死にたい男と死神少女
黒崎悠斗は、今日もまた死ねなかった。
「……クソッ」
断崖絶壁から身を投げても、体はピンピンしている。骨の一本も折れていない。服すら破れていない。まるで、そよ風に吹かれた程度の衝撃しか受けていないかのように。
これで何度目だろうか。もう数えるのも馬鹿馬鹿しくなってきた。
元々、悠斗は死にたがりだった。いや、正確に言えば「生きることに疲れた」男だった。
前世では、朝から晩まで、時には徹夜でプログラムを書き続けた。上司からは無理難題を押し付けられ、同僚からは陰口を叩かれ、それでも必死に働いた。何のために? 誰のために? そんなことを考える余裕すらなかった。
そして、ついに体が限界を迎えた。
デスクに突っ伏したまま意識を失い、気がつけばこの異世界にいた。
『おめでとうございます! あなたは異世界エヴァンダールに転生されました!』
目の前に現れた美しい女神は、満面の笑みでそう告げた。
『特別に強力なスキルも授けましょう! さあ、この世界で第二の人生を謳歌してください!』
冗談じゃない。
せっかく死ねたと思ったのに、また生き返らされるなんて。しかも、今度は「不死身の肉体」なんていうふざけたスキルまで付けられて。
だから悠斗は、この世界で死ぬ方法を探し続けていた。
「はぁ……次は火山にでも飛び込んでみるか」
崖の下から這い上がりながら、悠斗は溜息をついた。
と、その時。
「あら、珍しい」
背後から、鈴を転がすような美しい声が聞こえた。
振り返ると、そこには一人の少女が立っていた。
銀色の髪は月光のように輝き、紅い瞳は血のように鮮やかだ。黒いゴスロリドレスに身を包み、手にはまるで芸術品のような装飾が施された大鎌を持っている。
どう見ても、人間ではない。
「死神……か?」
「ご明察」
少女——いや、死神は優雅に一礼した。
「初めまして。私はルナリア。死神族のハーフです」
「死神なら話が早い。俺を殺してくれ」
「……は?」
ルナリアの表情が固まった。紅い瞳が困惑に揺れる。
「あの……今、なんと?」
「だから、俺を殺してくれって言ったんだ。死神だろ? それが仕事じゃないのか?」
「ち、違います! 死神は勝手に人を殺したりしません! 天寿を全うした魂を導くのが私たちの役目で——」
「じゃあ俺の寿命はいつ尽きる?」
「え?」
悠斗は一歩、ルナリアに近づいた。
「死神なら分かるんだろ? 人の寿命が。いつ死ねるか教えてくれ」
「そ、それは……」
ルナリアの瞳が、悠斗の姿を捉える。そして——
「!?」
彼女の顔が青ざめた。いや、元々色白だったのがさらに白くなった。
「ど、どういうこと……? あなたの寿命が…見えない」
「は?」
「いえ、正確に言えば……∞(無限大)って表示されてる」
悠斗は頭を抱えた。
「マジかよ……」
「あなた、一体何者なの? 人間じゃないの?」
「いや、元人間だよ。ただ、転生する時に変な女神に『不死身の肉体』とかいうクソスキルを押し付けられただけで」
「不死身の肉体!?」
ルナリアの瞳が、まるで宝石のように輝いた。
「それって、本当にどんなことをしても死なないの?」
「ああ。さっきも崖から飛び降りたけど無傷だった。毒も効かない。首を切られても繋がる。もう嫌になるよ」
「素晴らしい……!」
「は?」
今度は悠斗が困惑する番だった。
ルナリアは頬を赤らめ、うっとりとした表情で悠斗を見つめている。
「ついに見つけた……私の理想の人」
「おい、何を——」
「あなた、名前は?」
「……ユート・ブラックハート」
「ユート様……なんて素敵な名前」
ルナリアは大鎌を地面に突き立てると、悠斗の手を取った。冷たい、けれど柔らかな感触。
「私、決めました。ユート様を死なせてあげるお手伝いをします」
「本当か!?」
「はい。でも、代わりに一つ条件があります」
