戦乙女の誓い
夕暮れの森。
村から離れた場所で、ブリュンヒルデは独り、剣を振るっていた。
聖魔剣が空を切る。
聖なる光と魔の闇が、刀身に混在している不思議な武器だ。
――私の剣技は、まだ未熟。
完璧な型。
一分の隙もない動き。
ただし、木の枝につまずいて転びそうになったのは秘密だ。
それでも彼女は満足していなかった。
「ブリュンヒルデ」
悠斗の声に、動きが止まる。
「主君」
振り返った彼女の瞳は、いつものように恭しく悠斗を見つめた。
「夕飯だぞ。みんな待ってる」
「承知した。すぐに参る」
ブリュンヒルデは剣を収めたが、鞘に入れ損ねて二回ほどカチャカチャと音を立てた。
「……今のは見なかったことに」
「ああ」
悠斗は苦笑を隠せなかった。
「なんかあったのか?」
「……何もない」
悠斗は少し考えてから口を開いた。
「最近、無理してないか?」
「無理などしていない」
即答するブリュンヒルデ。
しかし、その顔には疲労の色が見えた。
「朝から晩まで訓練して、夜は見張りして、食事の準備も手伝って……」
「私の務めだ」
「あと、俺の行動記録もつけてるんだろ?」
「!」
ブリュンヒルデが硬直した。
「な、何のことだ」
「昨日の昼飯後、『主君は右足から歩き始めた』って呟いてたぞ」
「……聞き間違いだろう」
目が泳いでいる。
「でも」
「問題ない」
ブリュンヒルデは話を打ち切るように踵を返した。
悠斗は彼女の背中を見ながら、溜息をついた。
――こいつ、一人で抱え込みすぎだ。
宿に戻ると、他の三人が待っていた。
「お帰りなさい〜」
セレナが笑顔で迎える。
「遅かったわね」
カーミラが少し拗ねたように言う。
「特訓していたのですか?」
ルナリアが心配そうにブリュンヒルデを見る。
「少しだけ」
ブリュンヒルデは簡潔に答えた。
夕食の席で、悠斗は気づいた。
ブリュンヒルデだけが、いつもより静かだ。
「どうした? 食欲ないのか?」
「問題ない」
彼女は料理を口に運ぶが、その動きは機械的だった。
「ブリュンヒルデさん」
セレナが心配そうに声をかける。
「最近ちょっと無理してませんか?」
「無理などしていない」
同じ返事。
「でも、夜も寝ないで見張りしてるって聞きました」
ルナリアも加わる。
「それは私の責務」
「責務って言っても、限度があるでしょ」
カーミラが呆れたように言う。
「倒れたら元も子もないわよ」
「倒れはしない」
ブリュンヒルデは頑なだった。
「心配無用だ」
その時、悠斗が立ち上がった。
「ちょっと来い」
「は?」
「いいから」
悠斗はブリュンヒルデを外に連れ出した。
二人きりになると、悠斗は単刀直入に聞いた。
「何を焦ってる?」
「焦ってなど」
「嘘つけ」
悠斗は真っ直ぐブリュンヒルデを見つめた。
「最近のお前、明らかにおかしい」
「……」
ブリュンヒルデは俯いた。
「俺たちには内緒か?」
「違う」
彼女は首を振った。
「ただ……」
「ただ?」
「……私は、不要なのではないかと思うことがある」
悠斗が眉をひそめる。
「どういう意味だ?」
「ルナリア殿は死神として主君を見守り、カーミラ殿は血の契約で主君と繋がっている」
ブリュンヒルデは続けた。
「セレナ殿は魔法で支援し、薬草の知識で皆を助ける」
「ああ」
「だが私は……戦うことしかできない」
ブリュンヒルデは拳を握りしめた。
「最近は強敵も現れない。私の剣は、何の役にも立っていない」
「それは」
「故に、せめて訓練を積み、護衛として完璧でありたい」
ブリュンヒルデの声には悲痛さが滲んでいた。
「でないと、私には……価値がない」
悠斗は黙って聞いていた。
――なるほど、そういうことか。
「なあ、ブリュンヒルデ」
「何だ」
「お前、天界でも魔界でも居場所がなかったって言ってたよな」
ブリュンヒルデの肩が震えた。
「……ああ」
「そこでも訓練ばっかりしてたのか?」
「いや、最初は友達を作ろうとしたが……」
「が?」
「『君の観察日記つけてもいい?』と聞いたら、みんな逃げていった」
悠斗は頭を抱えた。
「そりゃそうだろ……」
「それで、ここでも同じことを思ってるんだな」
「!」
図星を突かれて、ブリュンヒルデは顔を上げた。
「役に立たなければ捨てられる。そう思ってる」
「……」
ブリュンヒルデは何も言えなかった。
「馬鹿だな」
悠斗は呆れたように言った。
「主君……」
「誰がお前を捨てるって言った?」
