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ジョンと再び付き合い出してから、気がつけば丸四年が経過しようとしていた。
「レベッカや君の周りの人達みたいに、僕には才能があるわけじゃないから……」
そんなふうに言って、この四年間だけでも職を転々としていたジョンだったけれども、今の職場である〝友人の画廊〟はどうやら居心地が良いらしく、珍しく半年も続いている。
少し前には新しく後輩も入ってきたそうで、「年が近くて話しやすいのか、いつも僕に頼ってくるんだ。困っちゃうよね」なんてことを言っていた。
口では「僕にだって仕事があるのに」なんてことを言いながら、その時のジョンはひどく嬉しそうだった。
「周りから『そろそろ結婚したらどうだ』って言われてるんだけど、レベッカはどう思う?」
ジョンからそんなことを言われた時、私は部屋に点在しているコップを集めていた。そのどれもに少しだけ残された中身については、もはや何も言わないでおく。
「……『どう思う』ってどういうこと?」
ジョンが何を言いたいのかが本気でわからなくて、そう質問で返すと、ジョンは気まずそうな表情で「いや……その……」と何かを呟いた。
ジョンから説明されないことには、「周り」とは誰なのか、どういう経緯で結婚の話が出たのか、そしてジョン自身がどう思っているのか、はっきりとしたことは何一つわからない。
けれども、ジョンの口からもごもごと発せられる言葉から推測するに、おそらく「レベッカは結婚したいと思っているのか?」ということなのだろう。
正直なところ、「ジョンと結婚したいか」と問われるとわからない。
もう三年半も同棲を続けていることで、良くも悪くも「こんなものなのか」と思ってしまっているのが実情だ。
夢のないことを言ってしまうと、結婚というのは契約であり生活であるのだから、相手に役割を求めてしまうのもある程度は仕方がないのだろう。
オスカーとフィオナさんのような関係性に憧れる気持ちも、ないことはない。
けれども私は、全員が全員彼らのようになれるわけではないということを痛いくらいに知っている。
だからきっと、相手が誰であろうとも「こんなもの」なのだろう。
そう考えると、ジョンとの関係をリセットして新しく何かを始めるだけの元気が、私にはもう残されていない。
「年齢と付き合いの長さから考えると、そろそろなのかなとは思うわ」
私のその言葉は本音であって、そこにはプラスの感情もマイナスの感情もこもってはいないはずだ。
けれどもジョンは私の言葉にぱっと顔を輝かると、「僕もそう思うんだ!」と応えた。
……だからきっと、そういうことなんだと思う。
きっと、彼にとってはこれがプロポーズであり、私達はこのまま結婚することになるのだろう。
私が手にしているのは花束ではなく使用済みのコップで、とりわけ大きな感動が胸を満たしているわけでも、甘い空気が流れているわけでもない。
けれどもきっと、ヒーローとヒロインではない人々にとってのプロポーズは、みんなこんなものなのだろう。
「……私は、結婚してからも仕事を続けたいと思っているの」
長年付き合った恋人からのプロポーズの直後にこんなことを言ってしまう私は、本当にヒロインからは程遠い人間なのだと思う。
けれどもジョンは、私のその言葉に対して「君が望むのなら、いいと思うよ」と言った。
そして、へらりと笑って「何度も言うようだけど、少しくらい家事が疎かになっても、僕は気にしないから」と付け加えたのだった。
◇◇◇
私が働く職場の環境は、おそらくかなり良い。
それは事務室内だけに限った話ではなく、騎士団全体に言えることで、みんなが真剣だからこそ発生してしまう小さないざこざはあるけれど、それが団内の空気を悪くするなどということは、今までに一度もなかった。
けれども少し前から、そんな騎士団内に僅かな不和が生じ始めている。
原因は、半年前に入団した準騎士の女の子、メアリだ。
念のために言っておくと、彼女自身は良い子だ。
体型が小柄だいう欠点を補えるくらいの高い身体能力と素速さを兼ね備えており、よく食べてよく動く健康的なメアリは、その若さも相まって見ているだけで清々しい。
騎士業務には直接関係ないけれど、彼女の明るさと妹のような可愛らしさが、騎士団全体の雰囲気を良くしてくれる場面だってある。
……けれども、だ。
「すまないが、もう少し距離を保ってほしい」
