第20話 最後の再会
4月1日、夕刻――
麻衣は普段通り、出勤する夫を見送った。
この日、夫は都合よく夜勤であった。子供のいない麻衣は、これから翌朝まで一人で過ごすことができる。
麻衣は普段から散財について夫から注意され続けている。金はねだれば貰えはするが、さすがに大金をポンと渡してくれることはない。金銭面で、麻衣はあまり信頼されていなかった。
かつての夫が支払いたいという「慰謝料」現金500万円は、その点で魅力的であった。
夫の管理下にない、麻衣だけのお金。夫からも金を貰い続けながらこの500万円を小出しにしていけば、夫に気付かれず、気楽に買い物でも何でもできる。
口座に振り込ませるのはまずかった。夫は麻衣の浪費を案じて、定期的に麻衣の通帳をチェックしていた。いきなり500万もの入金があったら、即座に気付かれる。
幸い、明人は「税金をとられないように」などと書いており、1対1で現金で手渡してくれることになっていた。
場所は築丘子安神社の駐車場。時刻は、21時45分とある。
いい受け渡し場所を考えたな、と麻衣は思った。
麻衣の住む家から十分近く、神社と市民会館共用の駐車場は入口側を市民会館の建物に遮られ、そこだけ小高い場所であるため周囲からは見えない。
ストーカー行為をされ警察に届け出た日からおよそ2年。つきまといはもうなかったもののまだ家の場所を覚えているのかと、少し気味悪くは思った。
しかしまた、なんだかドラマの悪い取引でもしているようだと思うと、少し高揚する感覚があるのを自覚して、それを楽しんだ。
時刻は妙だった。
この中途半端な数字は何なのか――
問い合わせようにも、メッセージは封書で届けられた。メールやメッセージアプリとは違い、返信できない。
明人の家に行けば分かりはするだろうが、麻衣はもう明人の家には近寄る気がなかった。
明人はそもそも、細かいことに妙にこだわりをみせるところがある男だった。
麻衣の知らない何かを警戒でもして、この時刻に決めたのかもしれない。若干うんざりするところはあるが、この時刻ぴたりにその場にいなければ、明人は500万円を持ったまま帰ってしまうかもしれない。
気が小さい明人のことだ、合わせてやらなければ怖がって出て来ないだろう。
麻衣は21時半に車に乗って家を出た。
神社までは、すぐだ。
・・・・・・
明人は住宅地の中を進み、あらかじめ知っていた地下道を通った。
蛍光灯がまばらに灯るだけの、防犯カメラもない古い地下道。駅北口の防犯カメラには映っておいたから、事件を起こして捜査された際、警察は明人が駅の北側にいると思うはずだ。
ここを通れば、ばれずに南側へ出られる。防犯カメラは、明人を追うことができない。
・・・・・・
21時20分、「馬留」バス停。
路線バスが目の前に停まった。ドアが開き、明人を明るい車内へと誘う。
ぐっと拳を握って、明人は一歩踏み出す。
バスのステップに、足をかけた。
明人を乗せドアを閉めたバスは、暗い旧街道を走り始めた。
それは菜原から築丘へ向かう、電車以外の経路。まず知る人のいない経路である。
・・・・・・
21時30分、「築丘」バス停。
バスは停まり、前のドアが開かれた。
明人は運賃箱へ歩み寄り、整理券と現金を投入した。ICカードは持っていたが、記録が残るので使わないでおいた。
「……」
最前部に、防犯カメラがある。
明人はそのカメラに向けて、左手を挙げてみせた。
その向こうで見ているであろう刑事たちに対して。
・・・・・・
21時32分、築丘子安神社駐車場。
明人は音を立てぬよう入口の坂を登り駐車場に着いた。
明かりは防犯のためか点いている。しかし周囲を見ても、停まっているのは神社の白い軽バンだけで、人影もなかった。麻衣はまだ来ていない。
軽バンの車体に身を隠し、暗がりになったアスファルトの上にしゃがんで待った。
呼吸は徐々に乱れた。
頭がぐわんとする感覚もあった。
今から人を殺す。
そして今が、引き返すことのできる最後の機会。
ここから踏み出せば、その先は――
明人は頭を振って、その考えを消そうとした。
アスファルトに手をついて、もっと頭を振って、荒く息をして。
――車のエンジン音が聞こえた。
駐車場への坂を登ってくる。
・・・・・・
21時41分。
麻衣は指定された通り神社の駐車場に入り、車を止めた。
エンジンを止め、静かになった駐車場に降り立つ。
人影はない、まだ明人は――
振り向くと明人が暗がりに立っていて、麻衣は思わず飛び上がった。
「何!? そんな所で!」
明人は何も言わない。
麻衣はその意味を、間違って捉えた。
現金500万円を受け渡すための密会である。大きな声で話すのはまずい。
「……お金、本当にあるの?」
音を立てないように歩み寄りつつ、小声で聞いた。
明人は手招きし、歩き出した。
車もなし、身ひとつか――と考えた麻衣は、あらかじめどこかに金を隠したのだろうと思いついていった。
しかし明人がほとんど先の見えない神社の裏へ入って行こうとするのを見て、さすがに歩みを止めた。
草の生えた神社の境内裏へ、片足が入っていた。
「ねえ、ちょっと」
その声に明人は黙って手招きしたが、麻衣はそれ以上進まなかった。
明人は麻衣に歩み寄った。
駐車場の白い照明に照らされて、麻衣にとって3年ぶりにまともに見る明人の顔が、白黒に見えた。
そして――
初めて感じる強い力を肩に受け、視界がぐわんと回った。




