十五
その翌日の夕方、健太が真一の家を訪れた。玄関先に立つ彼の姿を見て、真一の母親は一瞬、疑念を抱いた。その見た目の印象から、昴や佐藤さんのような誠実さは感じられず、今度こそ彼が息子の不登校の原因ではないかと考えたのだ。しかし、母親はその思いを胸に秘め、表情には出さずに応対した。
「初めまして、僕、真一のクラスメートだった加藤健太と言います」と健太は明るい笑顔で挨拶をした。その無邪気な態度に、母親は少し戸惑いながらも応じた。
「こんにちは。真一と友達なのね?」母親は慎重に言葉を選びながら尋ねた。
「はい。ほんとはもっと早く来たかったんですけど……会いに来ました」と健太は真剣な表情で答えた。
母親の心にはまだ疑念が残っていたが、健太の予想外にしおらしい態度に次第に気を許し、彼を中に招き入れることにした。「ありがとうね。真一、もう直ぐ帰ってくると思うから、先に上がってて」と言って、玄関の扉を開けた。
健太が家に入ろうとした時、トタを連れて散歩から戻ってきた真一が現れた。真一の顔には驚きの色が浮かんでいた。健太はすぐに真一に気づき、笑顔を浮かべて歩み寄った。
「真一、久しぶりだな」と健太は声をかけた。真一は驚きながらも微笑みを返し、母親をチラリと見て、健太を自室へ案内することにした。
「こっちに来て」と真一は健太に声をかけ、廊下を進む。
健太はトタを抱き上げ、「犬だ犬だ」と言いながら、真一の後をついて行った。母親はその様子を見送りながら、息子の友人が本当に彼を心配して訪れたのだと信じ始めた。
二人が真一の自室に入ると、健太はトタを床に降ろし、部屋を見回した。「いい部屋じゃん」と健太は言い、トタがじゃれついてくるのを笑顔で受け止めた。
真一が部屋の隅に腰を下ろすと、健太は少し照れくさそうに「ほんと久しぶりだな」と改めて言った。健太は笑顔を浮かべ、真一の隣に座り込んだ。
「昴が怒鳴ったって? 気にすんなよ。あいつ、あれで意外と頭に血がのぼりやすいんだよ」と健太は軽く笑いながら言った。真一は、健太が昨日の昴とのことを知っていることに少し驚きつつも、当然かと思った。
「昴、お前のことずっと心配しててさ。真一が来なくなってからの落ち込みっぷり、見せてやりたかったよ」と健太は続けた。真一の心には、昴が自分を心配してくれていたという事実がじんわりと染み渡った。
「ほんと?」
「ああ、昨日も俺に相談してきてさ。あいつがだぜ? まじきめえよ」と健太は冗談混じりに言い、真一もそれに応じて笑った。久しぶりに感じる友達との笑いに、真一はかつての感覚を取り戻しつつあった。
ふと、健太の表情が少し真剣なものに変わった。「……なあ、俺もまだお前の友達でいいよな?」その言葉にはどこか後ろめたさが滲んでいた。
「え、むしろ違うの?」と真一は戸惑いながら問い返した。
「いや、なんでもない。久しぶりすぎてさ」と健太は微笑み、何事もなかったかのように振る舞った。
「ねえ、僕も健太の友達だよね?」
健太はその言葉に一瞬目を見開き、すぐに真一の肩を抱き寄せた。「当たり前だろ」と力強く言う。真一は肩をさすられる感触に少し安堵しながら、続けた。
「……今さら、学校に行っても変じゃないかな?」
健太の手が一瞬止まる。真一はゆっくり顔を上げて健太を見つめた。健太は一瞬言葉に迷ったようだったが、真一と目が合うと顔が綻び、そのまま口をとんがらせて言った。
「変じゃねーよ」
それは健太の率直な言葉だった。真一は涙が込み上げるのを必死に堪え、口をつぐんだ。見かねた健太は真一の頭を自らの胸に押し当て、優しく囁いた。
「何で泣かねーんだよ、泣けよ」
