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十四

 四月の訪れとともに雪はすっかり溶け、道端には新たな芽が顔を出し始めていた。真一はリードを握りしめ、心の中で様々な思いを巡らせていた。


 その時、トタが突然リードを引っ張り、勢いよく走り出した。驚いた真一はリードを放してしまい、トタは瞬く間に視界から消えた。


「待って!」と叫びながら真一も走り出したが、トタの姿はすぐに見えなくなってしまった。胸中に不安と焦燥が広がり、彼を駆り立てた。もしこのままトタが見つからなかったら? 誰もいない場所でひとり死なせてしまうのか? そんなのはいやだ。息を切らしながら膝に手をついて立ち止まったその時、前方から誰かの声が聞こえた。


「真一?」


 真一が顔を上げると、そこには見覚えのある顔があった。ぎこちないながらも、変わらぬ優しさをその瞳に湛えた昴が、静かに真一の方へと歩み寄ってきた。


「久しぶりだな。最近どうしてた?」


 その声に驚愕した真一は、体が硬直した。言葉は喉に詰まり、ただ「あ……」とだけ口に出た。それは紛れもない昴の声だった。彼の存在は、真一の心に封じ込めていた感情を一瞬で解き放ち、その全身に電撃を走らせた。胸の鼓動が激しく鳴り響く中、真一は視線を昴に向けた。


「……真一? どうした?」


 昴の声に促されるように、真一はやっとのことで口を開いた。「さっき、家で飼い始めた犬が逃げちゃって……あっちに行っちゃったんだ」真一は震える指でトタが走り去った方向を指し示した。


「よし、一緒に探そう。大丈夫、きっと見つかるさ」昴は真一の肩を軽く叩き、その温もりが真一の心に一時的な安堵をもたらした。二人は共にトタを探し始めた。


 日が暮れても、トタの姿は見つからなかった。暗闇が静かに迫り、冷たい風が肌を撫でる中、二人の疲労は極限に達していた。


「今日はもうやめて、明日にしよう」昴が提案した。その声には優しさと共に、疲労の色が滲んでいた。真一はその言葉に寂しそうに頷いた。


「ごめん、昴。迷惑かけちゃって……」真一は申し訳なさそうに言った。


「謝るなよ、また会えて嬉しかったよ」昴は優しく真一の頬に手を当て、そっと持ち上げた。その温かい手の感触が、真一の心を徐々にほぐしていく。真一が少し顎を上げると、昴と目が合った。昴はにかっと笑い、その笑顔に引き寄せられるようにして真一も微笑んだ。


 その時、草むらから微かな音が聞こえ、二人の視線がそちらに向けられた。草むらから小さな影が飛び出してきた。


「トタ!」真一は駆け寄り、トタを抱き上げた。「良かった……ありがとう、昴」


「いいよ」昴も安堵の表情を浮かべていた。


 真一はトタをさらに抱き寄せ、その温もりに安堵の表情を浮かべ、目を細めてトタと戯れた。昴はその様子を静かに見つめ、やがて口を開いた。


「真一……学校にはまだ来ないのか?」昴が優しく尋ねた。


 その問いかけに、真一の心臓は鋭く反応した。「……どうして?」


「どうしてって、心配してんだよ。……どういう意味だよ?」昴の声には微かに怒りが含まれていた。


「……俺のことが嫌いなのか?」


「違うよ」と真一は地面を見つめながら、かろうじて言葉を絞り出した。それは彼の揺るぎない本心だった。しかし、その態度は昴に真逆の印象を与えた。


「違うことなんてねぇだろ!」昴の声は怒りに震え、強く響いた。


「……ごめん。もう一度、学校に戻ってこいよ。な? 真一」昴の視線は鋭く、真一の瞳に深く突き刺さった。


 真一の身体は重い鎖に縛られたかのように動かなくなり、何も言えず、ただ立ち尽くしていた。トタの胸の小刻みな鼓動が手のひらを通じて伝わり、まるで自分の心臓を自らの右手で握りしめているような錯覚に陥っていた。


 昴もまた言葉を失い、無言のままの真一に痺れを切らし、ゆっくりとその場を後にした。その瞬間、昴の足元で小枝が砕け、「パキン」と乾いた音が静寂の中に鋭く響いた。昴の背中を見送る真一の胸の中で、忘れ去ったはずの感情が堰を切ったように溢れ出し、彼の心を再び激しく揺さぶり始めた。


 ──昴が怒った。どうして? いや、違う。昴を怒らせたのだ。


 去りゆく昴の心には、真一との間に生じた軋轢が未解決のまま燻っていた。これまで親身に接してきたにもかかわらず、なぜこのような冷淡な扱いを受けなければならないのか。その理由が分からず、内心では苛立ちが募っていた。


 昴は家に帰り、風呂から上がった後、深い溜息をつきながらスマートフォンを手に取った。健太にメッセージを送る。「今日、真一に会った」と短く打ち込んだ。それに対する返事は、驚愕の表情をしたスタンプと共に「どうだった?」という問いかけだった。昴は一瞬躊躇いながらも、「元気そうだったよ、でも俺が怒鳴って台無し」と返信した。すぐに「何やってんだよ」と健太からの返事とともに、指を激しく突きつけるスタンプが表示された。


 昴は再びため息をつき、「なあ、お前も真一に会ってくれよ」と続けた。少し間を置いてから、健太は「そうだな、佐藤も最近家に行ったっつってたし、明日行くよ、謝っときゃ良い?笑」と返してきた。昴はいつになく素直に「うん、頼む」と応じた。


 昴はふと思い出したように「あ、あとお前犬好き?」とメッセージを付け加えた。「え?なんで?」との返事を見つめる昴の表情には不安と希望が入り混じっていた。今しかない。この機会を逃せば、二度とチャンスは訪れないだろう。そんな予感に駆られ、昴はただひたすらに健太に想いを託した。


 その夜、昴は布団に横たわりながら、天井を見つめていた。窓から差し込む月光が彼の顔に淡い影を落とし、スマートフォンを握りしめた手が微かに震える。眠れずに何度も寝返りを打ち、画面に表示された健太とのメッセージを何度も確認する。その時、健太から追加のスタンプが送られた。妙に腹の立つ動物が胸に手を当て「まかせろ!」と叫んでいた。「やべ、既読ついた」画面の光が昴の顔を照らし出し、彼の瞳には期待と不安が交互に揺れていた。昴は深い溜息をつき、決意を込めて瞼を閉じた。

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