第10話 気遣いの香り
昼休みも半ばを過ぎ、気だるげな空気が室内を満たしていた。誰かがいれたコーヒーの香りがじんわりと濃さを深めて、ささやかな休息の時間を彩っていく。
『いつも無害そうな顔をしているが、実のところはあんまりそうじゃあない』
『「監視役」だ、長谷部英行の』
「おーい、上田」
「……」
一課の自席に座って須藤の言葉をぼんやりと頭の中に巡らしていた上田は、その呼び掛けを聞き損った。
「おい、上田」
「――へ? ……ああ、片桐。どうした?」
上田に声をかけた短髪のその男は、上田が長谷部と帰ってきた時に廊下で会った、片桐良介。上田と同い年の同僚である。
片桐は両手に持って来たコーヒーカップの片方を上田の机に置き、もう片方を隣の自分の机に置いた。
「『どうした』じゃないよお前。本部長に何言われたんだ?」
椅子に座り上田の方を向く片桐。
上田は須藤に言われたことを話すべきか悩み、少し迷ってから答えた。
「……まあ、色々と」
「色々って……」
短髪の頭をがりがりと掻く片桐。
「人にもの聞きに行くのはいいけどさ、さすがに相手を選べよな」
よりによって長谷部みたいな人間に聞きに行くんじゃない――そう言っているのは明言せずとも分かった。
「だって――」
答えかけた上田を片桐は手で制して続ける。
「さっきみたいな事、今後に響きかねないぞ。本部長にも怒られたんだろ? もう変な事するな」
上田が曖昧な言い方をしたせいで、事情を知らない片桐の言葉は的を得ない。
須藤は怒られたわけじゃない――と言おうにも、この話は長谷部に聞かせるなと言われている。片桐に話して、必ず黙っていてくれるという保証はない。片桐はいつもいい友人であるが、時には自分の正義感に忠実に動くこともある。もしかすると、長谷部に直接言ってしまうかもしれない。
この片桐のあえて不興を買ってでもなすべき事をなそうとする姿勢は時に厄介ではあるが、それはまた彼の長所でもあり、だから上田にとって憎むことのできない人物である。
上田のすぐそばで香りをたてるコーヒーも、片桐のいいところを示してくれている。
しばらく迷って、それから上田は小声で話を切り出した。
「……あのな、片桐。さっきの話なんだけど」
・・・・・・
「監視役――?」
「大きい声で言うな、あんまり聞かれたくない」
上田は「絶対秘密」という条件で片桐にすべてを話した。
「やばいだろ、あいつ。本部長がそんな事言うくらいなんだから」
そう言った片桐は上田が少しむっとしたのを見て、すこし言葉を選び直す。
「……言い方は悪いが、窓際族みたいなもんだろ、あの人。いつもなんにも興味ないような顔でぶらぶら歩いてるしさ。関わっても良いことはないと思うぞ。仮にマイナスにならないにしても、プラスになることもまずない。俺はそう思う」
そう言っても上田の表情は納得したように見えないので、片桐はさらに続けた。
「あの人は今回、他所の課の案件に自分から首を突っ込んだんだ。普段と明らかに違う。さすがになにかおかしいだろ」
上田はそれに首を振った。
「話を持ち掛けたのは俺だよ。長谷部さんが首を突っ込んだんじゃない」
「その話を拒否せずに聞いて、一緒に捜査に出て行った。それは自分から首突っ込んだのと同じだ」
返す言葉に詰まった上田は、不満顔で黙る。
「それに、昔からの付き合いだっていう本部長も、あの人のこと疑ってるんだろ?」
「疑ってる?」
「そうじゃないか。わざわざお前に『監視役だ』とか『見張っておけ』とか言うんだ。疑ってなきゃそうは言わないだろ」
そう言って上田の表情を見てから、片桐はため息をつく。
「悪いことは言わない、あの人と捜査に行くのはやめておけ。さすがに相手を間違えてる。そもそも部署が違うんだ、これは本来あの人がやる仕事じゃない。何か適当に理由を付けてこの話はなかったことにして、あの人には二課に帰ってもらえ」
確かに長谷部は殺人事件の担当ではない。本来なら、こんなふうに一緒に捜査をすることはありえないはずなのだ。
さすがに部署違いの長谷部をこの事件の捜査に引っ張りまわすのはよくない、と上田も考えはしていた。だが……
「須藤さんにはどう言えば――?」
「本部長に、何を?」
その点をどうすればいいかが問題になって、上田は片桐の言うことを聞けないでいる。
「見張っておけとは言われた。けど捜査をやめろとは言われてない。須藤さんの権限ならひと言『やめろ』って言えばそれで済むはずだ。けどあの言いようからすると俺は、この先も長谷部さんの捜査についていく必要がある……んじゃない?」
……。
「……そんなもんか?」
「『監視役』だって言ってたし」
「そうか」
「たぶん」
片桐は少し頭をかいて、それから背もたれに身体をあずけコーヒーカップを手に取った。
「……ま、とりあえずいいにしようか。飲めよ、冷めないうちに」
「ああ。……ありがとう」
そっと持ち上げたコーヒーカップが、ゆらりと香りを漂わせてくる。
口にしたそれはいつもと変わらない味。片桐がいれてくれるコーヒーの味だった。




