エピローグ
時刻は正午を少し過ぎた頃。
住宅が立ち並ぶエリアというのは、やっぱり夜中よりも平日の昼間の方が静まり返っているのだなと、改めてそんな感想を抱きつつ、俺は自宅へと足を進める。
俺の手の中では、先程立ち寄った店で買った、ガーベラという名前の花が揺れている。
花には詳しくないものの、店員いわく、黄色のガーベラには〝究極の愛〟という意味があるらしい。
レベッカがそれを知っているかはわからないけれど、それでも彼女はこの花を、心底幸せそうな表情で受け取ってくれることだろう。
そんなことを考えて無意識のうちにだらしなく緩んでいた口元を、俺は慌てて引き締める。いくら昼間だとはいえ、にやにやとしながら早足で住宅街を歩く大男なんて、不審者でしかない。
「レベッカのことになると、おまえも大概だぞ」
頭の中のオスカーがそんなことを言うけれども、否定できないからどうしようもない。
レベッカに対する「愛おしい」という気持ちは、出会った頃から変わらず、むしろ共に過ごすにつれて増すばかりなのだ。
初めてレベッカを認識したのは、学校の入学式の日だった。まだ少し肌寒い、けれども爽やかに晴れた日だったことを覚えている。
ほとんどの人間が知り合い同士で固まって、それとなく周囲を窺っている中で、背筋をぴんと伸ばして真っ直ぐに前を向くレベッカはとても美しく、なかなか視線を逸らすことができなかった。
だから、フィオナちゃんに手を上げたレベッカを目にした時には、正直がっかりとしてしまったものだ。
その後すぐに、レベッカ自身も騙された上での出来事だったのだと知ることにはなったけれど、その時点で俺は「たとえこの子が被害者面をしようとも、必ずけじめはつけさせよう」と考えていた。
けれどもレベッカは、自分を騙した生徒達については一切口にしなかった。
「昨日は、本当にごめんなさい」
彼女はなんら言い訳をすることなく、深々と頭を下げてそう謝罪すると、「全面的に私が悪い」と言い切った。
そんな時でもぴんと伸びたレベッカの背筋を見て、俺は「この子は信頼できる人間かもしれない」と思ったのだった。
それから俺は、じっくりと時間をかけてレベッカとの距離を詰めていった。
彼女が前髪を切った時には誰よりも早く「似合ってる」と声を掛けたり、彼女が大きな荷物を持っている時には誰よりも早く手助けをしたりもした。
思春期真っ只中だった俺にとっては、それも精一杯のアピールだったのだけれども、どれだけ特別扱いをしても、レベッカは自分を〝エドウィンの女友達の一人〟なのだと信じて疑わなかった。
転機となったのは、俺とレベッカの職場が同じであったことだろう。
俺はこまめにレベッカに声を掛け、彼女にとっての〝気心知れた同期〟としてのポジションを築き上げることに成功した。
その頃には、俺がレベッカに想いを募らせていることは騎士団内における周知の事実だったし、事務官の室長からも「大事にしないと許さないぞ」なんてことを言われるほどだった。
だからこそ、慢心していたのだと思う。「周囲から応援されている」という驕りもあったのだろう。
レベッカにとって〝一番近い距離にいる男〟だったはずの俺は、その関係を壊すことに怯えてぐずぐずとしている間に、あっさりとその地位を失うことになってしまった。
「これからはあなたと二人で出掛けるのはやめておこうと思う」
あの日、彼女から告げられたその言葉に、俺は目の前が真っ暗になるような心地がした。
けれども、そうやって恋人に対して誠実であろうとするレベッカは、間違いなく〝俺が好きになったレベッカ〟そのもので、だからこそ「それで彼女が幸せになれるのならば」と、歯を食いしばって別れの握手を交わしたのだった。
それにもかかわらず、ジョンとよりを戻したレベッカが幸せそうな表情を見せることはなく、俺は毎日やりきれない思いを抱えることになった。
仕事の合間に目にするレベッカは、いつ見ても疲れて果てているように感じられて、心の中で何度「大切にできないのなら手放してくれ」と、「俺の方がレベッカを幸せにできるはずだ」と叫んだかはわからない。
しかし、想いを伝えることすらできなかった俺が、実際にそんなことを口にする資格なんてなかった。
その後、なんとかして正式にレベッカの隣にいる権利を得た俺だったけれど、一度だけ危なかったことがある。
何度警告してもレベッカへの付き纏い行為をやめないジョンと、直接対峙をした時のことだ。
「エドウィンさん。あいつ、またいます。それに、なんだかいつも以上に様子がおかしいです」
