血をめぐる夜宴
朝の光が部屋に差し込む。
悠斗はいつもより遅い時間に目を覚ました。
――そういえば、久しぶりにぐっすり眠れたな。
隣を見ると、ルナリアもまだ寝息を立てている。
反対側では、カーミラが幸せそうな顔で眠っていた。
いつもなら誰かが起きて見張りをしているのに、今朝は全員が安心して眠っているようだ。
「おはようございます、主君」
声をかけられて振り返ると、ブリュンヒルデが立っていた。
背筋は相変わらずピンと伸びているが、肩の力は抜けている。
「よく眠れたか?」
「恥ずかしながら、熟睡してしまった」
ブリュンヒルデは照れくさそうに咳払いをした。
「交代制の見張りも、一考の価値がありそうだ」
言葉は相変わらず堅いが、声のトーンが少し和らいでいる。
「だろ?」
悠斗も微笑む。
昨夜の一件で、ブリュンヒルデの肩の力が少し抜けたようだ。
「朝ごはんできてますよ〜」
セレナが台所から顔を出す。
「今日はパンケーキです!」
「ありがとう、セレナ」
朝食を終えた後、カーミラが提案した。
「ねえ、今日は外で夕飯にしない?」
「外?」
「村の酒場よ。たまには誰かが作った料理も食べたいでしょ?」
ルナリアが頷く。
「確かに、息抜きも必要ですね」
「賛成です〜」
セレナも楽しそうだ。
「みんなで外食なんて、初めてですね」
「護衛に問題はないと思う」
ブリュンヒルデも同意する。
「村の酒場なら、大丈夫だろう」
「じゃあ、今夜はそうするか」
悠斗の言葉に、女性陣は嬉しそうに微笑んだ。
その夜、村の酒場は賑わっていた。
悠斗たち一行も、久しぶりに外食を楽しむことにしたのだ。
「うわぁ、いい匂い」
セレナが目を輝かせて料理を見つめる。
テーブルには、肉料理やシチュー、焼きたてのパンが並んでいた。
「たまにはこういうのもいいわね」
カーミラが優雅にワインを口にする。
彼女は今日も小瓶を鞄に忍ばせているが、周囲の目があるためか血を吸う様子はない。
「ユート様、これ美味しいですよ」
ルナリアが肉料理を悠斗の皿に取り分ける。
死神の割に、彼女は食事をすることができた。
「主君、お飲み物はいかがですか」
ブリュンヒルデがジョッキを差し出す。
悠斗は苦笑しながら受け取った。
「たまにはこういう賑やかなのも悪くないな」
前世を思い出す。
会社の歓送迎会で、独りテーブルの隅に座っていた自分。
誰とも会話せず、ただ時間が過ぎるのを待っていた。
今は違う。
周りには賑やかな仲間たちがいる。
――まあ、全員ヤンデレっぽいんだけど。
「おい、そこの兄ちゃん」
突然、隣のテーブルから声がかかった。
振り返ると、筋骨隆々の冒険者風の男が立っていた。
革鎧を着込み、腰には大剣を下げている。
「ずいぶん贅沢してんじゃねぇか」
男は酒臭い息を吐きながら、悠斗を睨みつけた。
後ろには同じような身なりの仲間が二人、にやにやと笑いながら控えている。
「女を四人も連れて、いい気なもんだな」
別の男が悠斗の肩を乱暴に叩く。
「お前みたいなひ弱そうな奴が、よくもまあ」
悠斗の目が、わずかに輝いた。
――もしかして、これは……
「なんか文句でもあるのか?」
悠斗が静かに返す。
「文句? 大ありだよ」
最初の男が悠斗の胸ぐらを掴んだ。
「俺たちゃAランク冒険者の『鉄の牙』だ。この街じゃ誰もが恐れる存在よ」
「で?」
悠斗の反応に、男は苛立った。
「生意気な野郎だ。表に出ろ」
――キタ!
