……もうできない————
声が強くなるのと同時に、水圧が急激に上がった。それは深海の底でも経験したことのない重圧だった。
「————比衛子督!!————」
見えない壁が存在するかのように、前進は唐突に終わった。
それは彼女の拒絶だった。全身をその意志に押し付ける。視界は赤く染まり、胴体のあちこちが千切れ、悲鳴を上げる。
「————もう一人にはさせない!!————」
喉元から血が吹き出し、意識が痛みそのものとなる。
————まだだ、まだだ、ここで止まるわけにはいかない————
感覚が輪郭を失い、辛うじて意識の手綱だけを手にしていた。もう離さない、もう二度と離すわけにはいかない……
————もうやめて……あなたまで巻き込んでしまう————
花梨の声が聞こえた気がした。だが、体が突如重圧から解放されると同時に、その気配は急速に遠ざかっていった。
「……、——!……蓮!————蓮っ!!!!————」
目を開けると、美桜の泣きじゃくった顔が目の前にあった。
「……ここ……は?」
「屋上だよ! 蓮が飛び込んでからしばらくして、海水が噴き上げたんだよ! そうしたら、血だらけの蓮がここに降ってきたんだよ!」
「ぅっ、花梨…………」
「最初、全身がズタズタで死んでいるのかと思ったわ。ただ、見た目ほど傷はひどくないから安心しなさい。それで、何があったの?」
「……行かなきゃ」
「ちょっと蓮!! あんたいい加減にしなさいよ! 自分ばっかり格好つけようとして!? 花梨のことが心配なのは私だって同じなんだから!」
「美桜……うん、そうだな……美桜の力も必要かもしれない」
「蓮!」
「————レンサン、ボクモテツダイマス」
「ミンジェ!? 大丈夫なのか!?」
「スコシ、ユダンシテシマイマシタ」
「全く、この子は本物の化物よ。一人で勝手に回復しちゃったんだから。蓮、あんたもだけどね」
オムカルが呆れたように、けれど安堵したように言った。
「それで、私は何をしたらいいの?」
「ああ。さっき、見たんだ。間違いなく、花梨はあの化物の中にいる。暴走した無底海大陰女王から俺を守ってくれたんだ。恐らく今暴れているのは、負のエネルギーによって抑制が効かなくなった、あの規格外の化物の破壊衝動みたいなものなんだと思う。だから、その暴走した力に閉じ込められてしまっている花梨を解き放てば、あの破壊行動は終わるはずなんだ。美桜、俺と一緒に花梨のところまで行こう。美桜の言葉なら届くはずだから」
美桜は俯いたまま動かなかった。
「……そんな……無理だよ。花梨は私にも心は開いていないって言ったじゃん……」
「いや、俺にはわかる。花梨は美桜の名前を呼んでいた。花梨の中に、確実に美桜はいる」
「……嘘だよ、そんなの……」
「……いるよ。花梨に合わせて強がる必要はないんだから。美桜はずっと、花梨を照らしていたんだから」
「……それ、嘘だったら口にキュウリ突っ込むからね?」
「嘘じゃない。だから、行こう」
「……うん……わかった……よしっ! 一緒に花梨の顔、ひっぱたいてやろう!」
「おい! そんな危ないマネ、美桜ちゃんにさせていいのか?」
「雅楽、ミンジェ、二人には俺と美桜を花梨のところまで運んでほしいんだ。もし危険を感じたら、ミンジェには美桜を連れて逃げてほしい」
「おいおい。タクシーじゃないんだぜ?」
雅楽はそう言って漆黒の翼を広げた。
「待て、我も行く」
「芽稲!? 一緒に来てくれるならありがたいけど、なんで?」
「誓約じゃ」
白髪の芽稲は短くそう言って、口を閉じた。
「私も行く。花梨に言いたいことあるから」
「日奈子!? あんたまで無理しなくても————」
「わかった。二人とも、美桜と一緒にミンジェの背中に乗ってくれ。その代わり、必ず危険を感じたらすぐ逃げるように」
三人は顔を見合わせると、やれやれと頷いた。
「————あのさぁ。あれ、花梨なんだろ? だったら、あんまり喋らなくてもいいと思う。だから、これ」
「康平!?」
美桜が驚いた声を上げた。康平はのっさりと歩いてくると、膝をつき、ギターケースを優しく開けた。
「あんたといた時間、あいつは忘れてないはずだから」
康平は"Gibson J-45"を無造作に差し出した。
「ふざけないでよ康平!?」
「……いや、ありがとう。今度は壊さないように気をつけるから」
「そだな」
康平は頭をボリボリとかいた。
ギター握りしめると、年月の長さでは推し量れない何かを感じた気がした。それは、感情の密度の後ろ姿だったのかもしれない。
「よし! それじゃ、行こう。花梨を目覚めさせに————」




