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 翌日。戦場に向かうような気持ちで登校した私だったけれども、予想に反して私を取り巻く空気はこれまでと変わりがないように思われた。

 遠巻きにされたり、嫌悪感のこもった視線を向けられたりもしないことから、おそらく昨日の私の暴力事件はまだ周知されていないらしい。


 ……今ならまだ、フィオナさんに直接謝罪することができるわ。

 そんな思いから朝一番で隣のクラスに訪れた私に、彼女は「ここじゃなんだから」と言って場所を移すよう促した。

 自分を叩いてきた相手と二人きりになるなんて、怖いに違いないだろうに、「ここなら誰にも聞かれることはないと思うの」と、人目につかないところに移動してくれた彼女の気遣いに、私は目の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。


「……昨日は、本当にごめんなさい」

 そう言って深々と頭を下げると、フィオナさんは小さく「ええ」と応えた後、柔らかい声で「頭を上げて?」と言った。


「あなたの彼とは、本当に何もないのよ? けれども、誤解されるような行動をとってしまっていたのならごめんなさい」

 困ったように眉を下げながらそう言うフィオナさんに、私はぶんぶんと首を横に振る。

「違うの。それもこちらの勘違いだったの。あなたは何も悪くないのに……」

 そう言いながら見下ろした彼女の顔は、まだ少し頬が腫れているように見えて、思わず顔を顰めてしまう。

 それにもかかわらず、フィオナさんは痛みなど感じていないかのようにふわりと笑うと、「あなたの彼との間に何もないとわかってもらえたのなら、それでいいのよ」と言った。


 けれども、彼女の優しさに甘えてばかりではいられない。私が彼女を叩いてしまったという事実は、なかったことにはならないのだから。

「処罰を望んでくれても構わないわ。今回のことは、全面的に私が悪いんだもの」

 震える手を握り締めながらそう言うと、彼女は僅かに目を見開いて「私だってやり返しちゃったし、おあいこよ」と応えた。

 そして悪戯っ子のような顔をして「むしろあなたの方が、怖い思いをしたんじゃない?」と言った。


「……どういうことかしら?」

「あんな支離滅裂な奇声を発しながら掴みかかってくるような人間、普通なら関わりたくないでしょう?」

 それなのにきちんと謝りに来てくれてありがとう、と続けられたフィオナさんの言葉に、私は大きな衝撃を受ける。

 ……彼女のあの時の行動は、緊張と不安から精神に異常をきたしてしまったからではなかったのだ。


 思い返してみると、彼女のあの行動は、あの場においては最善のものだったのだろう。

 もしも彼女が殴り返してきたならば、私は再び彼女に手を挙げてしまっていたかもしれないし、もしも彼女があの場で泣き出していたならば、私の立場はさらに危ういものになっていたかもしれない。