「なんでもする。死ねるなら何でも——」
「では、私とお付き合いしてください」
「…………は?」
悠斗の思考が停止した。
ルナリアは恥ずかしそうに俯きながら、しかしその手は離さない。
「私、ずっと探していたんです。『死』を理解してくれる人を。みんな死を恐れるけど、ユート様は違う。死を求めている。きっと運命なんです」
「いや、ちょっと待て。話が飛躍しすぎ——」
「それに」
ルナリアは顔を上げた。その瞳には、狂気にも似た執着の光が宿っていた。
「不死身ということは、永遠に一緒にいられるということでしょう? 素敵じゃないですか」
悠斗は本能的に危険を感じた。
これは、ヤバい。
死神なのに死なせてくれないどころか、むしろ生かしておこうとしている。
「あの、俺は死にたいんだけど——」
「大丈夫です。いつか必ず、ユート様を死なせてあげます。でも今は……まだダメ」
ルナリアは悠斗の腕に自分の腕を絡ませた。
「だって、やっと見つけたんですもの。私の運命の人を」
そして彼女は、まるで子供のような無邪気な笑顔を浮かべた。
「これから毎日、一緒に死に場所を探しましょうね。ずっと、ずっと、二人で」
悠斗は確信した。
この異世界転生は、前世よりも面倒なことになりそうだ、と。
しかし、まだこの時の悠斗は知らなかった。
これが、4人のヤンデレヒロインとの出会いの、ほんの始まりに過ぎないということを。
* * *
夕日が地平線に沈もうとしている頃、悠斗とルナリアは森の中を歩いていた。
「ユート様、そろそろ野営の準備をしましょうか」
「ああ」
正直、断りたかった。こんな危険な死神と一緒にいるなんて。しかし、断ろうとすると——
『別にいいですよ。でも、私、ユート様のことが気になって、どうせ後をつけますから』
ストーカー宣言である。
それなら、まだ目の前にいた方がマシだと判断した。
「ここら辺でいいだろ」
適当な空き地を見つけて、悠斗は荷物を下ろした。
すると、ルナリアが不思議そうに首を傾げる。
「ユート様、食料は?」
「ああ、適当に木の実でも——」
「ダメです!」
ルナリアが声を荒げた。驚いて悠斗が振り返ると、彼女は頬を膨らませていた。
「ユート様の体は大切なんです。ちゃんと栄養のあるものを食べないと」
「いや、俺は死にたいんだから、むしろ——」
「ダメったらダメです!」
ルナリアは大鎌を振り回した。刃が月光を反射してキラリと光る。
「分かった、分かったから、その物騒なもの振り回すな」
「ふふ、素直でよろしい」
ルナリアは満足そうに微笑んだ。
「じゃあ、私が食材を調達してきますね。ユート様はここで待っていてください」
「おい、一人で大丈夫か?」
「死神を心配してくれるなんて、ユート様は優しいんですね」
ルナリアの頬が、また赤く染まった。
「やっぱり私の見込んだ通りの人です。ますます好きになっちゃいました」
「……そうか」
悠斗は曖昧に答えた。この死神、チョロすぎる。
「では、行ってきます。絶対に、どこにも行かないでくださいね」
最後の言葉だけ、やけに力を込めて言うと、ルナリアは森の奥へと消えていった。
悠斗は溜息をついて、その場に座り込んだ。
「まさか死神に気に入られるとはな……」
しかも、明らかにヤンデレ気質である。前世でも面倒な人間関係に悩まされたが、異世界でも同じとは。
「せめて、大人しい子だったら良かったんだが——」
「きゃああああっ!」
突然、森の奥から悲鳴が聞こえた。
女性の声だ。しかも、かなり若い。
「ルナリアか?」
いや、違う。声が違う。
悠斗は立ち上がった。正直、関わりたくない。余計なトラブルに巻き込まれるのは御免だ。
しかし——
「だ、誰か! 助けて!」
その必死な声を聞いて、悠斗の足は勝手に動いていた。
「チッ……面倒だな」
そう呟きながらも、悠斗の足は既に走り出していた。