手元の書類について確認するために、演習場内にいるであろう騎士団長を訪ねたところ、たまたまオスカーのそんな声が耳に飛び込んできて、私は内心で溜息を吐く。
またか、と。
声のする方に視線を向けると、そこにはやはりメアリと、バディとして彼女を指導するオスカーの姿があった。
オスカーが左手を差し伸ばしつつ、上半身をのけ反らせている様子を見るに、どうやら今日もメアリは距離感について注意を受けているらしい。
……そう、彼女は周囲の人間に対して距離が高すぎるのだ。物理的に。
これについては彼女自身にも自覚があるらしく、「施設で育ったせいかもしれません。性別関係なく、幅広い年齢の子ども達と家族のように過ごしてきたので……」と言っていた。
もちろん、彼女の近すぎる距離感の理由がメアリの言う通りなのか、それとも他の理由があるのかはわからない。
確かなことは、彼女のその距離の近さのせいで、騎士団に不和が生じかけているということだ。
おそらく一番の被害者は彼女のバディであるオスカーで、彼が「どうすれば直るんだ」と言って密かに頭を抱えている場面を目にしたこともある。
彼にとっては〝フィオナさんに誤解されること〟が一番の恐怖なのだろうけれど、彼の憔悴具合を見るにそれだけでもないのかもしれない。
以前、オスカーについて「フィオナちゃんと付き合い始めるまでは、女の子達から無茶な距離のつめかたをされていた」とエドウィンから聞いたこともある。……まあそれも、随分と昔のことにはなるのだけれど。
もちろん、メアリにやましい気持ちはないのだろう。
「……すみません。以後気をつけます」
現に注意を受けた彼女は、しょんぼりとした表情で謝罪の言葉を述べているし、注意を受けてしばらくはメアリも注意深く距離を保とうともしている。……長続きしないだけで。
だから、彼女の謝罪が本心からのものだということも、彼女に悪気がないということも、わかっている。
私と同様、オスカーもそれがわかっているからこそ、メアリをあまり強く注意することができないのだろう。
けれども、このままではいけないのだと思う。
もしもメアリに下心があるのなら、逆に放っておけばいい。
この騎士団には、職務中に色恋沙汰を持ち込むような意識の低い人間はいないし、職務の遂行を邪魔しようものなら、たとえ若かろうと健康であろうと明るかろうと可愛かろうと、そんな人間は騎士団からはいずれ排除されることになるだろうから。
でも、彼女はそうじゃない。
そうじゃないからこそ、彼女にはきちんと言っておかなければならないのだ。「あなたのその距離の近さが、周囲に迷惑を掛けているのよ」と。
騎士になるのがどれだけ大変で困難はことかを知っているからこそ、悪気のない〝距離の近さ〟なんかで、メアリの頑張りがなかったことにされるのは、どうしても防ぎたい。
そんな決意が溢れ出てしまっていたのかもしれない。
「ねえ、メアリ。少しいいかしら?」
事務官である私よりも小柄なメアリを見下ろす形で発したその声は、少しきつく響いてしまったのか、彼女は不安げに瞳を揺らして「なん……でしょうか?」と答えた。
「……ここじゃなんだから、場所を移しましょう?」
新人が注意されることなんて日常茶飯事ではあるものの、わざわざ人目につくところで言う必要はない。
メアリの隣にいるオスカーは、私の言葉を聞いてほんの僅かに訝しげな表情を浮かべたけれども、「彼女を脅そうっていうんじゃないのよ。ただ話がしたいだけ」と伝えると、小さく頷いて口を開くことはなかった。
幼い頃から染み付いている威圧感のせいなのか、「……はい」と呟くように発したメアリの瞳は潤んでいるように見えたし、何も知らない人間からすると、ひょっとすると私は〝新人を虐めるお局事務官〟に見えているかもしれない。
けれども、それでもいいじゃない。ここで彼女の欠点から目を逸らして、そのせいで彼女の騎士人生が終わってしまう方が、よっぽど辛いもの。
そんなことを考えながら辿り着いた先は、とある空き倉庫だった。
特殊な武具ばかりが収納されているこの倉庫は、演習場の隅の方にあり、めったに人が近づくことはない。
会話の内容が他者に漏れてしまうことも、ないはずだ。
「どうぞ、先に入って?」
私がそう促すと、メアリはきょろきょろと辺りを見回しながらも空き倉庫の奥へと足を進めた。
