「諦めないでいてくれて、ありがとうな」
藩主自らのお出ましに動揺が走る。
まさか、直々に亀若丸を処分しようと――
「死んだ兄上に子供がいたとはな。まったく、最後まで締まらないお人だ」
無表情から一転して苦笑する藩主に若干、緊張が緩んでしまう。
それから「花房、説明してもらおうか」と平伏している家老に言う。
「余に黙って藩士を使い、余の姪を殺そうとした訳をな」
「そ、それは――いたずらに高貴な血を増やさぬようにと」
「うん? いったい誰がそう望んだのだ?」
藩主はにこやかだが目の奥が笑っていない。
「余は確かに足利の血を増やすのはよろしくないと考える。しかしだ、絶やすことも望んでいない」
「ご、御所様! わしは――」
「……この者を連れていけ」
藩主の鶴の一声で花房の脇を二人の藩士が持ち、力づくで連行していく。
「お慈悲を、御所様ぁああああ!」
喚く家老の声が遠ざかった後、藩主は「これで良いな、川路」と三左衛門を呼ぶ。
「ええ。私としても問題はございません」
「公方殿によろしく伝えてくれ……さて、亀若丸。そなたが余の姪であることは分かる。兄上の面影を感じるからな。加えて今までの騒動も加味すると真実であると判断する」
そこで藩主は膝をつき「今まですまなかった」と頭を下げた。
これには控えていた藩士たちが大騒ぎした。
「御所様! 頭をお上げください!」
「このようなところ、領民に見られたら!」
俺もまたとんでもないところを見てしまったと感じた。
藩主が人前で頭を下げるなど、ありえないことだからだ。
亀若丸が俺の手を握る力を強くした。
「騒ぐな。家老が勝手にやったこととはいえ、すべての責任は余にある。無論、これで許してほしいなどとも言えぬ」
「……ずいぶんとご立派な態度ですね。流石に上に立つお方だ」
皮肉めいたことを言ったのはこれまで流した血を思ったからだ。
三左衛門が「源八郎さん、控えてください」と注意してきた。
「いや、そう言われても仕方あるまい。それと余から提案がある」
「提案、ですか……?」
藩主が頭を上げて「亀若丸。余の養女にならないか?」と申し出てきた。
唐突な話に「お、おいらが養女?」と不思議そうな顔になる。
「ああ。足利の血を引くそなたは喜連川家の一族だ。ならば城に住み姫として育てるのが余の責務だろう。そうなれば煩わしい諸問題は無くなる。たとえばそなたを殺そうと考える者はいなくなる」
「もう、おいらが狙われることはなくなるの?」
「そのとおりだ。余は五千石の大名だが、不自由のない生活は保障できる」
亀若丸にとって良い話だと俺は思う。
次に藩主は「どうだ。受けてくれるか」と亀若丸に言う。
「……あのう。今まで通りの生活には戻れないのかな?」
「それも可能だ。そなたの村……桜田村に戻って百姓として生きる道もある。その場合は藩士が護衛につくかもしれぬ。よくよく考えてみるといい」
亀若丸は俺の顔を覗き込んだ。
どうすればいいのか分からないようだ。
「源八郎。おいらどうすれば――」
「亀若丸。俺に委ねるんじゃない。お前が決めるんだ」
迷っている子供を突き放つ言葉だが、人生の岐路に立つときは自分で決めねばならない。
俺が導くのは簡単だろう。
一言言えばいいのだから。
けれども、後々後悔するのは亀若丸なのだ。
「お前がどうしたいのか。心のままに言えばいい」
「源八郎……」
「大丈夫だ。俺たち大人がお前の道を助けてやる。どれを選ぼうが、守ってやるよ」
俺は「三左衛門、そうだよな」と投げかけた。
「はあ。私から言おうと思っていたのに。源八郎さんは良いところを持って行きすぎですよ」
「出どころを心得ているお前には言われたくねえ」
亀若丸は俺たちの顔を交互に見た。
そして目を瞑り、しばらく考えた後、答えを出した。
「おいら、桜田村に戻るよ」
「良いのだな?」
「うん。村に待っている人もいるし。それにおいらが姫なんて想像もつかないから」
亀若丸はまるで夏の花のような笑みを見せた。
「おいらは百姓でいい。今まで通りの生活がしたいんだ」
「そうか。ま、姫になりたいのならいつでも言ってくれ。護衛の藩士に言えば叶えてくれよう」
藩主は満足そうに笑った。
「余はそなたが羨ましい。自分が望んだ道を歩めるのだから」
それから藩主は「三輪源八郎。そなたに感謝する」と俺に軽く頭を下げた。
「姪の意思を尊重してくれる大人で助かった」
「いえ、俺は何も。亀若丸が強くなった。ただそれだけです」
ふいに亀若丸の手が震えていた。
亀若丸は笑いながら泣いていた。
「終わったんだね……全部、上手くいった」
「ああ、そうだな」
「源八郎、約束守ってくれたね」