その日、後輩騎士からそう声を掛けられて見に行った先にいたのは、ぶつぶつと何かを呟きながら視線を彷徨わせるジョンだった。
奴の口から漏れるのは、「レベッカが許してくれないからだ」とか、「才能がある人間にはどうせわからないんだ」とか、他人に責任を擦りつけるような言葉ばかりだったけれども、そのうちついに「殺してやる」「レベッカを道連れにして死んでやる」なんて言葉が出てきたものだから、俺は慌てて奴を捕えることになった。
「レベッカが僕を捨てたから、僕の人生はめちゃくちゃになったんだ! レベッカは、もっと条件がいい男を見つけたから、僕のことを捨てたんだ!」
身柄を拘束されたジョンは、そんなことを延々と叫んでおり、それを聞いた俺ははらわたが煮えくり返りそうになった。
「……おまえは、長年レベッカの側にいながら、彼女の何を見てきたんだ?」
その場にいた後輩騎士によると、そう言った時の俺は「騎士としてあるまじき行為をしでかすのではないかと心配になるくらいに恐ろしい表情を浮かべていた」そうだ。
「レベッカがおまえに求めていたのは、優れた容姿や突出した才能なんていう条件なんかじゃない。目の前の人間に対する思い遣りや誠実さだ」
……認めたくはないけれど、もしもジョンがレベッカに対してもう少し誠実であったなら、彼女は今もこいつの隣にいたのだろう。
こいつは「捨てられた」と思っているようだけど、歩み寄ろうとしていた彼女を、先に突き放したのはこいつなのだ。
もちろん、奴がレベッカを雑に扱ったことや、最後に深く彼女を傷つけたことについては、許すつもりは微塵もない。
けれど俺は、この点に関してだけはジョンに感謝しているんだ。
「……おまえが見る目のない人間で、本当によかったよ。おかげで俺は今、世界一幸せだからね」
そう言って笑う俺を、ジョンは心底悔しそうな表情で睨み続けていた。
結局このことが原因で、ジョンは隔離施設に入院させられることとなった。
実害こそなかったものの、ジョンの持ち物の中から凶器が見つかったこと、そして言動に異常が見られることが理由だそうだ。
今後もし奴が外の世界に出てくることになったとしても、遠い地の縁戚に身元を預けるという約束を取り付けているので、レベッカが奴に会うことは二度とないだろう。
幸い、付き纏われていたことも含めて、レベッカにこのことは知られていないし、これからも知らせるつもりはさらさらない。
あの時「騎士としてあるまじき行為」をしなかった俺は、何も知らずに安心して生活する彼女を、これからもすぐ近くで見続けることができるのだ。
「ただいま」
レベッカとのこれまでを思い出しながら帰宅した俺は、誰もいない部屋に向かって声を掛ける。
ほんの一年程前までは、「おじゃまします」と言って上がらせてもらう場所だったこの家が、今は自分の帰る場所であることに、俺は何度だって感動する。
……さて、休み時間の終了まであまり時間がない。
俺はリビングの隅に座るテディベアを急いで玄関まで移動させ、その手元にそっと黄色いガーベラを配置する。
俺が休憩時間に王宮を抜け出して、こうしてレベッカのために贈り物を置きに帰ることを、「そこまでしてご機嫌取りをしたいのか」と鼻で笑う人間がいることも知っている。
けれども俺はそいつらに言いたい。
「自分が用意した贈り物で、愛する人が幸せそうに笑ってくれるということが、この上なく幸福であるということに、どうしておまえ達は気がつかないんだ?」と。
最後に一言手紙を添えて、俺は静かに家を出る。
就業後、俺より先にこの家に帰って来ることになっているレベッカが、どんな表情でこの花と手紙を受け取るのか、俺は実際に目にすることはできないだろう。
けれどもきっと、彼女はこの手紙も、今まで渡した手紙やあの黒ずんだ学生服のボタンと共に、宝箱に保管してくれるはずだ。
今日もレベッカは、俺と同じくこの家に帰ってくる。
彼女がいない日々の味気なさを経験したことのある俺は、それがどれだけ幸せなことであるかを、十分に理解しているつもりだ。
だからこそ、彼女がいることによって鮮やかになる世界を前に、今日も俺は思うのだ。
俺達がいくつになろうとも、レベッカは俺にとってのヒロインであり続けるんだろうな、と。
これにて作品完結です。
最後まで読んでくださった皆様、本当にありがとうございます。
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