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「誰か手が空いてる人はいないかな?」
室長が事務室を見回しながらそう言ったのは、私が仕事を始めてからもうすぐ二年が経とうという、凍えるように寒い日のことだった。
私自身、「新人」と呼ばれる期間も過ぎ、少しずつできることが増えてきた。
せっかくの機会だから後輩に良い所を見せようと、「私できます」と声を上げると、何もかもを見透かしたような顔をした室長が「じゃあレベッカさんに頼もうか」と言って、私に書類を手渡した。
「文官側でミスがあったらしくてね。至急で頼むと言われているんだ」
室長の言葉を聞きながら書類に目を落とすと、フィオナさんの名前が目に入る。
元々の担当者であろうフィオナさんの名前が消されていて、彼女の上長の名前に書き換えられていることから、おそらく〝文官側のミス〟とは彼女によるものなのだろう。
書類の内容に目を通すと、フィオナさんのミスがわりと重大なものであることと、おそらく文官の人々は今頃大慌てでミスのカバーに当たっているのだろうことまで読み取れた。
「フィオナさんでも、ミスなんてするんだ……」
普通に考えれば、当然のことなのだ。
彼女だってまだ二年目の若造で、ミスをすることもあれば、そのミスで周囲に迷惑を掛けることだってあるのだ。
けれどもなぜか、私は二重線で消されたフィオナさんの名前を見て、雷に打たれたくらいの衝撃を受けた。
それは「彼女がミスをした」ことに対するものではなく、「今までそんなことにすら気づかなかった自分」に対する衝撃だった。
「……私も、頑張らなくっちゃ」
その言葉は誰に向けて発したものでもなかったけれど、すぐそばにいた室長の耳には届いたようで、「わからないところがあれば遠慮なく聞きなさい」と言う彼は、やっぱり娘を見守る父親のような表情を浮かべているのだった。
文官側から私達に回ってきた書類はそれほど煩雑なものではなく、その日の私の仕事は定時で終わった。
本当ならば、真っ直ぐ家に帰るべきだろう。繁忙期でないとは言え、私が仕事と家事を両立するだけの要領の良さを持ち合わせていないせいで、溜まってしまっている家事はたくさんある。
けれども、なんとなく家に足が向かず、私はわけもなく遠回りをする。
「エドウィンと頻繁に会っていた時は、いつもこの辺りで待ち合わせたなあ」なんてことを考えながら、騎士団の演習場の前を通り過ぎようとすると、誰かがこちらに向かって歩いてくるのが目に入った。
「フィオナ……さん?」
文官の職場がある方向から、ふらふらとした足取りで歩いてくるのは間違いなく彼女で、私は思わず柱の影に身を隠す。
だってきっと、彼女は私の顔など見たくもないだろうから。
それにしても、こんなところでフィオナさんを見かけるなんて、初めてのことだ。
騎士であるオスカーと付き合っているのだから、彼女がここに来ること自体はおかしなことではないけれど、なんとなく気になってちらりと覗くと、フィオナさんが真っ青な顔をしていることに気がついた。
ハラハラとした気持ちで見ていると、演習場の前に辿り着いた彼女はそこでぴたりと足を止め、その場に立ちすくむ。
呆然としたようにも見える彼女はなんとなく危なっかしく感じられて、「さすがにこのまま放っておくわけにはいかないわ」と、彼女の方へと足を踏み出そうとしたその時だった。
「フィオナ……?」
困惑の混じる声と共に登場したのは、おそらく彼女が会いたかったであろうオスカーその人で、私は慌てて足を引っ込める。
おそらくオスカーも、フィオナさんのただならぬ様子に気がついたのだろう。
彼はフィオナさんに向かって「こっちへ」と声を掛けると、私が身を隠すのとは別の柱へと彼女を誘導した。
彼はそのまま自分の身体でフィオナさんを隠すように覆うと、周囲をきょろきょろと見回している。おそらく、自慢の彼女を騎士の仲間に見せたくないのだろう。
