プロローグ
時刻は正午を少し過ぎた頃。
住宅が立ち並ぶエリアというのは、夜中よりもむしろ平日の昼間の方が静まり返っているのだなと、新たな発見に少し驚きつつも、私は自宅へと足を進める。
とある騎士……元同級生のオスカーが、史上最年少の若さで騎士として最上級の称号である〝英雄〟を授与されてから、約半月が経過した。
叙勲式に付随するあれやこれやで、私達騎士団所属の事務官はこのところ目が回るほどに忙しく働いていた訳だけれども、それもなんとか一段落しそうで、騎士団の演習場に隣接する事務室内にもようやくいつも通りの平穏な空気が戻りつつある。
おそらく事務官のみんなも、疲れているのだろう。そんな中でこの激務の終わりが見えかけて、変な方向に気分が高揚してしまったのだと思う。
「我々事務官からも、オスカー君に叙勲のお祝いを贈ろうじゃないか!」
目の下に隈を作りながら、それでも瞳だけは爛々と輝かせた室長のその言葉を受けて、事務室に「いいですね!」「やりましょうよ!」なんていう賛同の声が響いたのが、今日の午前中の話。
「確かレベッカさんは、オスカー君と学生時代の同級生だったよね? きっと私達より彼のことを知っているはずだから、少し見繕って来てもらえないかな?」
室長からそう依頼されて、私は心の中で悲鳴を上げる。「冗談じゃない!」と。
けれども、断る理由を伝える勇気もない私は「ええ、構いません」と答えてしまった。きっと私自身、心底疲れていたことも原因だと思う。
「急ぎの仕事も片付きましたし、お昼休みが終わってすぐに行ってきましょうか?」
「ああ、助かるよ。一人で大丈夫かい?」
心配そうな顔をしてそう聞いてくる室長に、小さく笑ってしまう。私と同い年の娘さんがいるという室長は、私のこともどこか子どものように思っている節がある。働き始めてもう丸五年が経過したというのに、だ。
「大丈夫ですよ、もういい大人ですから。その代わりと言ってはなんですが、少しだけ自宅に寄ってもいいですか? 片付けてしまいたいことがありまして」
「もちろんだよ。君さえよければ、お昼休み前に出るといい。その方が気兼ねなく用事を済ませられるだろう?」
室長の提案に甘えさせてもらった私は、足を動かしながらもこの後の動きを組み立てる。
今朝家を出る前に見た、荒れ果てた我が家の惨状を思い浮かべるに、やるべきことは山のようにある。
共に暮らす婚約者にも、数日前に「もうちょっとなんとかならないの?」と言われてしまったくらいだ。穏やかで優しい彼がそう言うのだから、相当居心地が悪いのだろう。
ジョンと決めた入籍日までも、あまり日がない。
結婚と同時に仕事を辞める女性が多い中、「結婚してからも仕事を続けたい」と告げた私に、婚約者であるジョンは「君が望むのなら」と言ってくれている。
だから、そんなふうに私の希望を受け入れてくれたジョンに苦言を呈させてしまったことに、私は少なからずショックを受けていた。
その時に感じた気持ちは複雑で、正確に言い表すことは難しいのだけれど、忙しいながらに夫婦円満にやっている彼女との違いを、改めて突きつけられたような気がした。
「室長のおかげで時間ができたから、せめて洗濯だけでもしてしまわないと」
落ち込みそうになる気持ちを奮い立たせるために、わざと声に出してそう言って、自宅の玄関の扉を勢いよく開けた時だった。
「えっ?」
私の目に、脱ぎ散らかされた二足の靴が飛び込んできた。
「どういうこと……?」
一年程前から知人の画廊で働き出したというジョンも、本来ならば職場にいる時間のはずだ。
「ならば泥棒?」という考えも頭によぎったけれども、二足の靴のうち片方はジョンが愛用している革靴だ。今年の彼の誕生日に、私が贈ったものだから間違いない。
そして、そんな彼の靴と共に玄関に放られているのは、ヒールの低いブラウンのパンプス。爪先が丸く、ころんとした印象を与えるその靴は、私が普段履いている靴よりも随分と小さい。
「……きっと、何か事情があるのよ」
自分自身に言い聞かせるように発したその言葉は、か細く震えていた。
本当にそう思っているのなら、大きな声で「ただいま」と、「何かあったの?」と呼び掛ければいい。けれども私は、それをしなかった。
じんわりと汗が滲んだ掌を握りしめ、音を立てないようにそっと廊下からリビングへとつながる扉を開ける。
何も悪いことなどしていないのに、バクバクと音を立てる鼓動に耐えながら、決死の覚悟で開けた扉の先には誰もいなかった。扉の先には、誰もいなかった。
その代わり、カーテンが閉め切られて薄暗いリビングとは対照的に、その隣にある脱衣所からは光が溢れている。
開け放たれた脱衣所の扉の先には、裏返しに脱がれた男女の衣類が一セット。さらには、シャワールームから聞こえる細かい水の音と、女性の甘えたような嬌声。
脱衣所に放置されている衣服がジョンの物であることは、遠目にも明らかだった。
この瞬間の全身から血の気が引く感覚を、私はこの先一生忘れることがないだろう。
腹が立つ、という気持ちはなかった。ただただ動揺した。
どこかふわふわとした心持ちでリビング内を見回すと、昨日取り込んだ洗濯物がそのままになっているのが目に入った。
すぐに目をそらしたから確かめられてはいないけれど、おそらく脱衣所には汚れた服やタオルなんかが、今朝と変わらず山積みになったままだろう。
そしてダイニングテーブルには、ジョンが使ったのであろうコップが置かれている。いつものように、ほんの少しだけ中身が残されたままの状態で。
いつも通りの光景なのだ。いつもなら、なんの疑問も抱くことなく、むしろ「ジョンに申し訳ないな」と思うような光景なのだ。
けれども今の私の胸には、虚しさが満ちている。
……女性を連れ込む暇はあっても、コップを片付ける暇はないのね。
彼が女性を家に連れ込んでいたことも、もちろんショックではある。
けれどもそれ以上に、彼が私との生活のために時間や労力を割こうという気持ちがないことが、言いようもなく辛かった。
私が彼との未来を明るいものだと信じていたならば、この状況に我を忘れてこの後この部屋にやって来るであろうジョンとお相手を罵ったのだろう。向こうが戻るのを待つことなく、お風呂場に乗り込んでいっていたかもしれない。
けれどもそれをしなかったのは、心のどこかで諦めてしまっていたから。心のどこかで「彼にとっての私は、所詮その程度のものなのだ」と、そう思っていたから。
「やっぱり私は、フィオナさんのようにはなれっこないのね……」
口の中で呟いたその言葉は、誰の耳にも届くことなく、冷え切った空間の中に消えていくのだった。