「言われなくともそのつもりだ」
喜連川という名を聞いて、初めは拍子抜けした気分になった。徳川家の係累ではなく、ましてや御三家でも御三卿でもない。どこぞの藩の御息女だったのか――しかし、少しずつ喜連川藩のことを思い出した。
「まさか、天下の客位、無位の天臣の喜連川藩か!?」
「……そのとおりでございます」
なんてことだ……じゃあ亀若丸にはあのお方の血が流れているのか?
動揺する俺に「源八郎……」と心細い様子の亀若丸。
どう説明すればいいのだろうか……
「亀若丸。お前は足利家を知っているか?」
「えっ? ううん。知らないよ? どこかの藩?」
「藩ではない。徳川家の前に天下を治めていた将軍家だ」
「……どういうことなの?」
俺は努めて冷静に――なれていないかもしれないが――亀若丸に言う。
俺自身、想像もしていなかった事柄だ。
「天下人の足利尊氏公。その次男であらせられる足利基氏公の末裔が――喜連川藩主だ」
「…………」
「つまり、お前は天下人の血を引いているんだよ」
あまりの衝撃に亀若丸は「う、嘘だ……」と震えた声で呟く。
なんて重いものを背負っていやがる。
まさに奇縁だ――
「だから、子を成せないように仕向けたのか?」
「高貴な血が広まることは……望ましいとは言えませんので」
村長の言い草に腹を立てた――俺の袖を亀若丸が握る。
とても悲しそうに、それでいて心細そうだった。
「信じたくない……おいらに、そんな血が……」
「……なあ村長。どうしてお前は知っているんだ?」
亀若丸の血について問うと、村長は険しい顔のまま「この子の母親、ききょうはわしの弟の娘です」と言い出した。
「亀若丸、お前は知っているはずだ」
「う、うん。だから村長は、おっかあが死んだ後に養子に迎い入れようと――」
「それだけではない。わしはききょうから全てを託されていたのだ」
村長は深呼吸して「三輪殿、これから話す話は亀若丸にはつらく感じるでしょう」と告げた。
「どうか、亀若丸を守ってあげてください」
「言われなくともそのつもりだ」
「そう言える人が亀若丸の傍にいてくれて良かった……」
もはや俺は覚悟を決めていた。
どんな話を聞かされても構うものか。
亀若丸を守る。その決意に変わりはない。
「亀若丸の母、ききょうは喜連川藩にある商家に奉公しておりました。弟夫婦は早くに亡くなり、わし以外に縁者がいなかったのです。だからわしは知り合いの伝手を頼り、件の商家を紹介したのです」
「何故、武蔵国の商家ではなかったのだ?」
「生憎、飢饉のせいで奉公先が見つからなかったのです。しかし、喜連川藩だけは一人の餓死者を出すことなく、それでいて人手も欲しがっておりました」
「すまないが、俺は喜連川藩について詳しく知らん。しかしそこまで大きな藩ではなかったと聞くが……」
疑問に対して「喜連川藩は僅か五千石の石高しかありませぬ」と村長は答えた。
「普通ならば大名とは呼べませんが……格式の高さから十万石の大大名の扱いを受けていました。加えて藩主様が備蓄米の管理を行ない、百姓に米を下賜したのです」
「ふん。ずいぶんと領民思いな藩主だな」
「ええ。ですから今まで喜連川藩内では一揆が起きたことはありません」
百姓のための政をしているのはご立派だ。
だがしかし、商家の奉公人であるききょうと喜連川暉氏の関係が分からない。
それに村長は亀若丸のことを遺児と言った。
つまり、喜連川暉氏は――
「それで、ききょうはどうやって喜連川と接点を持った?」
「ききょう本人から聞いた話ですが、ある日、本陣と呼ばれる宿所においでになられた喜連川暉氏様に見初められたと……」
「領民思いが聞いて呆れるな」
「暉氏様にとっては遊びだったようですが、ききょうは本気でした。子を宿したときは大層嬉しかったと後に語りました」
話を聞いている亀若丸は複雑そうな顔になる。
自身の出生を聞かされているのだから当然だろう。