「しかし、私は」
「戦うだけが価値じゃないだろ」
悠斗は続けた。
「朝飯の支度を手伝ってくれるだろ。荷物も持ってくれる。道案内もしてくれる」
「そのようなことは」
「大事なことだ」
悠斗は断言した。
「それに」
「それに?」
「お前がいなかったら、俺はとっくに危ない目に遭ってるかもしれない」
ブリュンヒルデが目を見開く。
「主君は不死身では」
「不死身でも、危険は避けたい」
悠斗は苦笑した。
「お前の護衛のおかげで、余計なトラブルを避けられてる」
「……本当か?」
「ああ」
悠斗は頷いた。
「だから、あんまり無理すんな」
「しかし」
「休むのも仕事のうちだ」
悠斗はブリュンヒルデの頭に手を置いた。
「今夜の見張りは俺がやる」
「それは認められない!」
ブリュンヒルデが慌てる。
「護衛が主君に見張りをさせるなど」
「たまにはいいだろ」
「異議あり」
ブリュンヒルデが騎士らしく、しかし頑なに首を振る。
「護衛として恥じない戦いをすることこそ、私の存在価値」
「だから、それだけじゃないって言ってるだろ」
悠斗はため息をついた。
「頑固だな」
「主君こそ」
二人は睨み合った。
その時、扉が開いた。
「もう、何してるんですか〜」
セレナが顔を出す。
「みんな心配してますよ」
「すまん」
悠斗が謝る。
「ブリュンヒルデ、頑張りすぎちゃダメですよ」
セレナが優しく言う。
「私たち、仲間じゃないですか」
「仲間……」
「そうよ」
カーミラも現れた。
「一人で抱え込まないで」
「ブリュンヒルデさん」
ルナリアも微笑む。
「あなたは、私たちの大切な仲間です」
三人に囲まれて、ブリュンヒルデは戸惑った。
「しかし、私は戦うことと……」
言いかけて口を閉じた。
「と?」
カーミラがニヤニヤしながら続きを促す。
「……観察することしかできない」
「やっぱりストーカーじゃない」
「護衛だ!」
真っ赤になって否定する。
「でも、ユートの睡眠時間まで記録してるんでしょ?」
セレナが楽しそうに言う。
「それは健康管理の一環で……」
「寝息の回数まで数えてるって聞いたわよ」
ルナリアが付け加える。
「うぐっ」
「能力とか関係ないでしょ」
カーミラが肩をすくめる。
「一緒にいてくれる、それだけで十分よ」
「そうです〜」
セレナが頷く。
「ブリュンヒルデさんの真面目なところ、私は好きですよ」
「頼りになる騎士様です」
ルナリアも同意する。
ブリュンヒルデは、まだ戸惑っている。
「本当に……それでいいのか?」
「当たり前だろ」
悠斗が言い切った。
「俺たちは仲間だ。それ以上の理由なんていらない」
その言葉に、ブリュンヒルデの瞳が潤んだ。
「主君……みんな……」
「さ、中に入りましょう」
ルナリアが優しく促す。
「夕飯の続きをしないと」
「でも、今夜の見張りは……」
ブリュンヒルデがまだ抵抗する。
「今夜はみんなで交代制にしましょう」
セレナが提案する。
「それなら誰も無理しないで済みます」
「いいアイデアね」
カーミラが賛同する。
「でも私は主君の寝顔を――」
ブリュンヒルデが口を滑らせ、慌てて手で口を塞いだ。
「今なんて?」
悠斗が聞き返す。
「な、何でもない! 見張りの交代に賛成だ!」
「……分かった」
ついにブリュンヒルデが折れた。
「では、そうしよう」
「やった〜」
セレナが嬉しそうに手を叩く。
宿に戻った五人は、再び食卓を囲んだ。
「あ、そうだ」
カーミラが思い出したように言う。
「ブリュンヒルデ、これ食べなさい」
皿にブリュンヒルデの好物を盛り付ける。
「血の巡りが良くなるから、疲労回復にいいわよ」
「……感謝する」
ブリュンヒルデは小さく呟いた。
「私も薬草茶淹れますね」
セレナが立ち上がる。
「リラックス効果のあるやつです」
「おせっかいなやつらだな」
悠斗が苦笑する。
「でも、悪くない」
ブリュンヒルデは初めて、心から微笑んだ。
「そうだな。悪くない」
そして小声で付け加えた。
「……主君の新しい表情が観察できた」
「何か言ったか?」
「いや、何でもない」
慌てて首を振る。
その夜、初めて五人全員でちゃんと眠った。
交代で見張りをしながら、でも誰も無理をすることなく。
ブリュンヒルデは久しぶりに、安心して眠りについた。
……寝る直前まで「主君の寝相パターン分析」をしていたのは、誰にも言えない秘密だ。
仲間たちに囲まれて。
もう一人じゃないという実感と共に。