次の瞬間、真一の目からは堰を切ったように涙が溢れ出ていた。自分でもなぜこんなにも涙が溢れ出てくるのか分からなかった。しかし、心の中が温かな安らぎに満たされると、これまでの数多くの苦悩や疑念、自己嫌悪が次第に胸を離れていくのが分かった。
嗚咽を漏らして泣き喚く真一を抱きしめながら、健太はどうすれば良いのかわからず、ただひたすらに真一の背中をさすり続けた。「大丈夫だ、大丈夫だ」と優しく言葉をかけ続けた。
その後、少しずつ落ち着きを取り戻した真一は頭を持ち上げ、健太に向かって静かに謝意と感謝の言葉を述べた。涙を拭い、元の自分に戻ろうとする真一に、健太は口を開いた。
「でも、俺たち、クラスが分かれたんだよ」
「え?」
真一の表情に一瞬、陰が差した。健太は慌てて続けた。「でも、昴がいるから。なら平気だろ?」その言葉に、真一の顔には安堵の色が広がった。
「ならいいってか!」
健太は笑いながら、真一の胸を軽く小突いた。真一は慌てて訂正しようとしたが、二人はそのまま、たまらなくなって一緒に笑い合った。最後に健太は言った。
「あとな、真一、お前周り気にしすぎなんだよ。いいか? 何があっても、何を言われてもお前が悪いことなんかぜってーないんだよ。それでも気になるなら俺に言え。俺が何でも受け止めてやる。今の俺はスーパー抱擁マンだからな」
真一は笑いながら答えた。
「うん、忘れない」
帰り際、健太は「お前もスマホ買ってもらえよ。そしたら最初にアカウント教えろよな。いつでも通話してやるからさ」と言った。真一は温かい気持ちになりながら、「ありがとう」と答えた。
健太が去った後、真一はまるで世界が新たに開かれたような清々しい気分になった。長らく背負ってきた孤独という重荷をストンと降ろし、生まれて初めて羽を広げるような自由と解放感に包まれたのだ。
その日の夕餉の席で、真一の顔に浮かぶわずかな明るさを見て、母親の胸には静かな喜びが広がった。
「どう? 楽しかった?」と母親は優しく尋ねた。
真一は一瞬考えた後、柔らかな笑顔を浮かべて答えた。「うん、健太ってね……」
その瞬間、初めて友達のことを話す真一の姿を見て、母親は息子の中で確かに何かが変わったことを感じた。閉ざされていた心の扉が少しずつ開かれていく様子に、深い感動を覚えた。
翌朝、薄明かりが窓から差し込む中、真一は静かに起き上がった。寝室を出て台所に向かうと、母親が朝食の準備をしていた。真一は一度深呼吸をし、意を決して母親に近づいた。
「お母さん」
「……ん? もう起きたの?」
「あのね、来週から保健室、行ってみたいんだ」真一は静かに告げた。
真一に背中を向けたまま、母親は動きを止め、浅い呼吸を整えた。手元の包丁をそっと置き、ゆっくりと振り返った。
「そう、なら先生に連絡しなくちゃね」
母親は努めて冷静に、まるで普段から学校に通っている子どもが熱を出して休むときのように、自然な笑顔を装った。
しかし、ついに訪れた希望の瞬間に、母親の目頭は熱くなっていた。すぐに担任の先生に連絡を入れるべく、特別に教えられた携帯の番号を手に取った。その日は土曜日だったが、いつでもかけてくださいと告げられていた。
母親は自らの震える手を見つめた。この手はかつて、息子の小さな手をしっかりと握りしめていた。それが今また彼女の元に戻ろうとしている。十一桁の番号を一つずつ丁寧に押していくと、電話の向こうから先生の声が返ってきた。母親はゆっくりと真一の決意を伝えた。担任の先生は温かい言葉で応答し、真一の意思を尊重し励ましてくれた。「はい……はい、分かりました」と頷く母親の背中をじっと見つめながら、真一の胸の中では、月曜を待ち望む高揚感と不安が交錯していた。