そのまま倉庫の一番奥の壁のすぐ手前まで進んだ彼女がくるりとこちらに向き直ったのを見て、私も背筋を伸ばして彼女を正面から見据えるようにして立つ。
なんとなく既視感のある景色に、「きっと今のメアリからは、私が悪役のように見えているんだろうな」と思った。
けれどもあの日の彼女と違って、目の前の彼女はいまだに不安そうな表情を浮かべている。
そんなメアリをこれ以上怯えさせないためにも、私はそっと口を開く。
「どうしてここに呼ばれたか、わかるかしら?」
私がそう尋ねると、彼女はおずおずといった様子で「先程オスカーさんに注意を受けた件……に関してでしょうか?」と答えた。
「ええ、そうよ。オスカーをはじめとする団員とあなたの距離が近すぎるというのは、自覚しているわよね?」
「はい」
「オスカーから『やめてほしい』と言われているのも、理解できているわよね?」
「はい」
少し意地の悪い私の問い掛けに対しても、真剣な表情を崩すことなく返事をするメアリを見るに、やはり悪気や下心は皆無なのだろう。
「なら……どうしてオスカーがあまり強く言わないのか、あなたはちゃんとわかってる?」
それにもかかわらず、どうして彼女の距離感は改善されないのか。それはきっと、自分の行動が他者に与える影響に思いを致せてないからなのだろう。
そんな考えからの質問だったのだけれど、案の定メアリは「どうして……でしょうか」と言って黙り込んでしまった。
「一応言っておくけど、『強く言うほどのことではない』と思っているわけではないと思うわ」
私がそう言うと、メアリはこちらをしっかりと見つめながら、言葉の続きを促すようにゆっくりと頷く。
「……多分だけれどね、『悪気はないんだから仕方がない。俺が我慢すれば丸く収まるんだ』って、そう思われているのよ」
そのまま「心当たり、あるでしょう?」と問うと、彼女は眉を下げて「……はい」と答えた。
きっと彼女の脳裏には、今私が思い浮かべているのと同じ、〝げっそりとした様子で任務を終えるオスカー〟の姿が浮かんでいることだろう。
「あなたの配慮のなさが許されているのは、オスカーの犠牲があってこそなの。あなたは、オスカーに我慢を強いているのよ」
私のその言葉を聞いて、メアリが自分の下唇をぎゅうっと噛んだのがわかった。身体の横で握りしめられた小さな拳が、ぷるぷると震えているのも見て取れる。
「……少なくとも、あなたの態度は妻がいる男性への態度として相応しくないわ。あなたの行動で他者が不快に思う可能性を考えなさい」
メアリの様子を見るに、私が言いたかったことは十分伝わっていると思う。
だから最後の一言は、半分くらいは私情によるもの。
〝あの日の償い〟と言うのは烏滸がましいけれども、メアリの行動で傷ついている可能性があるフィオナさんのことを、知っておいてほしいと思ったから。
最後にふうっと息を吐いて「……話は終わりよ。稽古中にごめんなさいね」と言うと、メアリは深々と頭を下げて「いえ、ありがとうございました」と答えた。
彼女の声は掠れていて、一向に頭を上げる気配もない。
「……泣いてもいいわよ。誰にも言わないから」
私がそう言うと、メアリの瞳から溢れたであろう涙が、地面に染みを作るのが見えた。
「こんなこと、ただの事務官に言われたくなかったわよね」
「ごめんなさい」と続けると、メアリはぱっと顔を上げて「違うんです!」と悲痛な声を上げる。
「違うんです! 私、感情が昂るとどうしても涙が出てきてしまって……。でも決して『被害者ぶろう』なんて気持ちもなくて……』
辿々しくそんな説明をする彼女は、おそらくその体質のせいで嫌な思いをすることがあったのだろう。
確かに昔の私も、そんなふうに思っていた。けれども、さすがにもう、世の中にはいろんな人がいるということを知っているつもりだ。
「大丈夫よ。私はもう、それがわからないほどに子どもじゃないから」
私がそう言うと、彼女は心底安心したような表情で笑った。
「……少し落ち着いてから出てきなさい。オスカーには、私から上手いこと言っておくから」
そう言い残して先に倉庫から出ようとした私に、メアリは「嫌な役割を買って出てくださって、ありがとうございました。距離感については、今まで以上に気を引き締めます」と言った。
その言葉には強い決意が込められているように感じられて、「この子はもう大丈夫だな」と、そんなふうに思ったのだった。
「……ありがとう、助かった」