自分でも理解できない。死にたがりの自分が、なぜ他人を助けようとするのか。
でも、体が勝手に動いてしまう。それが、悠斗という人間の本質だった。
森を抜けると、小さな空き地に出た。
そこでは、一人の少女が巨大な魔狼に追い詰められていた。
赤いツインテールの髪が風に揺れ、金色の瞳には恐怖の色が浮かんでいる。ゴシック調のドレスは所々破れ、その白い肌には幾つかの傷が見えた。
吸血鬼だ、と悠斗は直感した。その尖った犬歯と、非人間的な美貌が証拠だ。
「く……」
少女——吸血鬼は、地面に膝をついていた。魔狼の爪で負った傷からは、赤い血が流れている。
吸血鬼にしては、随分と弱っているようだった。
「グルルル……」
魔狼が唸り声を上げ、ゆっくりと近づいていく。
少女は諦めたような表情で目を閉じた。
「ごめんなさい……お父様、お母様……」
魔狼が飛びかかった。
その瞬間——
「おい」
悠斗が、魔狼と少女の間に割って入った。
魔狼の牙が、悠斗の首筋に食い込む。鮮血が噴き出した。
「!?」
少女の金色の瞳が、驚愕に見開かれる。
しかし、次の瞬間、さらに驚くべきことが起こった。
悠斗の傷が、見る見るうちに塞がっていく。千切られた肉が再生し、流れた血さえも体内に戻っていく。
「……やっぱり、死ねないか」
悠斗は溜息をついた。
魔狼も困惑している。確かに致命傷を与えたはずなのに、目の前の人間はピンピンしている。
「悪いけど、俺は死なないんだ」
悠斗は魔狼の顎を掴むと、力任せに引き剥がした。
「だから、他を当たってくれ」
そして、魔狼を遠くへ投げ飛ばした。
どうやら、不死身の肉体には、ある程度の筋力増強も含まれているらしい。魔狼は木に激突して、気絶した。
「……逃げたか」
魔狼は慌てて森の奥へと逃げていった。所詮は野生動物、理解できない相手とは戦いたくないのだろう。
悠斗は振り返った。
「おい、大丈夫か——」
「すごい……」
少女は、うっとりとした表情で悠斗を見上げていた。
その金色の瞳は、まるで獲物を見つけた肉食獣のように輝いている。
「その血……なんて美味しそうな薫り……」
「は?」
「あなた、人間じゃないでしょう? その血、普通じゃない」
少女は立ち上がると、ふらふらと悠斗に近づいてきた。
「お願い……少しだけ、血を分けて」
「おい、勝手に——」
しかし、少女は悠斗の言葉を聞いていなかった。
彼女は悠斗の首筋に顔を埋めると、そのまま牙を突き立てた。
「っ!」
チクリとした痛み。そして、血を吸われる感覚。
初めての経験だったが、不思議と不快ではなかった。むしろ、どこか心地良い。
「ん……美味しい……」
少女は恍惚とした表情で血を吸い続ける。
その姿は、まるで天国にいるかのような幸福感に満ちていた。
「……もういいだろ」
悠斗が引き離そうとした時、少女の体がびくりと震えた。
「!? なに、これ……」
彼女の瞳が大きく見開かれる。
「力が……溢れてくる……」
見る見るうちに、少女の傷が治っていく。青白かった顔にも血色が戻り、折れかけていた牙も再生した。
まるで、生まれ変わったかのように。
「信じられない……たった一口で、こんなに……」
少女は自分の手を見つめ、それから悠斗を見上げた。
その瞳には、狂おしいほどの執着が宿っていた。
「あなた、名前は?」
「……ユート・ブラックハート」
「ユート……素敵な名前ね」
少女は妖艶に微笑んだ。
「私はカーミラ。吸血鬼の真祖よ」
真祖。つまり、最も古く、最も強い吸血鬼ということか。
「聞いて、ユート。私、200年生きてきたけど、こんな血は初めてよ」
カーミラは悠斗の手を取った。
「お願い。私のものになって」
「……は?」
またもや、悠斗の思考が停止した。
カーミラは頬を赤らめながら続ける。
「だって、もうあなたの血じゃないと満足できない体になっちゃった。責任、取ってくれるでしょう?」
