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「ねえ、本当にもう帰っちゃうの? 私達としては、もう少し泊まってくれても構わないのよ?」
翌日、朝早くに家を出ようとする私に向かって発せられたその言葉は、おそらく社交辞令でもなんでもなく、フィオナの本心なのだとは思う。
けれども私は緩く首を横に振って、「ありがとう、でも決めたことだから」と応える。
「明日のうちに家に帰って、ジョンと話をしてくるわ」
昨夜遅くにそう言い出した私に対して、エドウィンだけではなくオスカーからも「密室で別れ話をするのはまずいのではないか」と心配されたのだけれども、「一刻も早くジョンとの関係を終わらせてしまいたいのよ」という私の気持ちを聞いて、彼らはそれ以上反対の言葉を口にすることはなかった。
「……だったらせめて、家の前まで一緒に行かせてもらえない? さすがにレベッカ一人で行かせるのは危険すぎるよ」
「エドウィンの言う通りだ。女性はどうしても、物理的な力では男に勝てないんだから」
さすがにこれ以上迷惑を掛けるわけにはいかないと、一度はそんな申し出も断ったのだけれども、「一人で行かれる方がよっぽど困るから!!」と強く言われてしまっては、同行をお願いするほかない。
そんなわけで、私は今エドウィンとオスカーを引き連れて、自宅の玄関扉の前に立っている。
「ここで待っているから、何かあったら大声で知らせるんだよ。合図さえくれれば、俺達がなんとかするから」
騎士二人が揃った状態での「なんとかする」は頼もしいことこの上なく、私は肩の力が抜けるのを感じる。
「……ありがとう。行ってくるわね」
そう言って足を踏み出したものの、ドアノブに伸ばした自分の手は震えていた。
〝すぐそばに味方がいる〟という状況は私の心を強くしてはくれていたけれど、やはり昨日の出来事は私の心の中に影を落としていたらしい。
けれどもそれには気づかないふりをして、わざと乱雑に、大きな音が鳴るように扉を開けると、玄関には私がジョンにプレゼントした革靴が揃えて置かれていた。
「ただいま」
少し大きめの声でそう言うと、リビングの方からがたがたという音が聞こえてくる。
「……レベッカ?」
私の名前を呼びながら玄関に顔を覗かせたのはもちろんジョンで、前髪の一筋が明後日の方向をむいてふよふよと揺れている。
「ええ、ただいま」
私がもう一度そう言うと、ジョンはほっとした表情を浮かべて「昨夜は帰ってこないから心配しちゃったよ」と言った。
「心配した」と言うわりに、ジョンの姿からはつい先程まで寝ていたことが明らかで、「ジョンが心配していたのは〝私の身の安全〟か、それとも〝自分の朝食の準備〟か、どちらなのだろう」と、可愛げのないことを考えてしまう。
もしも逆の立場なら、事前連絡もなくジョンが一晩帰ってこなければ、おそらく私は眠ることができないだろう。彼の無事を確かめるために、自分が考えつく限りの〝ジョンが行きそうな所〟を訪ね回るかもしれない。
もちろん、自分がそうだからと言って相手に同じことを求めるのは、横暴だというのはわかっている。
けれども、私とはあまりにも異なる彼の感覚を目の当たりにして、「昨日の出来事がなくても、私達はきっと上手くいかなかったのだろうな」なんてことを、今さらながらに実感する。
「……レベッカ? どうしたの? 上がらないの?」
その場に立ち尽くす私にジョンがそう声を掛けた時、私は自分の足元ばかりを見ていた。
もちろん、目に映るのは自分が履いている靴。ジョンの革靴とそれほど大きさの変わらない、爪先がつんと尖った、黒いエナメルのハイヒール。可愛げはないかもしれないけれども、私好みの、私らしい靴。
「…………ねえ、ジョン。私達お別れしましょう。もちろん、婚約もなかったことに」
気がつけば私の口からは、そんな言葉が溢れていた。
「え? なんでいきなり……。どうしたの?」
おろおろとした様子で「何かあったの?」だとか「誰かに何か言われたの?」だとか、見当違いな発言を続けているジョンは、手を伸ばせばすぐに触れられる位置にいるにもかかわらず、随分と離れた所にいるように感じられる。