悠斗の心が躍った。
これは明らかに死亡フラグ。
Aランク冒険者に喧嘩を売られるなんて、絶好のチャンスだ。
「分かった」
悠斗はあっさりと立ち上がった。
「ユート様?」
ルナリアが心配そうに声をかける。
「大丈夫。すぐ戻る」
悠斗は振り返らずに答えた。
その瞬間、四人の女性の瞳から、同時にハイライトが消えた。
「……外に?」
カーミラの声が、恐ろしく平坦だった。
「ユート様を連れていくの?」
ルナリアも感情のない声で呟く。
「危険な場所へ?」
セレナの翠緑の瞳が暗く沈む。
「主君に手を出すと?」
ブリュンヒルデは静かに立ち上がった。
しかし悠斗は、背後の変化に気づかない。
期待に胸を膨らませながら、男たちと外へ出ていく。
ハイライトを失った四人は、しばらく無言で座っていた。
そして、まるで人形のように同時に立ち上がる。
酒場の客たちは、四人から発せられる異様な雰囲気に息を呑んだ。
瞳に光のない美女たちが、ゆらりと外へ向かっていく。
外の路地裏。
「さあ、覚悟しろよ」
男が拳を振り上げる。
「ひ弱な坊やに、現実を教えてやる」
悠斗は期待に目を輝かせていた。
――頼む、一撃で殺してくれ!
男の拳が、悠斗の顔面に叩き込まれた。
ゴッ!
鈍い音が響く。
「……?」
男が困惑した。
確かに殴ったはずなのに、悠斗は微動だにしない。
それどころか、期待に満ちた目で見上げている。
「もっと強く殴れよ」
「なんだと?」
「遠慮すんな。全力でこい」
挑発に乗った男は、今度は全力で殴りかかった。
ガッ! ドゴッ! バキッ!
何発も拳が打ち込まれる。
しかし、悠斗はびくともしない。
「おかしいだろ!」
仲間の一人が剣を抜いた。
「こいつ、化け物か?」
剣が悠斗に振り下ろされる。
だが、刃は皮膚に当たった瞬間、砕け散った。
「ちぇっ」
悠斗が舌打ちをする。
「Aランクって言うから期待したのに」
三人目の男が、魔法を唱え始めた。
「火炎弾!」
炎の塊が悠斗に直撃する。
しかし、服が少し焦げただけで、本人は無傷だった。
「うーん、温かいだけだな」
悠斗は失望したように肩を落とした。
「もっと強力な魔法は使えないのか?」
男たちは顔を見合わせた。
目の前の男は、明らかに異常だ。
物理攻撃も魔法も効かない上に、もっと攻撃しろと要求してくる。
「な、なんだこいつ……」
最初の男が震え声で呟いた。
「化け物だ……」
その時、路地裏の入り口に四つの影が現れた。
「見つけた」
ルナリアの声が、静かに響く。
紅い瞳にはハイライトがない。
「ユートに何をしてるの?」
カーミラも感情のない声で問いかける。
「危害を加えたようだな」
ブリュンヒルデが聖魔剣を抜いた。
「実験台が増えました〜」
セレナが不気味に微笑む。
手には毒々しい色の薬瓶が握られている。
男たちは、新たに現れた四人を見て、更に青ざめた。
美しい女性たちのはずなのに、その瞳には人間らしい感情が一切ない。
「ひっ!」
「逃げろ!」
三人は一目散に逃げ出した。
悪魔から逃げるように、必死で走り去っていく。
「あーあ」
悠斗は深い溜息をついた。
「せっかくのチャンスだったのに」
がっかりした様子で振り返ると、四人の女性が立っていた。
「ユート様」
ルナリアが微笑んでいる。
しかし、その紅い瞳にハイライトはない。
「また死のうとしたんですね」
声は優しいが、感情が感じられない。
「いけないユート」
カーミラも笑顔だ。
でも金色の瞳は、暗く濁っている。
「そんなに死にたいなら、私たちが永遠に守ってあげる」
「危ないことしたらダメですよ〜」
セレナは無邪気に首を傾げる。
しかし翠緑の瞳には、一切の光がない。
「次は鎖で繋いじゃうかも」
「もう単独行動は許可しない」
ブリュンヒルデの声は機械的だ。
オッドアイが、感情なく悠斗を見据えている。
「二十四時間、私が監視する」
四人は悠斗を取り囲むようにして立っていた。