倉庫を出てすぐの私に掛けられたその言葉に驚いて、声の主へと視線を向けると、そこにはどこか気まずそうな表情を浮かべるオスカーが立っていた。
私を毛嫌いしているオスカーが、わざわざ声を掛けてくるなんて思っておらず、私は内心で動揺する。
「別にあなただけのためではないわ。ここ最近の騎士団全体を見ていて、いつかは言わなければと思っていたことだし、たまたまこのタイミングになっただけ」
こちらの焦りを悟られまいと意識しすぎてしまったからか、随分と素っ気ない言い方になってしまった。
けれどもオスカーはそれに気を悪くしたふうでもなく、「それでも、助かった。ありがとう」と応えた。
オスカーの事情も、理解しているつもりだ。初めて組んだバディが異性で、どこで線引きをすべきかがいまいち掴めなかったのだろう。
けれども、彼がどれほどフィオナさんのことを溺愛しているか、学生時代から見続けてきた私にとっては、オスカーの態度は面白くない。
「……あなたもあなたよ。もっとしっかり断りなさいよ」
半ば八つ当たりのように発したその言葉に、オスカーが目を見開いたのがわかる。
「あなたがフィオナさんに男性を近づけたくないのと同じように、彼女もそう思ってるかもしれないって、考えたらわかるでしょ? 良い関係でい続けるには、それなりの努力が必要なのよ」
まさかオスカーは、私にそんなふうに非難されるなんて、思ってもいなかったのだろう。
正直なところ「おまえに何がわかるんだ」などと怒られるかもしれないな……と身構えていたのだけれど、彼は目をぱちぱちと瞬かせると、なぜだかにっと口角を上げた。
「いや、本当に……その通りだ」
そう言ってさらに笑みを深めるものだから、居心地が悪いことこの上ない。
「……フィオナさんのこと、傷つけたら許さないから」
わざと不機嫌そうに発した私のその言葉を聞いて、オスカーは「ああ、わかっている」と言って、重々しく頷くのだった。
◇◇◇
その後のオスカーの行動は早かった。
メアリとの話し合いの結果、彼女からの申し入れによって二人はバディを解消し、それぞれが新たに別の人物とバディを組み直すことになったそうだ。
「君に落ち度はない。全ては俺に、君を指導するだけの力がなかったことが原因だ」
そんな言葉でメアリを守ったというオスカーは、先輩騎士の鏡と言えるだろう。
こうして、騎士団内に生じかけていた不和はなくなったわけだけれども、私の心は穏やかにはならなかった。
理由はわかっている。あの日メアリやオスカーに放った自分自身の言葉が、ずっと胸に引っかかっているからだ。
約半年後、私はジョンと結婚する。
けれどもジョンとの関係について、私は「このままでいいのだろうか?」と疑問を抱き続けている。
それにもかかわらず、わたしはジョンと向き合えていない。
「悪気はない」「ジョンの優しさに違いない」「私が我慢すれば丸く収まる」などと自分に言い聞かせて、目を逸らし続けてきたけれど、今の私達の生活は、私の犠牲の上で成り立っている。
けれどもきっと、ジョンはそのことに気がついていないだろう。
だって、私が言ってこなかったから。
今まではそれでなんとかなってきた。でも、私達は夫婦になるのだから、このままでは良くないだろう。
長らく放置し続けてきた問題を改善するには、勇気も労力も必要になるだろうが、私はそれに向き合わなくてはならない。
自分で言っていたように、「良い関係でいるためには、それなりの努力が必要」なのだから。
そんな思いを胸に帰宅したその日。
「ねえ、少し話し合いたいことがあるの」
そう言った私に対して、ジョンは少しだけ面倒くさそうな顔をした。
「明日でもいい? ちょっと疲れてて」
「……もちろんよ。明日、話し合いましょう」
私のその言葉に、ジョンは確かに「うん」と言ったのだ。
昔から変わらない表情で、へらりと笑って「うん」と言ったのだ。
けれども翌日、帰宅した家に彼の姿はなかった。
彼の代わりにあったのは、ダイニングテーブルの上に置かれた「夕食はいりません」という書き置きと、飲み物が少しだけ残された状態のコップだけ。
テーブルの前で呆然と立ち尽くす私の視界の端には、朝食で使った食器がそのまま残ったシンクが見えている。
その時感じたやるせなさを、私は言葉で説明することができない。
その時の私は、「ジョンはきっとこの先、枝のようなパスタを作ることもなければ、規定量の三倍の洗剤を使って洗濯をすることもないんだろうな」と、そんなふうに思ったのだった。