27.雨後の目覚め
ラジオからノイズ混じりの男性のくぐもった声が漏れる。政府が首都を山梨へ移したらしい。
外の空気を吸いたくなったのでコートを手に取り屋上への階段へと向かった。
「ここにいたんだ、芽稲。何か動きは?」
「何も無い」
「そっか。もう何日間もあのままだね」
一面に広がる海面。ところどころビルの奥上部分が突き出し、朝陽に照らされた水面がキラキラと輝いていた。水平線は遥か遠くまで続いていた。この星はその殆どが水に覆われていたのだ。今更ながらその当たり前の事実を実感する。そう、ただ少しだけその割合が増えただけだ。
あの日、無底海大陰女王として覚醒した花梨は、この世界の三分の一を水の底に沈めた。多くの命が失われ、人類が長い時をかけ築き上げてきた文明は一瞬のうちに消え去った。
「……花梨、何を考えているんだろうね」
「分からない。元の花梨の記憶が残っているのかも分からないし」
芽稲と共に遥か海上に目を向ける。空にはあの日この星に接近して以来、何故か停滞したままの彗星が厄災の象徴の如く居座っていた。人々の不安を助長させるその異物が見下ろす海面上に、空中で静止し微動だにしない着物姿の花梨がいた。いや、今となっては無底海大陰女王と呼ぶべきか。望遠カメラで捉えられたその姿を初めて見た時、誰もが語るべき言葉を持ち合わせていなかった。光の届かない海底を思わせる濃紺の着物に身を包み、赤黒い髪を植物の様に垂らしたその隙間から覗いたのは紺碧の色をした顔だった。肌と同じ様に深い青色の瞳は如何なる光も持ち合わせていない。だがその顔立ちは、花梨そのものだった。
あの日、貯水湖で世界を水没させた花梨はその後姿を消した。その存在自体が幻の様に思えたが、世界中に与えた甚大な被害は疑うことの出来ない現実だった。そして三日程前、突如として花梨は東京湾上空に再び姿を現したのだった。
————日菜子、聴こえる? 今何処にいる?————
無線から美桜の声が響いた。その声から微かな緊張を感じた。
「今、屋上だけど。どうしたの?」
————蓮が目をしましたの————
室内にはゴローPをはじめとするオロチのメンバー達もいた。この建物は海岸線に突き出す様に建っている。元は山の斜面にあったホテルだが、後退した海岸線によりオーシャンビューとなった。ゴローPと関わりのある施設らしく、避難した私達家族共々受け入れてくれていた。
「蓮は?」
美桜がこちらを振り返り頷く。ベッドを囲んでいた雅楽達が道を開けてくれた。ゴローPの携帯が鳴り入れ違いに出て行った。
「蓮……大丈夫?」
「ああ。俺は平気だよ。それより……花梨は?」
「さっきも言ったでしょ? 後で順を追って話すからさ。それより、一か月も寝たきりだったんだから今はあまり無理しないで」
美桜に言われると蓮は弱々しく頷いた。
あの日、八岐大蛇の首を全て切り落とした蓮は、その後に起きた爆発に巻き込まれ姿を消した。そしてそれがきっかけとなり花梨は無底海大陰女王として完全に覚醒し、大洪水を引き起こした。
貯水湖から無尽蔵に溢れ出た水は街を飲み込み河川を氾濫させ、降り落ちる豪雨が更に大地を沈めた。その勢いは瞬く間に世界へと伝播した。世界中の海が荒れ狂い、多くの大陸の海岸線を襲った。およそ一月に及び降り続けた雨が止むと、水没した都市郡が姿を現した。
生き延びた人々は手を取り合い、残されたインフラ設備を頼りに、姿を変えた世界で辛抱強く生活を立て直した。やがてその繋がりは通信機器の壊滅を免れた国々の連携を生んだ。そして、全ての元凶である無底海大陰女王の存在を世界中の人々が知る事となった。
世界が水没してから一月以上が経った頃、行方不明だった蓮が見つかった。意識を失った状態で丘に打ち上げられているのを近隣に住む子供達が発見したのだ。子供達は死体だとばかり思っていたが、話を聞いて駆けつけた親達がまだ息があることに気が付き仮設病院に担ぎ込まれたのだった。
「蓮、記憶はどこまであるの?」
「うん……あの日、八岐大蛇の首を落とし、その後吹き飛ばされたのは覚えているんだけど、その後の事は……」
「そっか……でも、生きていて良かった。あの日、私達を助けてくれてのも蓮なんでしょ? お礼を言いたかったの。ありがとう」
莉羽澄によって瀕死の怪我を負った私と芽稲は、蓮に発見されゴローPの所属する組織の医療チームの緊急医療処置を受けた。芽稲は数日で歩ける様になったが、私は先日ベットから出たばかりだ。二人共まだ包帯が取れていない。
「————まずい事になった」
電話を終えたゴローPが険しい顔で戻って来た。
「山梨で発足した新政府が、無底海大陰女王への一斉攻撃を閣議決定した。軍を保有する諸外国も支援を名乗り出ている。大国は、最悪の場合は核の使用も視野に入れているらしい。日本政府としては国内での核の使用を容認する訳にはいかないから何としてでも早急にケリをつけたいらしい」
「ケリをつけるって……花梨を殺すのか!?」
「蓮、無理に動かないで!」
「美桜! 花梨は何処なんだ!?」
「それは……」
「美桜。会わせてあげなよ。花梨も……蓮を見たら何か反応するかもしれない」
「日菜子……」
「何にせよ時間はあまり無いよ。先行の自衛隊機がもう出撃したらしいから」
「そんな!! 美桜……連れて行ってくれ、花梨の所へ」
「……分かった。じゃあ会わせてあげる。しっかりとその目で見届けなさい。あなたがもたらした結果を————」