全員笑顔なのに、その瞳は死んでいる。
「あー、えっと……」
悠斗が冷や汗をかいていると――。
突然、四人がぱちぱちと瞬きをした。
瞳に光が戻り、表情に生気が宿る。
「……あれ?」
ルナリアが戸惑ったように周りを見回す。
「今、何か言いました?」
「私、ぼーっとしてたみたい」
カーミラも首を振る。
「なんだか一瞬、意識が……」
「変な感じでした〜」
セレナも困惑している。
「うむ、奇妙な感覚だった」
ブリュンヒルデも首を傾げる。
まるで夢から覚めたような、そんな様子だった。
「ユート様!」
正気に戻ったルナリアが、今度は本当に心配そうに駆け寄ってきた。
「大丈夫でしたか?」
「怪我は?」
カーミラも悠斗の体をチェックする。
「血が出てないですよね?」
セレナが心配そうに薬草を取り出す。
「無事か、主君」
ブリュンヒルデも安堵の息をつく。
「いや、全然平気だよ」
悠斗は苦笑した。
「見ての通り、かすり傷一つない」
四人は、ほっと胸を撫で下ろした。
しかし、すぐに表情が変わる。
「まさかユート様」
ルナリアが疑いの目を向ける。
「また死のうとしたんですね?」
「図星ね」
カーミラが腕組みをする。
「あの期待に満ちた顔。死ねると思ったでしょう」
「もう〜、ダメですよ」
セレナが頬を膨らませる。
「危ないことしちゃ」
「軽率すぎる」
ブリュンヒルデも呆れた様子だ。
しかし、四人とも叱りながらも、どこか嬉しそうだ。
悠斗が自分たちを頼ってくれなかったことへの不満もあるが、それ以上に無事だったことへの安堵が大きい。
「心配かけてごめん」
悠斗は素直に謝った。
「でも、本当に大丈夫だから」
「当たり前です」
ルナリアが悠斗の腕を取る。
「だって、私たちがいるんですから」
「そうよ」
カーミラも反対側から腕を取る。
「あなたは私たちが守るもの」
「ユート様の安全は、私たちの責任です〜」
セレナも笑顔で言う。
「今後は単独行動を控えるように」
ブリュンヒルデが真面目な顔で進言する。
悠斗は四人に囲まれながら、酒場に戻っていく。
――死ねなかったのは残念だけど。
でも、こんなに心配してくれる仲間がいる。
それは、前世では決して得られなかったものだ。
「ところで」
酒場に戻る途中、カーミラが思い出したように言った。
「このあたりに『血の泉』っていう場所があるらしいわ」
「血の泉?」
悠斗が聞き返す。
「ええ。なんでも、真っ赤な水が湧き出る不思議な泉があるって」
カーミラの瞳が好奇心で輝く。
「さっき酒場の人から聞いたの。歩いて十分くらいの場所にあるって」
「危険な場所なのでは?」
ブリュンヒルデが警戒する。
「いえ、観光名所になってるくらい安全みたいです」
ルナリアが説明する。
「美肌効果もあるとか」
「へぇ〜、行ってみたい!」
セレナが興味を示す。
「赤い泉なんて、どんな成分なんでしょう」
「時間も早いし、見に行く?」
カーミラが提案する。
「月も出てるから、道も明るいわ」
悠斗は少し考えてから頷いた。
「まあ、近いなら寄ってみてもいいか」
決定に、女性陣は歓声を上げた。
酒場の裏手から続く小道を進むこと十分。
確かに言われた通り、森の中に小さな広場があった。
「わあ……」
セレナが感嘆の声を上げる。
月光に照らされた泉は、確かに赤く見えた。
まるで血のような色をしているが、不思議と不気味さはない。
むしろ神秘的な美しさがあった。
「本当に赤いのね」
ルナリアが泉を覗き込む。
「でも、血の匂いはしないわ」
カーミラが鼻をひくつかせる。
吸血鬼の彼女が言うのだから間違いない。
「鉱物の影響かもしれません」
セレナが推測する。
「あ、触ってみていいですか?」
セレナが興味深そうに手を伸ばすと、泉の水は温かかった。
「あったかい! 温泉みたいです」
「本当?」
他の女性陣も興味深そうに水に触れる。
「気持ちいいわね」
カーミラが満足そうに呟く。
「入ってみたくなるわ」
