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「少しでいいんだけど、話をする時間をもらえない?」

 翌朝、そんな言葉でエドウィンを呼び止めた私に、彼は驚いたように目を見開いた。

 確かに、昨日散々話し尽くしたにもかかわらず「話をする時間がほしい」だなんて、私が彼の立場であったとしても似たような反応になるだろう。


「それは、もちろん。……早めに聞いた方がいいことなら、少しくらい演習も抜けれるよ?」

 エドウィンは深刻そうな表情を浮かべ、周囲に聞こえないように声のトーンを落としてそう言った。おそらく、何か重大な内容だと思ったのだろう。

 けれども、そこまでしてもらうような話ではない。彼はなんでもないことのように言っているけれど、騎士の演習がそんなに簡単に抜け出せるような緩いものでないことは、私だって知っている。


「たいしたことではないから、全然いつでも、時間が空いた時でいいの」

 私はただ、「彼氏ができたから今後二人きりでは出掛けられない」と早め伝えておきたいだけなのだ。

 いくら戦友のような関係だとしても、エドウィンが異性である以上は線引きはしておくべきだと思うから。たとえ誰もが気にしていないとしても、私自身が誠実でいたいと思うから。


「それなら……」と指定されたのはその日の就業後で、「少し遅くなるだろうし、レベッカも急いで仕事を終わらせようとしなくていいよ」というエドウィンの言葉に従って、職場を出たのは定時を二時間過ぎた頃だった。

 思ったよりも遅くなってしまったけれども、わざわざあんなことを言うくらいなのだから、おそらく彼の方も忙しいに違いない。

 しかし、「私の方が待つことになるだろうな」なんてことを考えながらいつもの待ち合わせ場所に辿り着いた時、すでにそこにはエドウィンの姿があった。


「え!? いつから待ってたの?」

 私がそう尋ねると、彼は「そんなにだよ」と言って笑った。

「待ってない」ではなくて「そんなに」と言うのだから、きっとそれなりの時間を待たせてしまっていたに違いない。

「言ってくれれば私も早く終わったのに……」

「今朝覗いた時に事務室が慌しかったからさ。きっと忙しかったんでしょ? それなのに『早く来て』なんて言えるわけないじゃん」

 彼はそう言いながら、けれどもなぜか楽しそうだった。


「それがわかってるなら、今日じゃなくてもよかったのよ?」

「俺が気になって、早く知りたくなっちゃったんだよ」

 エドウィンはさらりとそんなことを言うと、「どうする? 今日も食事に行く?」と聞いてくる。

「いいえ、今日はやめとくわ」

「じゃあ、今日は気温も低くないし、どこか近くで座ろうか。庭園のベンチは空いてたよ」

「……わざわざ確認しておいてくれたのね。ありがとう」


 エドウィンが言っていた通り、こんな時間に王宮の庭園を眺めているような物好きな人などおらず、私達はベンチに並んで腰掛ける。

 エドウィンは私が座るのを見届けてから、私達のどちらかが手を伸ばせば届く程度の、絶妙な位置に腰を下ろした。

 彼がそのまま「少し前までは夜も暑かったけど、すっかり過ごしやすい気温になったね」なんて、どうでもいい気候の話をし出したのは、きっとどう話を切り出したらよいかと戸惑う私の様子に気づいたからだろう。 


 エドウィンと過ごす時間は心地良い。それこそ、ずっと続けば良いのにと思うくらいには。

 現に今だって、私達の間に会話らしい会話はないけれど、黙って庭園を眺めているだけでも、仕事で消耗した心が癒やされるような感覚に陥っている。

 それはおそらく、エドウィンの気遣いによって作り出されたものなのだろうけれど、彼もほんの僅かにでも私とのこの瞬間を「心地良い」と思ってくれていたらいいなと、ぼんやりと思った。

 

