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十六

 それからというもの、真一の心身の回復は目覚ましいものだった。数週間にわたり、彼はほぼ毎日学校に通い、その滞在時間も次第に増えていった。そして、ついに真一はほとんど普通の生徒と変わらぬ日常を取り戻すことができた。


 ある朝、玄関先で母親が真一を呼び止めた。「ねえ、真一、ちょっと待って」と。


 真一は靴を履こうとしていた手を止め、振り返った。母親は優しく微笑んで、「頑張ってね」と声をかけた。今日は、真一が初めて自分のクラスに戻る日であり、そのことを気遣っての言葉だった。真一は少し照れくさそうに「うん」と頷いた。


 母親は真一を手招きし、自らの元へ引き寄せると、そのままひしと抱きしめた。真一は顔を赤らめたが、抵抗はしなかった。「ちょっと、恥ずかしいよ」とつぶやく真一に対し、母親は笑いながら答えた。


「いいじゃない、たまには。昔はあんなに甘えん坊だったのに」


「もう子どもじゃないんだから」と真一は反論した。


「そうね」と母親は満足そうに頷き、真一を優しく抱きしめる手を解いた。そして、真一の肩を軽く叩いて彼を前に向かせた。「いってらっしゃい」と告げた。


 真一は「いってきます」と言いながら玄関の扉を開けた。眩しい朝日が真一の顔を照らし出し、彼は外へと踏み出した。扉がカチャリと閉じると、キャンッとトタが吠えた。母親の頬には温かい一筋の涙が伝っていた。


 再びクラスに戻ってきた真一の心には、不安と期待が入り混じっていた。教室の扉を開け、一歩を踏み出した瞬間、その場に流れる空気がかつての自分とは異なることを感じさせた。視線を巡らせて自分の席を探していると、真っ先に昴が歩み寄ってきた。


「おはよう、真一」と昴は言いながら、真一の腕を掴み、固く握りしめた。その力強い握りに込められた感情が、真一の胸に直接伝わってくる。教室の他の生徒たちも次第に集まり、その中で昴は真一のそばを離れようとしなかった。


 昴はひっそりと真一の耳元に囁いた。「あとで部室来いよ。場所は分かるだろ?」その瞬間、真一の心臓は一瞬にして高鳴った。その言葉には、再び繋がりを求める昴の強い意志が込められていた。


 その時、健太も真一のクラスへやってきた。彼の目には真一への心配と、昴への対抗心が見え隠れしていた。健太は昴を引き剥がし、真一を抱きしめようとした。その動作は、まるで自分が真一の守護者であるかのような決意を示していた。


「おい、離せよ。こいつは俺のだ」と健太が声を荒げた。


「何言ってんだ、俺のだよ」昴も負けじと言い返す。


 二人の間に緊張が走り、言い合いが続く中、真一は教室の片隅にいた佐藤さんと目が合った。彼女の穏やかな微笑みに、真一はほっとした気持ちになった。


「佐藤さん、本ありがとう、元気出たよ」


「いいよ。真一君が来てくれるだけでみんな嬉しいの。見てあの二人、結局仲良いんだから」


 彼の心には、かつて感じたことのない温かさが広がっていた。自分を巡って戯れ合う二人の姿が、彼にとっては新たな希望の象徴のように映ったのである。


「ありがとう、みんな」と真一は心の中で静かに呟いた。そして、改めてこの場所が好きだと感じた。このクラス、この友人たちが、自分にとっての大切な居場所なのだと実感した。


 放課後の静寂が支配する部室、テスト週間のために誰もいないその場所に、昴は一人で佇んでいた。薄暗い部屋の中、昴は深い溜息をつき、ソファの上に腰を下ろす。そこに真一が現れた。彼の姿が部屋の入り口に現れた瞬間、昴の心には一抹の希望が灯った。隣に真一は腰を下ろすと、しばらく二人は何も言わずにいた。昴は静寂を破って口を開いた。


「……なあ、手、握っていいか?」


 昴の声はいつになく震えていた。その言葉には長い間心の奥底に秘めていた思いが込められていた。真一の目は昴を見つめ、静かに頷いた。その瞳には同じように深い感情が揺れていた。


 昴の手が真一の手を包み込んだ瞬間、二人の間にあった見えない壁が音もなく崩れ去った。その温もりが、互いの心に深く染み渡っていくのを感じた。真一は、自分の中にある感情を認め、昴の中にも同じ感情があることを感じた。その瞬間、二人の心は確かに一つになったのだった。


 昴はゆっくりと真一を押し倒し、重なる体の温もりに身を委ねた。しかし、すぐに昴は自ら下側に潜り込み、真一がその上に覆いかぶさる形となった。唇が触れ合い、軽いキスが交わされる。互いの体を優しく撫で合いながら、真一は顔を上げ、静かに言った。


「これ以上は......」


「やだ」と昴は呟き、再び真一を下にして強く抱き締めた。その瞬間、二人は深い感情に包まれ、しばらくの間、ただ抱き合うだけの時間が過ぎていった。胸の鼓動だけが聞こえる静寂の中、真一の鼻腔は柔軟剤の香りと、さらにその奥にある濃密な香りを感じていた。昴の体温が真一に伝わり、その温もりが心に沁み込んでいった。


「本当はずっとこうしたかった」と昴は囁いた。


 真一も同じ思いを抱いていた。「僕もずっと、昴のことが好きだった」と答えた。心の奥底で押し殺していた思いが溢れ出し、真一の胸の中で熱した蝋のように溶けて混ざり合った。記憶と感情が一つになり、まるで出会ったその日から昴のことを好きだったかのように思えた。


「明日からも来れるか?」と昴は尋ねた。


「うん、頑張るよ」と真一は微笑んだ。


「それじゃ、君の好きなものを教えてくれ」


 真一は急な質問に戸惑いながらも答えた。


「TWICEって知ってる?」


「ああ、ティーティッ、だろ?」


「今度一緒にライブ行こうよ」


 昴は笑顔で「おう」と答えた。「その前に今度こそ試合に来いよ」と続けた。


「うん、絶対」と真一は笑った。その笑顔が部室の静寂の中に溶け込み、二人の間に温かい光が差し込んだ。


「なあ、今日もうち誰もいないんだ」


 昴の部屋に再び足を踏み入れた真一の心には、これまでの出来事が鮮明に蘇っていた。昴がいてくれたこと、健太がいてくれたこと、佐藤さんがいてくれたこと、そして母親が支えてくれたこと。トタの存在も。そのすべてが、今の自分にとって必要不可欠なものだったと、真一は深く感じていた。人は誰かに認められることで、自分を受け入れ、そして他者を愛することができる。真一にとって、それが昴だった。昴はいつも変わらず優しく、真一のそばにいてくれた。


 窓の外を見やると、辺りは薄暗闇に包まれ、夜の帳が静かに降りていた。二人はベッドの上に並んで座り、肩と肩が触れ合う。昴は真一の頬をそっと掴み、その手の温もりが真一の心に伝わった。唇をゆっくりと近づける昴の姿が、真一の視界に映る。その瞬間、二人の間に流れる時間が止まったかのようだった。しかし、そのまま唇は触れることなく、昴は突然立ち上がった。部屋の入り口へとゆっくり歩いていく昴の背中を、真一はじっと見つめていた。


「そういえば、聞いたか? 健太と佐藤のこと」


「え、何?」


 昴は部屋の照明をパチンと落とした。柔らかな光が消えると、部屋は静寂と暗闇に包まれた。


 そして、二人は同じ色になった。

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