「いや、それは君が勝手に——」
「ダメよ」
カーミラの瞳が、一瞬赤く光った。
「もう決めたの。あなたは私のもの。永遠に、ね」
そして彼女は、悠斗の首筋にもう一度キスをした。
「ふふ、印もつけちゃった。これであなたは私のものよ」
悠斗は首筋に手を当てた。確かに、牙の跡がくっきりと残っている。
しかも、なぜか治らない。不死身の肉体なのに。
「これで他の吸血鬼も手を出せないわ。だってこれは、『所有の証』だもの」
カーミラは満足そうに微笑んだ。
悠斗は頭を抱えた。
死神に続いて、今度は吸血鬼。
しかも、どちらも明らかにヤンデレ気質だ。
「ユート様〜!」
そこへ、ルナリアが戻ってきた。両手には山のような食材を抱えている。
「お待たせしました〜って、あら?」
ルナリアの動きが止まった。
その視線は、悠斗の隣にいるカーミラに注がれている。
「ユート様、その女は誰ですか?」
声が、急に冷たくなった。
「えっと、これは——」
「あら、私はカーミラよ。ユートの恋人」
「は!?」
悠斗とルナリアが同時に声を上げた。
カーミラは涼しい顔で続ける。
「だって、血の契約を交わしたもの。ねえ、ユート?」
そう言って、悠斗の腕に自分の腕を絡ませる。
ルナリアの瞳が、危険な光を宿した。
「……そう」
彼女は静かに食材を地面に置くと、大鎌を構えた。
「じゃあ、死んでもらえる?」
「あら、怖い。でも、私も真祖の吸血鬼よ? 死神とはいえ、そう簡単には——」
「死ね」
ルナリアの大鎌が一閃した。
カーミラは素早く後ろに飛び退いたが、ドレスの裾が切り裂かれた。
「ちょっと! このドレス、お気に入りなのに!」
「次は首よ」
二人の美少女が、悠斗を巡って火花を散らし始めた。
悠斗は、心底うんざりした表情で呟いた。
「……もう、いっそ本当に死にたい」
しかし、これもまだ始まりに過ぎなかった。
この後、魔女と戦乙女も加わって、彼の周りはさらに騒がしくなっていく。
それはまた、別の話。
* * *
その夜。
結局、ルナリアとカーミラの争いは、悠斗が間に入って何とか収まった。
今は、焚き火を囲んで三人で夕食を取っている。
「ユート様、あーん」
「ちょっと! 私が先よ!」
二人が悠斗に食べさせようと争っている。
悠斗は諦めたように口を開けて、差し出された食べ物を受け入れた。
「……美味い」
意外にも、ルナリアの作った料理は絶品だった。
「ふふ、良かった。実は、料理は得意なんです」
「へぇ、死神なのに?」
「死神だって、たまには食事くらいしますよ」
そんな会話をしていると、カーミラが頬を膨らませた。
「ずるい。私だって、ユートのために料理くらい——」
そう言って、彼女も何か作ろうとしたが——
「あれ? 包丁ってどう持つの?」
「……お嬢様、まさか料理したことない?」
「だ、だって! いつも召使いが作ってくれるし……」
結局、カーミラは見てるだけになった。
悠斗は、そんな二人を見ながら思った。
面倒だけど、悪くない。
前世では、こんな賑やかな食事なんて無かった。いつも一人で、コンビニ弁当を掻き込むだけ。
誰かと一緒に食事をするなんて、いつぶりだろう。
「ユート様? どうしました?」
ルナリアが心配そうに顔を覗き込んできた。
「いや、なんでもない」
悠斗は慌てて顔を背けた。
まさか、少し嬉しく思ってるなんて、口が裂けても言えない。
死にたがりの自分が、生きる理由なんて見つけてはいけない。
そう、自分に言い聞かせながら。
「ユート、私にも食べさせて」
「自分で食え」
「ケチ!」
カーミラが拗ねた。その仕草は、200歳とは思えないほど子供っぽくて——
悠斗は、小さく笑った。
まだ自覚していなかったが、彼の中で何かが変わり始めていた。
死ぬことしか考えていなかった男の心に、小さな光が差し込み始めていた。
それに気づくのは、もう少し先の話。