 しかしいくら名残惜しいとはいえ、彼は明日も仕事なのだ。あまり時間をとるわけにもいかない。

 そう考えた私は、重たい口をそっと開く。

「同級生のジョンのこと、覚えているかしら?」

 少し掠れた声でそう尋ねると、エドウィンが僅かに眉間に皺を寄せるのがわかった。


「……レベッカの幼馴染だよね?」

「ええ、そう。昨夜あなたと別れた後に彼と久しぶりに話をしてね、もう一度付き合うことになったの」

 なんとなくエドウィンの顔を見ていられなくて、私は手元に視線を落としながら一息で言い切る。

 ぎゅうっと握りしめた掌からは、汗ばんでじっとりとした感触が伝わってきて、そこでようやく私は自分が緊張していることに気がついた。


 正直なところ、エドウィンからどんな返事をもらいたいのか、自分でもよくわからない。

 けれどもきっと、人当たりの良い彼は満面の笑みを浮かべて「おめでとう! よかったね!」なんてことを言うのだろう。

 彼は他者の吉報を、心から喜べる人間なのだから。たとえ私が、ただの同僚にすぎなくとも。


 そう思っていたのだけれど、その後訪れたのは不自然な沈黙で、なぜかエドウィンからはなんの反応も返ってこない。

 聞こえなかったのだろうかと思って、もう一度「ジョンとやり直すことにしたの」と言って顔を上げると、大きく目を見開いたエドウィンがいた。

 不意に触れてしまうほどに近くも、よそよそしさを感じるほどに遠くもない、手を伸ばせばギリギリ届くだろうかというくらいの距離だった。


「……エドウィン?」

 予想していた反応とあまりにも掛け離れたエドウィンの態度に不安になった私は、そっと彼の名を呼び掛ける。

 するとエドウィンはすぐにはっとした表情を浮かべて、「そっか」と呟くように言葉を発した。

「そっか。そうなんだね。……ごめん、びっくりしちゃってさ」

 彼は口角をきゅっと引き上げながら、けれどもなんとなく感情の読めない表情で「おめでとう」と続けた。


「君の口から彼の名前を聞くことはなかったから、なんだか突然の話でびっくりしちゃったよ。卒業後も連絡は取り合ってたの?」

「そういうわけではないんだけど。私自身、急展開に驚いてるわ」

「……彼のこと、ずっと好きだったの?」

 どことなく緊張したような様子のエドウィンからそう問われて、「そうよ」だったり「そうだったことに昨日気づいたの」だったり、そんなふうに答えるのが最善なんだろうな、とは思った。

 けれども、私に向けられたエドウィンの濃紺の瞳があまりにも真っ直ぐで、私の口から本音が漏れる。


「……恋愛感情としての『好き』かはわからないわ。けれど、彼のお願いを叶えてあげたいと思うくらいには彼のことが大切よ。だって、私がひとりぼっちだった時に、側にいてくれてのは彼だもの」

 真剣な表情でこちらを見つめていたエドウィンは、私の話を聞いて「そうなんだね」と言ってゆっくりと頷いた。


「だからね、これからはあなたと二人で出掛けるのはやめておこうと思って」

 なぜか重々しくなってしまった空気を変えようと、わざと明るく「やましいことがなくても……ね?」と続けると、エドウィンはすっかりいつもの調子で「そりゃそうだ」と呟いた。

 そして、そのまま大きな溜息をはあっと吐き出すと、「心を許せる数少ない同期だったのになあ」と、芝居掛かった仕草で肩を落とした。


 彼のそんな言葉を聞いて、エドウィンにとって「心を許せる存在だった」私が「これからはそうではない」存在になってしまうのだと思い知り、胸に切なさが込み上げる。

 ……私達の関係を変えたのは、他でもない自分自身だというのに。


 おそらく、自分自身でも整理しきれないぐちゃぐちゃな気持ちが、顔に出てしまっていたのだろう。

「なんでそんな顔するのさ」

 エドウィンはそう言うと立ち上がって、私の目の前へと移動する。

「……ごめんなさい。なんだか少し寂しいなって思っちゃって」

 自分でも、随分と勝手なことを言っている自覚はある。

 けれどもエドウィンはそれに腹を立てたふうでもなく、「同僚であることには変わらないんだから。二人きりでは会えないけど、これからも仲良くしてよ」と言って、私に右手を差し出した。