 どちらも「かもしれない」という可能性の話ではあるけれど、そのどちらの状況も、過去の経験から容易に想像ができてしまう。


 もちろん、フィオナさんがどこまでのことを考えて行動したのかはわからない。

 しかし彼女は、物理的な強さで戦うこともなく、弱さによって周囲を味方につけることもなく、あの場を切り抜けた。

 あの短時間で最善を導き出した〝賢さ〟と、そして周囲の目を気にせずあのように振る舞った〝なりふり構わなさ〟が、あの時の彼女の武器だった。

 そしてその武器は、私を攻撃することなく、むしろ敵であるはずの私すらをも守ってくれたのだ。


 ……こういう方法もあるのね。

 そのことに気がついた途端、心の中で何かがぶわりと湧き上がるのを感じた。

 目の前にいるフィオナさんに今の自分は到底敵わないと思いながらも、そこに嫉妬心は少しもなかった。ただただ、彼女が眩しかった。


「とにかく、この件に関してはこれでおしまいにしましょう? あなたにとっても、学校生活がより良いものになるよう願っているわ」

 そう言って去って行くフィオナさんを、私は姿が見えなくなるまで見つめ続けたのだった。


 ◇◇◇


 その後、あの事件は公になることなく、従って私に何かしらの処罰が下ることもなかった。


 あの事件の直後、ジョンには別れを告げたけれども、彼は「レベッカがそうしたいなら」と、へらりと笑ってそれを受け入れた。

 私が望んだことなのだから、彼のそんな態度に少しがっかりしてしまったのは、自分勝手と言うほかないのだろう。


 ちなみに、メリンダ達ともただの同級生としての距離感を保っている。

 彼女達は若干私を避けているような気もするけれど、あの事件について吹聴する気はなさそうなので、こちらも彼女達の悪意については見なかったことにした。

 そもそも、唆されたといえどもフィオナさんに手を上げたのは私の意思であって、彼女達を責めるのは八つ当たりもいいところなのだから。


 それゆえ、〝ジョンが恋人でなくなった〟という点を除いては、私はあの暴力事件以前と変わらず平穏に過ごしている。

 強いて平穏でない点を挙げるとするならば、たまに廊下ですれ違うオスカーに、毎回物凄い形相で睨みつけられることくらいだろうか。


 それに関しては、正義感の強い彼が私に嫌悪感を抱くのは当然だと思って諦めている。

 つい最近「ついにオスカーとフィオナが付き合い始めたらしい」という噂を耳にしたので、彼にとって私は〝大切な彼女を傷つけた相手〟になるのだ。

 そう考えると、睨まれるだけで済んでいることがありがたくさえ思われる。


 今日も私は廊下ですれ違ったフィオナさんを無意識のうちに目で追っていたらしく、彼女の隣にぴったりと寄り添うオスカーから凍えるような冷たい視線を向けられて、慌てて下を向いた時だった。

「いくらフィオナちゃんのことが好きだからって、あの態度はないよね」

 すぐ真横で聞こえたその言葉に驚いて目線を上げると、そこには苦笑いを浮かべる黒髪の男子生徒がいた。


「あなた、フィオナさんの……」

 彼がフィオナさんと共にいるところを何度か目にしたことがあるので、思わずそう口にすると、彼は一瞬目を見張った後で大笑いをした。

「俺ってそんな覚え方をされてるんだ」

 よほど面白かったのだろう。目元にうっすら涙まで浮かべている彼は、自分のことをエドウィンと名乗った。


「オスカーとは幼馴染でね。あいつに『フィオナに男を近づけるな!』って言われているから、確かに彼女と一緒にいることは多いよ」

 エドウィンは「俺が『フィオナちゃんの』なんて覚え方をされてるって知ったら、あいつ怒るだろうな」なんてことを呑気そうな顔で言っているけれど、きっとオスカーが近づけたくないのは男だけに限らないのだろうなと思うと、少し気分が落ち込んだ。


「……まるでお姫様を守る騎士ね。ということは、私のことも何か聞かされているんじゃない?」

 オスカーからフィオナさんを守るよう言われているのであれば、きっと彼もあの事件について知っているに違いない。

 人懐っこい表情を浮かべてはいるけれど、彼も心の中では私を警戒しているのかと思うと、なんとなく暗い気持ちになってしまって、どうしても冷たい言い方になってしまう。


 しかしエドウィンはそれを気にするふうでもなく、「まあ一応はね」とさらりと言うと、私の瞳を真正面から覗き込んだ。

「でもそれは、あくまでもオスカーから見た出来事だよ。俺はあいつが見たことが全てだとは思ってない」

「は……」

 まさかそんなふうに言われるとは思っておらず、無意識のうちに声が漏れてしまった。


 そんな私を見て、エドウィンはおかしそうに口角を上げる。

「そりゃ正直、最初は少し警戒してたよ? でも君がフィオナちゃんに送る視線を見てたら、警戒するのも馬鹿らしくなってきてさ」

「……彼女を見てる時の私って、どんなふうなの?」

 私がそう尋ねると、エドウィンは満面の笑みを浮かべて答えた。

「まるで憧れの人を見つめてるかのような、キラキラした目をしてるよ」


 その言葉を聞いて、私が最初に思ったのは「恥ずかしい」だった。

 物語の中で言えば悪役的立ち位置の自分が、自分とは正反対のヒロインのような彼女に憧れているだなんて、身の程知らずもいいところだ。

 エドウィンだって、柔らかな笑みを浮かべてはいるけれど、心の中では私のことを馬鹿にしているかもしれない。「おまえみたいな奴が彼女のようになれる訳ないだろ」って。


 そう考えた私は、「そんな訳ないじゃない」という否定の言葉を口にしていた。

 思った以上に刺々しい言い方になってしまったから、エドウィンもさすがに気を悪くするだろうかと心配したけれど、「そっか。ごめんね、変なこと言っちゃって」と返した彼は、私の態度をやはり全く気にしていないようだった。


 彼はそのまま笑みを深めると、少し身体を屈めて「けどさ」と言いながら私としっかり視線を合わせる。

「けどさ、俺はやっぱり〝オスカーから見た君〟じゃなくて、君自身のことを知りたいと思うよ」

 彼はそう言うと、私に向かって右手を差し出した。

「だからさ、仲良くしてほしいな」

 その言葉に促されるように彼の手をとったのは、完全に無意識の行動だった。

 その時の私は、目の前に迫る彼の濃紺色の瞳があまりにも綺麗なことに気を取られていたのだった。

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