「え?」
悠斗が驚く。
「いや、さすがにそれは……」
「どうして?」
ルナリアが不思議そうに聞く。
「せっかく来たんだし、入らないともったいないです」
「でも、着替える場所もないし」
悠斗が困っていると、カーミラが悪戯っぽく笑った。
「大丈夫よ。月明かりと湯気で、ちょうど隠れるもの」
確かに、泉からは薄い湯気が立ち上っている。
月光と相まって、幻想的な雰囲気を作り出していた。
「それに、誰も来ないでしょう?」
セレナも賛成する。
「こんな時間だし」
「しかし、主君の前で……」
ブリュンヒルデだけが抵抗を示した。
顔を真っ赤にして俯いている。
「一緒に入ればいいじゃない」
カーミラがあっさりと言う。
「ユートも入るのよ」
「は?」
悠斗が固まる。
「健康チェックも兼ねて」
カーミラの笑顔は有無を言わさない迫力があった。
「でも、俺は……」
「ユート様も一緒じゃないと、私たち不安です」
ルナリアも味方についた。
「さっきみたいに、また危険な目に遭うかもしれないし」
「そうそう」
セレナも頷く。
「一人にしておけません〜」
結局、全員で血の泉に入ることになった。
女性陣は手際よく服を脱ぎ、泉に入っていく。
月明かりと赤い湯気が、絶妙に体を隠している。
「はぁ〜、気持ちいい」
セレナが幸せそうに湯に浸かる。
「本当ね。疲れが取れる感じ」
カーミラも満足げだ。
「不思議な泉ですね」
ルナリアが湯をすくって眺める。
「なんだか、懐かしい感じがします」
「……はぅ」
ブリュンヒルデは顔まで湯に浸かって、恥ずかしそうにしていた。
普段の勇敢な戦乙女も、こういう状況では乙女らしい。
悠斗は端の方で、できるだけ女性陣から離れて座っていた。
前世でも温泉は好きだったが、まさか異世界で混浴することになるとは。
「ねえ、ユート」
カーミラが何か思いついたように声をかけてきた。
「ちょっと血を分けてくれない?」
「今?」
「この泉の水と比較したいの」
カーミラは小瓶を取り出した。
どうやら湯に浸かりながらも、研究への情熱は忘れていないらしい。
「学術的興味ってやつ?」
悠斗は苦笑しながら手を差し出した。
カーミラは慣れた手つきで、悠斗の指先に小さく牙を立てる。
血が一滴、泉に落ちた。
その瞬間――。
泉全体が、わずかに光ったように見えた。
「!」
全員が驚きの表情を浮かべる。
「今の……」
ルナリアが息を呑む。
「泉が反応した?」
「間違いないわ」
カーミラが興奮気味に言う。
「ユートの血に、泉が共鳴してる」
「どういうこと?」
悠斗が困惑する中、セレナが何かを思い出したように呟いた。
「あ、そういえば村の人が言ってました」
「何を?」
「この泉、昔は『英雄の泉』って呼ばれてたって」
セレナの言葉に、全員が注目する。
「大昔、傷ついた英雄がこの泉で傷を癒したという伝説があるんですって」
「英雄……」
悠斗は前世で読んだ物語を思い出していた。
英雄の血が流れた地には、不思議な力が宿るという話。
「まさか、ね」
悠斗は首を振った。
偶然の一致に決まっている。
でも――。
「なんだか、本当に懐かしい感じがする」
ルナリアが呟いた。
「私も」
カーミラも同意する。
「初めて来たはずなのに」
「不思議です〜」
セレナも首を傾げる。
「前にも来たことがあるような」
「うむ、既視感がある」
ブリュンヒルデも頷いた。
全員が同じ感覚を持っているという事実に、悠斗は違和感を覚えた。
――これは本当に偶然なのか?
「まあ、今は考えても仕方ないか」
悠斗は思考を打ち切った。
「せっかくだし、ゆっくり浸かろう」
「そうですね」
ルナリアが微笑む。
「こんなに気持ちいい泉、なかなかないです」
一行は、しばらく血の泉を楽しんだ。
不思議な泉での入浴を終え、一行は宿へと戻っていった。
月明かりの下、赤い泉は静かに、でも確かに、微かな光を放ち続けていた。
まるで、何かを待っているかのように。