涙を拭って、俺にとびっきりの笑顔を見せた。
「ありがとう! 源八郎!」
胸が熱くなるのを感じながら、俺は亀若丸の頭を撫でた。
「俺のほうこそ、礼を言わせてくれ」
「……えっ?」
「諦めないでいてくれて、ありがとうな」
亀若丸は本当に嬉しそうに笑っている。
俺もつられて笑ってしまった。
◆◇◆◇
「首斬り源八郎さん。そろそろ見えてきますね」
一年後、俺と三左衛門は桜田村に向かっていた。
去年と同じ、暑い盛りの日が続いている。
俺は手拭いで汗を拭いながら「そうだな」と応じた。
三左衛門はまた出世したようで、身なりが少し良くなっている。
今度は地方へ向かうようで、その前に亀若丸と会おうと提案されたのだ。
「無事に山田朝右衛門殿の門人に戻れたようですね」
「ああ。今年の内には継ぐことになるだろう」
「じゃあしばらく自由に動けませんね。なにせ、介錯の仕事がありますから」
師匠には一連の騒動の顛末を話した。無事に亀若丸が百姓として暮らすことを伝えると珍しく大笑いされた。
それでようやく隠居ができるとも満足そうだった。
「嶋崎殿、江戸に道場を開くそうですよ」
「へえ。天然理心流を継ぐのか」
「それとふでさんでしたっけ? 言い寄っているみたいです」
「あの女と所帯持ちたいのか? 俺ならごめんだな」
「あははは。人には人の好みがありますから」
もう少しで桜田村に着くときに、三左衛門が足を止めた。
どうしたんだと思っていると「ありがとうございます、源八郎さん」と頭を下げてきた。
「一年前、私は道を誤りかけました」
「……いきなりどうしたんだ?」
「子供を犠牲にした泰平の世なんて、そんなの駄目ですよね。一年前の自分はどうかしていました」
真っすぐな謝罪に俺は頬を掻く。
残った傷跡は俺の誇りとなっていた。
「はん。言うのが一年、遅いんじゃねえのか?」
「それは汗顔の至りですが……私のほうも忙しかったんですよ」
「喜連川藩との折衝か」
「ようやく済んで、源八郎さんと一緒に向かえるわけです」
俺は三左衛門に「別にいいさ」と気安く応じた。
「最後は味方になってくれたしな。あんときお前がいなかったら俺は死んでた」
「源八郎さん……」
「悪いと思っているなら……そうだなあ……」
きっと俺は悪い顔をしているのだろう。
三左衛門は黙っている。
「今度飯奢れや。お前が思う、美味しい店でな」
「……件の蕎麦屋でいいですか?」
「良いわけねえだろ」
二人してひとしきり笑って、それから桜田村に入った。
寂びれたところだが、行き交う百姓の表情は明るかった。
「あ! あんた、あのお侍さんか!?」
一人の子供が俺に近づいてくる。
よく見ると太助だった。かなり大きくなっている。
「太助か。久しぶりだな」
「おう! 亀若丸に会いに来たのか?」
「ああ。案内してくれるか?」
太助は快く「いいよ、ついてきてくれ」と歩き出す。
三左衛門は「知り合いですか?」と訊ねた。
「亀若丸の友達だ」
「そうですか……」
「お侍さん。亀若丸を助けてくれてありがとうな」
太助は手を後ろに回しながら「全部、聞いたよ」と笑った。
「俺との約束、守ってくれて嬉しかった」
「俺はできない約束はしない主義だ」
「本当ですか? 初耳ですけど」
「言ってなかったか? ついでに俺は張ったばかりの障子と約束は破らねえんだ」
そんな馬鹿な会話をしていると太助が「亀若丸! お侍さんが会いに来たぞ!」と大声で呼んだ。
そこには男の子の恰好ではなく。
女の子らしい姿をした亀若丸がいた。
明るい小豆色の服を着ている。
そして母親が残したかんざしを挿していた。
「あ! 源八郎!」
一年ぶりだからか、懐かしさが勝る。
駆け寄ってくる亀若丸に俺は手を振った。
「元気か、亀若丸」
「うん! 太助、案内ありがとうね」
「別にいいさ。それより、まだその格好慣れないぜ」
太助はきょろきょろと亀若丸の恰好を眺める。
亀若丸も「おいら……じゃなかった、あたしも慣れないよ」と笑う。
「でも少しずつ慣らしていこうかな」
おそらくだが、亀若丸の母親のききょうが、今亀若丸の頭に挿してあるかんざしを残したのは――いずれこうして使うことを望んだからだ。
喜連川の一族である証のためではない。
女の子として生きてほしいから残しておいたのだ。
「うん? どうかしたの、源八郎」
「いや……実はお前に訊きたいことがあるんだ」
俺は改まって亀若丸と向き合った。
「お前は今、幸せか?」
きょとんとしていた亀若丸だったが、俺の問いを噛み締めるように頷いてから、笑顔で答えてくれた。
「うん! あたし、とっても幸せだよ!」
ああ。この子はこれからも幸せで居続けるんだな。
そう安堵できる答えだった。