 きっとエドウィンは、いつもと変わらぬ表情で私のことを正面から見据えているのだろう。

 しかし彼の背後を照らす庭園灯が眩しくて、こちらからはエドウィンが今どんな顔をしているのか、実際に知ることはできない。


 逆光になってしまっているエドウィンのシルエットを眺めつつ、私は「こんな形で会うのは最後になるかもしれないのだから、きちんと顔を見たかった」と思った。

 そしてなぜか、それと同じくらいに「彼の顔が見えなくてよかった」とも思った。

 そんな気持ちのまま目一杯伸ばして握り返したエドウィンの手は、温かくて力強くて、なぜだか泣きそうな気持ちになったのだった。


 ◇◇◇


 ジョンと再び付き合うようになってから、私の日常はがらりと変わった。

「いくら君の弟が泊まりに来ることがあると言っても、たまにでしょ? やっぱりこんなに広い家で一人だなんて、寂しいと思う」

 付き合い始めたばかりの頃から、ジョンはことあるごとにそんなことを言った。


 正直なところ寂しさなんて感じていなかったし、彼にもその都度そう伝えた。

 しかし、彼もその時は「ならいいんだけど」と引き下がるものの、何日かすると同じことを言ってくる。

 私が「大丈夫だ」と言ったことなど忘れたかのように、何度も何度も。


「やっぱり考えたんだけど、こんなに広い家に女性一人で住んでるなんておかしいよ。寂しいし、危ないと思う」

 もう何度目になるかもわからないジョンのその主張に「そうかもね」と返したのは、彼と付き合い始めてから数ヶ月が経過した頃だった。

 職場が繁忙期真っ只中で、やってもやっても湧いてくる仕事に職員全員が忙殺され、事務室全体がピリピリとした雰囲気を漂わせている最中だったように思う。


「じゃあ、ジョンもこの家に住む?」

 仕事終わりの働かない頭でそう尋ねると、彼は瞳を輝かせて「いいの!?」と言った。

「彼女と同棲するの、憧れだったんだ」

 ジョンの弾む声でそう続けたけれど、あまりにも手放しで喜ぶその様子に不安を感じた私は、「……あなたが思うような快適な生活ではないかもしれないわよ?」と伝える。


 だって、今ですら仕事で手一杯な時には家のことまで手が回っていないのだ。

 一緒に住むようになったからといって、彼が思い描いているような生活が送れるとは限らない。


 しかしジョンは私の言葉に対して、「わかってるよ。少しくらい家事ができてなくても、僕は気にしないから」と言った。

 彼の返事を聞いて、なんとなく腑に落ちないものを感じたけれども、きっと彼なりの優しさからくる言葉なのだろうと、私はその時感じた違和感から目を逸らしたのだった。



 その後すぐに、私の家にジョンが転がり込むような形で同棲が始まった。

 同棲する以前から彼は頻繁にうちに入り浸っていたのだけれど、やはり一緒に暮らすとなると「きちんとしなくては」という気持ちになるもので、常に何かに追われているような圧を感じる場面が増えた。


 職場はもうすぐ繁忙期を抜けようとしている。

 今日も疲労が蓄積された身体に鞭を打ち、なんとか一日の仕事を終え、どことなく息苦しい職場から帰宅した私を、ジョンが「おかえりなさい」と言いながらへらりと笑って出迎える。

 同棲を始めてすぐの頃は「僕も手伝うよ」と言って簡単な家事をしようという意思を見せていた彼だけれど、今の職場で働き始めてからはそんな素振りを見せることもなくなり、今日も帰って来た私に向かって「お疲れ様、今日の夜ごはんは何?」と聞いた。


「……ごめんなさい、疲れていてまだ何も考えられてないの」

 私がそう答えると、ジョンは「そうだよね、簡単なものでいいからね」と言ってまたへらりと笑う。

 休む間もなくそのまま台所に向かうと、シンクの中には朝洗わずにそのままにしておいた食器の他に、ジョンが使ったと思われるコップが増えていた。


「……ねえ、ジョン? 仕事にはもう慣れた?」

 洗い物を片付けながら頭の中でこの後の段取りを考えつつ、私はジョンに向かって質問を投げ掛ける。

「うーん……、まだ三ヶ月だからわかんないよ」

 何をするわけでもなく、私の周囲を所在なさげにうろうろとする彼は、困ったような声でそう返す。

 ジョンの言葉に対して「……慣れない環境って、それだけで疲れるものね」と言うと、ジョンはぱっと顔を輝かせて「そうなんだよ!」と嬉しそうに返事をした。


「ところで、今日の夜ごはんは何? レベッカが作ってくれるごはんだけが、僕の近頃の楽しみなんだ!」

 彼はそのまま私の手元を覗き込むと、「レベッカも疲れてると思うから、本当になんでもいいからね!」と言った。

 ここ数日買い物にすら行けていない状態で、ジョンが言うような〝簡単な何か〟を作るための材料があっただろうかと食品保存室を覗き込むと、萎びた野菜と魚の缶詰があるだけで、がっかりとした気持ちと共に疲労感が襲ってくる。


 けれども結局、それらだけで何かを作る以外に道はない。野菜と缶詰を炒めただけの〝簡単な料理〟を食卓に並べながら「こんなものでごめんね」と謝った私に対して、ジョンはへらりと笑って「レベッカも忙しいんだから、仕方がないよ」と言った。

 そして「僕は全然気にしないから、無理しないで」と付け加えた。


 ……きっとどれもこれも、ジョンにとっては優しさからくる言葉なのだろう。私に余裕がないから、もやもやとした気持ちを抱いてしまうんだろう。

 自分自身にそう言い聞かせてみたけれど、今日だけはどうしても心に留めておくことができずに、思わず口からぽろりと言葉が漏れる。

「……もうすぐ繁忙期も抜けると思うんだけど、それでもしばらくは忙しいと思うの。申し訳ないんだけど、ジョンも少し手伝ってくれない?」

 けれどもジョンは、私の言葉を聞いて僅かに顔を顰めた。


「けど僕も、働き始めたばかりで忙しいし……」

「それはもちろんわかっているわ。だけど、少し部屋を片付けるだけでも、少し買い物をして来てくれるだけでもいいの。お願いできない?」

 私は別に、家をぴかぴかに掃除してほしいわけでもなく、完璧なご馳走を作っておいてほしいわけでもない。「自分が出した分は自分で片付けよう」と、「自分が使う分は自分で買い足そう」と、思ってほしいだけなのだ。


 しかし私のそんな思いはジョンには伝わらなかったようで、彼は困ったような顔でへらりと笑うと「僕は別に、家が散らかっていようとも、食事がテイクアウトになろうとも、我慢できるよ。だからそんなに気負わないでよ」と言った。

 そして「レベッカが大変なのは、僕もわかっているからさ」と、さもこちらを気遣っているかのような顔をした。


 それらはきっと、彼の優しさからくる言葉なのだろう。

 それがわかっているから、私はもうそれ以上は何も言わなかった。

 何もかもに疲れ果てていた私は、心に虚しい気持ちを抱きながらも、「……ありがとう、そうさせてもらうわね」という言葉で、彼との話を終わらせてしまったのだった。

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