「職場でもうんざりするくらいに惚気ているくせに、『下手に姿を見せてフィオナが惚れられたらどうする!?』と言って、フィオナちゃんのことを囲いに囲いまくっているよ。学生の頃と変わらないね」
エドウィンからそんな話を聞かされたのも、もう随分と前のことに感じられる。
「急に来てごめんなさい」
「迷惑よね? すぐに帰るから」
「一目見たいと思って来ただけなの」
そう言い募るフィオナさんの声は小さくて、今にも泣き出しそうなのか震えていた。
そんな彼女を、オスカーは正面から抱きしめると、「俺ももう終われるから、少しだけ待ってて」と言った。
立ち去るタイミングを逃してしまった私は、二人の様子を離れたところからぼんやりと眺める。
隣国との新人合同演習が間近に迫っている今、二年目騎士の代表として責任者に名を連ねているオスカーが、どうやってこの時間に業務を切り上げるつもりだろうかと、訝しげな気持ちでいたのだけれど、彼は小走りで演習場へと向かうと、すぐそばにいた騎士を呼び止めた。
運悪くその相手は、オスカーの実力をやっかんで度々彼に突っかかっている先輩騎士だったのだけれど、オスカーはなんの躊躇もなく、その騎士に向かって深々と頭を下げた。
その姿は、背筋がぴんと伸びていて堂々としていて、とても美しいものだった。
その後、オスカーとフィオナさんは二言三言会話を交わして、そのまま手を繋いで騎士寮の方向へと去って行った。
その時のフィオナさんの表情は、申し訳なさそうではあるものの、先ほどまでの真っ青だったのが嘘のように、安心しきっているように見えた。
そして私はそんな二人を、後ろ姿が見えなくなるまでその場で見送ったのだった。
◇◇◇
ジョンよりを戻してから知ったことだけれど、彼は自分の家族とは淡白な付き合いをしているらしい。
だから、社交的とは言い難く交友関係も広くない彼から「今日は外で食べてくるから、食事はいらないよ」などと言われるのは同棲してから初めてのことで、定時で仕事を終えて職場を出る今日の私は、少し浮き足立っている。
このまま家に帰って、誰の目も気にせずにだらだらと過ごすのも魅力的ではあるけれど、せっかくだから外食をしようと思い立った私は、一人でレストランの扉をくぐる。
一年以上前に職場の先輩から教わって、「近いうちにエドウィンを誘って行ってみよう」と思っていたにもかかわらず、そのまま行かずじまいになってしまっていた店だ。
先輩が「おすすめだよ!」と言っていただけあって、店の雰囲気は申し分なく、メニューから吟味して選んだ料理はどれも美味しかった。
「素敵なお店だね。レベッカはどれが気になってる? せっかくなら別のメニューを頼んで分けようよ」
そう言ってくれる人が今の私の隣にはいないことを、残念に思うくらいには。
食事を終えて店を出ると、どこからかジンチョウゲの香りが漂ってきているのに気がついた。
「もうそんな時期なのね」
そんなことを呟きつつ、夜の広場特有の熱気の中を一人で歩いている時だっだ。
「レベッカ?」
まさかこんなところで呼び掛けられるとは思っておらず、ぴくりと肩を揺らすと、声の主は「ごめん、驚かしたよね」と言った後で、「俺だよ。エドウィンだよ」と名乗った。
「本当にごめん。こんな夜に急に男から声を掛けられて、怖かったよね」
エドウィンはそう言いながらわかりやすく眉を下げるので、私は思わず笑ってしまう。
「いいえ、大丈夫よ。私が大袈裟に反応してしまっただけ」
「でも、驚かせてしまったことに変わりはないからさ」
そう言って再度「ごめんね」と謝る彼に、「気にしないで」と答えると、それっきりエドウィンは黙り込んでしまった。
一目見た時から「もしかして?」とは思っていたけれど、どうやらエドウィンは酔っ払っているらしい。
職場の飲み会でこんなふうになっている彼の姿を見たことはないので、おそらく相当飲んだのだろう。
上気した頬ととろんとした目付きのせいで、彼がいつもより随分と幼く感じられて、なんだか落ち着かない気持ちになる。
