第8話 兄貴分
「お前、歳はいくつだ?」
「は……?」
須藤の意外な問いに上田は戸惑ったが、ぎらついたままの須藤の視線に圧され答えた。
「……いま、29です」
「嫁さんは? いるか?」
「います」
「そうか」
短いやり取りを交わしてから、深く長く息をつく須藤。少し下がった目線が、なぜか疲れを帯びたように勢いを失った。
「長谷部にも嫁さんがいた。俺とあいつが28の時――ちょうどお前くらいの時だった。あいつの結婚式じゃあ俺が新郎代表でスピーチしてやった。あれから、いつも仲良さそうにしていたんで周りの奴らは妬いたり囃し立てたりしていたもんだった」
須藤のこの言い回しをどこか妙に思った上田は反芻してみて、それで「長谷部に嫁さんがいた」という話が全て過去形で語られていることに気付いた。
いい話であるはずがない。だから上田は身を固くして次の言葉を待ったが、須藤は言葉を切ってそのまま続きを話さない。
過去形……ならば当然、いまの長谷部は独り身であろう。須藤の言う「嫁さん」はもういないのだから。
今の長谷部は少し虚ろな雰囲気を漂わせ物静かな人だが、28の頃というと相当昔のことだ、思いのほか気が強かったりしたかもしれない。もしかしたらそのせいで――
「相性がよくなかった」は、人が離婚する時によく口にする言葉である。
……しかし上田は、それを須藤にハッキリと尋ねる勇気はなかった。
「ええと、その……長谷部さんの奥様は、今は?」
限りなく、婉曲的に尋ねる。
「いねえ」
返り討ちのように素早い答え。
「おい、今度の事件の奴と一緒にするなよ。あいつは――」
須藤の声は粗さを帯びた。
さすがにそれを自覚した須藤はすこし声のトーンを落とす。
「いまの被疑者がまだ犯人だと決まったわけじゃあないが、もしそうなら……離婚するのはまあ本人ら次第だ、別に構わん。だが――」
今回の事件――被疑者である小林明人は、3年前に被害者である安藤麻衣と離婚している。
もし本当に犯人だった場合、小林はかつての妻を殺したことになる。
「――いちど縁を結んだ相手を手にかけるのは、許さん」
それは須藤らしい正義感のある言葉であった。
上田には、そう聞こえた。
「俺じゃねえぞ、長谷部がだ」
「――?」
その言葉に上田は戸惑う。
人殺しは、確かに決してあってはならないことだ。しかしあの長谷部が、そこまで強い感情を抱くだろうか――
須藤は上田の心中を見透かしたか、いちど強く視線を合わせてから、語り始めた。
「あいつの嫁さんは癌でな、まだ若かったのに……いや、だから進行が早かったんだな」
・・・・・・
「なに、癌?」
27年前、須藤はすっかり気勢を失った長谷部からそれを聞きだした。
「うん」
幼少期からずっと兄貴分だった長谷部の、しょげ返った返事。そんな姿を初めて見た須藤は柄にもなく慌てた。
「あー、いやでも、ほら。手術とか抗がん剤とか、色々あるだろ、治療法。大丈夫、来年くらいにはもうケロっとして、いつも通りになってるさ。いっぱいるだろ、そういう奴。そんなに落ち込むことじゃねえよ」
「うん……」
聞いているのかいないのか、長谷部は目も合わさず力のない返事だけをする。
須藤はあえて大げさに長谷部の肩を叩いて言った。
「とりあえず、あんまり仕事すんな今は。家で嫁さん励ましてやれ。もし金なり何なり困ったことがあったら、俺が工面するから。すぐ言えよ」
何とかしてやりたいとは思いつつも、医者でもない須藤にできることは、せいぜいそのくらいであった。
「大丈夫だ、大変なことにはならねえよ」
「うん……ありがとう」
・・・・・・
「――抗がん剤の副作用に苦しんで、きれいだった髪もボロボロに抜けて。ずいぶん痛がってもがいてたそうだ」
聞いていた上田は、身を固くして唾をのんだ。
「……どうなったんです?」
「葬式には出た」
須藤はきわめて簡潔に答えた。
「長谷部はあの時誰とも、一度も視線が合わんかった。声をかけてもただ涙を流してるだけで何も言わん。その後火葬場に行って嫁さんが骨になっちまった時には膝をついて、立ち上がれないで。仕方ねえからあいつ抜きで骨を拾ったんだ」
上田はすこし身震いした。
自分の妻が火葬され、そのなれの果てと対面する――今まで考えもしなかったが、長谷部は実際上田と同じくらいの歳の頃にそうなったのだ。
今日帰ったら健康診断を勧めておこうと、頭の隅に書き留めておくことにした。
「……それからは電話をかけても『大丈夫』としか言わないで会う約束もしてくれん。半年くらいはそのひと言を聞くだけだった。半年経ってようかく会ってくれたがすっかり意気消沈しちまって。今みたいに身体が細くなったのもその時からだ」
そう言って須藤は長いため息をついた。
「昔は俺の兄貴分だったんだがな。妙に静かな奴になっちまった」