「……昨日のお昼、一度この家に帰って来たの。あなたが女性と何をしていたか、私が説明しなくても覚えているでしょう?」
そう言ってジョンの顔を正面から覗き込むと、彼はおどおどと視線を彷徨わせた後で、私に届くか届かないかというくらいの小さな声で「ごめん」と呟いた。
こちらを見ることもなく発せられたその謝罪は、まるで私の心に響くことはなく、ジョンが一体何に対して「ごめん」と言っているのかすら、いまいち伝わってはこなかった。
そのまま少し待ってみたものの、その後ジョンは口を開くことも、動きを見せることもない。
きっとこれは、「せめてレベッカの意見に従おう」という思いやりによる沈黙ではなく、「自分が決断を下すのは嫌だ」という逃げの沈黙なのだろう。
彼には昔からそういうところがあるし、それこそが「ジョンなりの優しさに違いない」と言い聞かせて、私がずっと見て見ぬふりをしてきたものなのだ。
「……この家は私の実家の持ち物だから、早いうちに出て行ってね」
婚約までした相手との別れの場でそんなことを言ってしまう自分は、冷たい人間なのかもしれない。
けれども今の私はもう、嘘でも「今までありがとう」とも、「あなたの幸せを願っているわ」とも言えそうにない。
「早いうちにって……いつまで?」
「遅くとも、来週末には」
「そんな……。僕にも都合があるし、もう少しなんとかならない?」
「……それ以上は待てないわ。だってここは、私の家なんだもの」
それでもなお「でも」と「だって」をくり返すジョンだったけれど、「行く宛がないのなら、荷物はあなたのご実家に運ばせてもらうことになるわ」と伝えると、ようやく彼は「……わかったよ」と言って、そしてへらりと笑ったのだった。
◇◇◇
「乾杯!!!!」
半個室のレストランで、そんな言葉と共にグラスを高く掲げるウォルトは満面の笑みを浮かべており、私は思わず苦笑いしてしまう。姉の婚約破棄をここまで喜ぶ弟がいるのか、と。
どうやらエドウィンも同じような感想を持ったらしく、「いくらなんでもはしゃぎすぎだろ」などとウォルトを嗜めている。
「エドウィンの言う通りよ。それにあなた、一応エドウィンの後輩でしょ? さすがにもう少し気を遣った方がいいんじゃない?」
もちろん、エドウィンはプライベートの場でそんなことをうるさく言うような人間ではないけれど、職場の先輩の前でここまで素でいられる弟に、私は呆れを通り越して感心までする。
しかしウォルトは私の言葉など気にも留めず、「だってこれが、はしゃがずにいられる!? やっと姉さんがあいつと縁を切ったんだから!」と言って、グラスの中の液体を一気に口へと流し込んだ。念のために言っておくと、中身は水だ。
ジョンに伝えていた退去の期日を迎えた今日、エドウィンとウォルトに付き添われて確認しに行った家からは、ジョンの持ち物が全て持ち帰られていた。……とはいえ、彼が使っていた家具のほとんどは、元から家にあった物なので、それほど荷物が減ったわけではないのだけれど。
その時ちらりと覗いたリビングには、相変わらず少しだけ中身の残ったコップが点在しており、「これを片付けるのも今日が最後なんだ」と思うと、やるせなさよりもむしろ解放感が勝った。
けれども、どうやらウォルトは違ったらしい。
ウォルトはそこここに放置されたコップを、まるで親の仇でも見るかのような視線で睨みつけると、「あいつは、最後まで……!」と苦々しげに吐き捨てた。
そしてそのまま玄関の鍵の交換を済ませ、「もう二度とあんなやつを姉さんに関わらせてなるもんか!」と怒りを顕わにしていた。
そんな形で火がついたウォルトの怒りは、どうやらレストランに到着してもなお、完全には収まっていないらしく、彼は中身が空になったグラスをテーブルに叩きつけるような勢いで置くと、ふーっと大きく息を吐く。
「……姉さんが決めたことだから、僕が口を挟むようなことではないと思って黙っていたけど、僕は昔からあいつのことが気に食わなかったんだ」
ウォルトからの突然の告白に、私は小さく首を傾げる。
「そうだったの? でも、あなたとジョンの間に関わりなんてほとんどなかったじゃない」
