29.時の彼方
「懐かしいね……この場所。私さ、自分で意識したわけじゃなかったんだ。気がついたらここにいたの。きっと、ずっと私の一番奥で眠っていたんだろうね」
「花梨……一緒に帰ろう」
「ねえ、あの子の仕業なんでしょ? 悪五郎、昔から人の意識に干渉するのが得意だったから。でも、ここにまで侵入されるとは思わなかった。この壁は誰も通さないはずなのに……やっぱり蓮のこと、どこかで求めていたのかな」
「花梨……いや、本当に比衛子督なのか?」
「そうだよ。私は比衛子督……何百万という時を超え、また会えるとは思わなかった。白蓮————」
その名前を呼ばれた瞬間、俺の中で水龍であった頃の記憶が激しい飛沫をあげ駆け巡った。
何十億年という昔、この星の中心に一番近い場所で俺たちはこの世界を生命で満たし、慈しみ、そして愛した。
「白蓮……」
抱きしめた比衛子督の体から氷のような透明な温もりが広がった。俺は既に決意していた。
「俺もここに残る。あの時果たせなかった誓いを、ここで叶えよう」
「……それは、無理だよ。白蓮」
「何故だ? ここなら永遠に二人だけでいられるじゃないか!? また離れ離れになるなんて……」
「白蓮……」
「俺にはもう耐えられない……」
一度は手にした温もりが、静かに離れていった。
「聞いて、白蓮。あの日、何も告げずに去ったのは、あなたを巻き込みたくなかったからなの」
「そんな事はわかっ————」
だが、深い紺碧の佇みを目の当たりにし、言葉は千切れ去った。
「クリエキスの力は強大だった。憎しみを糧とするその力は、地上の生命の進化と共に増大を続けていた。私はクリエキスの消滅を諦め、その破壊の抑止力として側にいる事に決めた。そして、共に魔界へと降りたの」
音のない空間。比衛子督から思念だけが伝わる。それは痛みだった。
「彼女はこの星の悪気より生まれし終焉の理。此の世を憎しみで満たし、生命達が自ら滅びの道を進むことを望んでいた。私は側を離れるわけにはいかなかった。此の世に干渉しないよう魔界で均衡を保ち続けたの。けれどある時、クリエキスは十柱の有力な魔王のうち八柱を従え私に争いを挑んできた。その結果は魔界の消滅をもたらし、私たちは互いの依代を失い長い眠りにつく事になった」
花梨の姿をした比衛子督はそこで言葉を切った。自分が今そのどちらと会話をしているのかが分からなくなってきた。悪五郎は花梨と比衛子督の霊魂は分離できると言った。だが、目の前にいるのは花梨であり比衛子督だった。
「クリエキスは私より少し先に目覚めていたようね。私の復活を察知し、無低海大陰女王へと覚醒したタイミングで支配下に置こうとしたようね。また争いになることを避けたかったのでしょう。今の時点ではまだクリエキスの方が力が強大故に、私はその支配から逃れられない。だから私はこの場に留まり続ける。二度と生命達に危害を加えない為に」
痛みは更に増した。比衛子督にとって自ら引き起こした水害により膨大な命を奪った事実は耐えきれないものだろう。美桜の言葉を思い出す。
————花梨は自分を責めている————
比衛子督も自分を責めていた。俺は確信を持った。花梨と比衛子督は一体だ。分離など不可能だ。だが、悪五郎は何故あんな嘘を? 俺は前へ歩み出る。
「ここを一緒に出よう。花梨、俺が側にいる。クリエキスに支配なんかさせない。共に戦おう」
「白蓮……」
花梨であり比衛子督であるその人は、また困ったように笑った。だがその瞬間、体を下から突き上げるような強い衝撃を感じた。
「————蓮っ!!」
見ると胸から巨大な杭が突き出していた。
「……うっ……な、なにが……!?」
「やだ……なんでまた……お願いだから……もう、もうこれ以上は……」
「……い、いけない、花梨……」
口から溢れる血で言葉が繋がらない。
「やだよやだよやだよ……お願いだから助けてよ……誰か……誰か……誰か……」
薄れゆく意識の中で、悪五郎の真の狙いを悟った。初めから花梨の目の前で俺を殺すつもりだったのだ。暴走した不安定な無低海大陰女王を完全な支配下に置くために。
「ぃぃゃああああーーーーっっ————————」
花梨の絶望の思念に飲まれ、俺の意識は完全に途絶えた。