「ききょうは暉氏様に話そうとしましたが……その矢先に暉氏様は夭折されました。失意に暮れたききょうでしたが、こちらに戻って亀若丸を産みました。そして仔細を聞いたのはわしだけだったのです」
「そうか……だが、銀次郎はいつ知ったんだ? お前が話したのか?」
「いえ。銀次郎は喜連川藩の藩士です。元々暉氏様の御付きの者でした」
亀若丸は「銀次郎、武士だったの!?」とひどく驚いた。
俺は死に際の言葉遣いから武士だろうと予測していた。
「なるほど。だから銀次郎は命懸けで亀若丸を守ろうとしたのか。主君のご息女だからな」
「わしと銀次郎は亀若丸を赤子の頃から見守っていました。死なさぬように、健やかに生きるように……」
村長は少し間を開けて、それから続きを話し始めた。
「ききょうが流行り病で死に、亀若丸が天涯孤独になったのを機に、銀次郎はわしに相談をしてきました。亀若丸のことを次代の藩主である喜連川煕氏様に話そうと。無論、跡継ぎにしてほしいと願い出るつもりはありませんでした。ただ……報告するべきだとわしたちは考えたのです」
確かに、村長や銀次郎にしてみれば、そう考えてもおかしくないだろう。
一人っきりになってしまった亀若丸の身を案じれば当然のことだ。
「銀次郎はまず、家老の花房主水様に手紙を書きました。次期藩主であらせられる煕氏様に直接は出せませぬ。それに家老の花房様は名高きお方。真実を伝えれば何とかしてくれると思いました。けれども――」
村長は険しい顔で亀若丸を見た。
初めて見る表情だったのだろう、亀若丸は怯えてしまう。
「花房様の返書には、亀若丸を殺せと書かれていました」
「……どういうことだ?」
再び怒りがふつふつと湧き出てくる。
亀若丸の顔は白くて血の気が引いていた。
「長々と理由が書かれていましたが、要約すると……高貴な血を引いている暉氏様と、下賤な百姓の娘との間に生まれた子供など殺してしまえと」
「あの野郎……! いけ好かねえとは思っていたが、そこまで下衆だったか!」
「そして、亀若丸の殺害を、銀次郎に命じたのです」
世話してきた者に命じるなんて!
あいつには情けはないのか!
「で、でも、おいら、銀次郎に、守られて……」
「それが答えだ、亀若丸。銀次郎はお前を殺せなかったんだ」
村長は険しい顔のまま真実を伝えた。
「脱藩の罪を許して喜連川藩に戻ってもいいという話を蹴ってまで、銀次郎はお前を守ることを選んだんだ」
「なんで、そんな……」
「お前のことを大切に思っていたからだ」
俯いた亀若丸は「銀次郎……」と涙を流した。
長年、一緒にいて情が移ったのだろう。
俺は銀次郎がどんな人間か知らないが、おそらく心優しい男だったのだ。
そうでなければ、脱藩してまで主君の娘を見守ろうとは思わない。
「銀次郎は断りの手紙を送った。幸い、亀若丸は何も知らない。わしと銀次郎が黙っていれば知る由もない。だからこのまま見守り続けると誓った」
「だが刺客は来た。あの武士たちは喜連川藩の藩士だったのか」
「わしは存じ上げませぬが、そうでしょうな」
亀若丸が狙われる理由が分かった。
三左衛門たち幕府の人間が喜連川藩に協力した理由も分かった。
形骸化したとはいえ、徳川家よりも前に天下を支配した足利家の血をむやみやたらに増やしたくないのだろう。
くそ! 亀若丸は関係ないじゃねえか!
「他に何か隠していることはないか?」
「……ききょうが暉氏様にいただいたかんざしがございます。今持ってきます」
村長は家の奥のほうへ探しに行った。
俺は亀若丸に「大丈夫か?」と訊ねる。
「大丈夫……なわけないよ。おいら、どうしていいのか分からない」
「奇遇だな。俺もだ」
「ねえ源八郎――」
大粒の涙を流している亀若丸は俺に縋った。
「おいら、死んだほうがいいのかな? みんながみんな、おいらが邪魔だと思っている。おいらだって、よく分からない血が流れているのが怖いんだ……」