「関わりはなかったけど、幼い頃の姉さんとあいつの関係を一番近くで見てたのは僕だよ。あいつ、都合が悪くなるといっつも姉さんの影に隠れてさ。姉さんは『ジョンは優しい子だから』って庇ってたけど、あれは優しさなんかじゃない。弱さだよ」
そのままウォルトは、今まで溜め込んでいたものを吐き出すかのように喋り続けた。
「学生時代のことは知らないけど、卒業後は何度も職を転々としてさ。毎回『僕はフィオナみたいに才能があるわけじゃないから』って言うんだ。姉さんがどれだけ努力しているかを見ようともせずに!」
「姉さんの家に遊びに行った時だって、あいつは我が物顔でソファに座っているだけで、姉さんばっかりが動き回っていたじゃないか」
「つい最近たまたま会った時には、職場の後輩だと言う女性に鼻の下を伸ばしててさ。殴り掛かってやろうかと思ったね」
随分と物騒な単語が出てきたものだから、慌てて「さすがに言い過ぎよ」と止めたのだけれども、ウォルトにこれほどまでに心配を掛けてしまっていたのかと思うと、今更ながらに申し訳ない気持ちになってくる。
「ごめんね、心配掛けちゃって」
思わずそう謝ると、ウォルトは「今ここで姉さんが、あいつのせいで謝っていることすらも腹が立つ」と言って、新しく注がれた水に口をつけたのだった。
「なんだか、ごめんなさい。 あまり楽しい話ではなかったでしょう?」
食事も終わり、なぜか意味ありげな視線をエドウィンに送りつつ、「僕はちょっと先に帰りますね!」と言って嵐のように去って行ったウォルトを見送りながら、私は隣に立つエドウィンにそっと耳打ちをする。
結局、ウォルトはその後何度も〝いかにジョンを嫌いだったか〟の話をしていたし、内容はどうしても愚痴や悪口っぽくなってしまっていた。
そのどれもが〝姉を蔑ろにすることに対する怒り〟からくるものではあったものの、ただの友人にすぎないエドウィンにとっては、聞いていて気分の良いものではなかったはずだ。
しかしエドウィンは、私の言葉に「そんなことないよ」と返すと、「ウォルトの話に出てくるジョンは、俺の持つ彼のイメージと概ね一致していたからね。改めてほっとしたよ」と言った。
「ほっとした?」
「そう、ほっとしたんだよ。レベッカが、そんな男と結婚することにならなくてよかったなって。君には幸せになってほしいし、なんなら……」
エドウィンはそこでぴたりと言葉を止めると、「……いや、なんでもないや」と言ってにっと笑った。
「とにかく、ジョンがあんな形で君を傷つけたのは許せないけど、俺も君と彼の縁が切れたことを嬉しく思ってるんだよ。また君を食事に誘うこともできるしね」
冗談めかした口ぶりではあるものの、エドウィンが私に向ける視線は真っ直ぐで、それが彼の本心であることが痛いくらいに伝わってくる。
けれども、ジョンと婚約を解消した直後の自分が、ここで「私も嬉しい」と言ってしまうのはなんとなく気が引けて、彼の言葉に対しては「ええ」と応えるに留めておいた。
「……そろそろ帰ろうか。送るよ」
「すぐそこだから大丈夫よ。それに、ここからだと私の家は騎士団の寮とは真逆でしょう?」
本当はその後に「だからあなたも真っ直ぐ帰って?」と続けるつもりだった。
しかし、私の返事を聞いたエドウィンの表情が、なぜか一瞬泣きそうなものに見えて、私は言葉を続けることができなくなる。
「送らせてもらえないかな? 俺はもう後悔はしたくないんだよ」
エドウィンは真剣な口調でそんなことを言ったかと思うと、すぐにおちゃらけた様子で「もちろんレベッカが嫌じゃなければ、だけどね」と続けた。
「……もちろん、嫌じゃないわ」
「よかった。じゃあ、帰ろう」
そんな会話を交わしながら、私達は並んで帰路につく。
二人きりで会うのは随分と久しぶりのことなのに、私達の間に気まずさは感じられず、居心地の良い空気が漂っている。
そんな時にふと、隣を歩くエドウィンの肩が、私の頬に軽く触れた。
それは本当に一瞬の、ほんの僅かな触れ合いだったのだけれども、そのことに気がついた私は、その後なぜか妙に緊張しながら自宅へと帰ることになったのだった。