「……もしかして、気持ち悪かったりする? どこかで休憩する?」
具合が悪そうには見えないけれど、あまりにも長い間エドウィンが黙っているものだから、心配になってそう尋ねてみたところ、彼はにこりと笑って「大丈夫。ほんと、レベッカはいつも優しいね」と言った。
「別に、優しくはないでしょうよ。こんな状態の友人を放っておく人間の方が異常よ」
いくら「二人きりで会うのはやめよう」と決めたとはいえ、今はその範疇ではない。
明らかに酔っ払っていて、さらには口数も少ない友人に対して、「ごめんね急いでいるからー」なんて言って置き去りにしていくようなこと、さすがにできない。人として当然だ。
けれども彼は私の返事を聞くと、なぜだか目を大きく見開いた。
そしてすぐに目元を緩めると、「やっぱりレベッカはレベッカだね」と言った。
「……なんだか久しぶりだね。元気だった?」
「職場では頻繁に顔を合わせているじゃない」
「それでも、なんだか久しぶりに感じるんだよ」
微妙に噛み合わない会話をしながら、時折「くくくっ」と笑い声を漏らすエドウィンは、どこからどう見ても〝陽気な酔っ払い〟そのもので、きっと何か良い出来事があったのだろうと思われる。
そんな彼を見ていると、ついつい私も気が緩んでしまい、そのまま私達は城下町の広場に置かれたベンチに座って、時間を忘れて喋り続けた。
エドウィンとこうして二人きりで話すのは、ジョンと交際することになったと報告した日以来のことだったけれど、話題に困るようなことはなく、気づいた時には広場にいる人の数も数える程度にまで減っていた。
「……そろそろ帰らないとね。付き合ってくれてありがとう。久しぶりにレベッカと話せて、本当に楽しかったよ」
エドウィンからのその言葉に、彼との時間の終わりを感じて、胸の中に寂しさが広がる。
「私もとても楽しかったわ。……また、職場でね」
私がそう言って微笑むと、彼はあの頃と同じように「家まで送ろうか?」と尋ねた。
「それだけ酔っ払ってて、何言ってるの」
少し時間が経ったとはいえ、いまだにどこか虚な目をしているエドウィンに笑いながらそう返すと、彼はどこか気まずそうな顔をした。
「うん……いや、そうなんだけど……」
珍しく歯切れの悪い彼に対して「何かあるの?」と尋ねると、彼は途端に真剣な表情を浮かべて、私の顔を真っ直ぐに見据えて口を開く。
「……あの日君を家まで送り届けていたら、何か違っていたのかな」
「……え?」
「あの日のこと、俺はあれからずっと後悔し続けてるんだ」
そのままエドウィンは「馬鹿みたいでしょ」と言葉を続けるけれども、私は返事をすることができない。
おそらく私が困惑していることに、エドウィンも気づいたのだろう。
「……ごめんね、変なこと言って。やっぱりすごく酔ってるみたいだ」
彼はそう言うとベンチから立ち上がると、静かに微笑みながら「帰ろうか」と呟いた。
私を振り返る彼は、あの頃よりも少しだけ遠い位置にいる。
今の私達の間には、片方だけが手を伸ばしても届かないくらいの距離がある。
「そうね、そろそろ帰りましょう」
そう答えた私は、もちろんエドウィンに手を伸ばすことなどしなかった。
そしてもちろん、彼も私に手を伸ばしてなどこなかった。
その日から数週間が経った頃、仕事でとある手続きを担当した。家族構成の変更に関する手続きだった。
そこに並んで書かれたオスカーとフィオナさんの名前を見て、「あの日エドウィンがあんなに酔っ払っていたのは、これが理由だったのかもね」と思った。
フィオナさんが言っていたように、忙しい彼らは世間と人々が考える〝普通の結婚生活〟は送れないかもしれない。
けれどもきっと、二人なら上手くやっていけるのだと思う。
だって二人は、自分達にとっての最善を選び取り、行動することができる人達だから。
「……よかったわね」
私はそう呟いて、新しく家族となった二人の名前が記されたその紙に、手続き担当者としていつもより丁寧に自分の名前を書き加えたのだった。