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十三

 それから昴は一度だけ真一の家を訪れた。真一が学校に来なくなってから、ちょうど一週間後のことだった。


 インターホンの音が静寂を破り、真一の母親が玄関先に出ると、そこには明るく挨拶をする昴の姿があった。


「あの、真一君、いませんか?」


 昴の声には真摯な響きがあった。母親が「あなた、真一と仲がいいの?」と問い返すと、昴は一瞬の沈黙の後、「……はい。真一君と会いたいんです」と答えた。


 母親は、息子が学校に行かなくなった原因がいじめによるものかもしれないと考えていたため、昴の言葉をすぐには信じることができなかった。


「ごめんなさいね、まだ体調が戻っていないの」


「本当ですか? 少しだけでも話したいんです」


 昴の真っ直ぐな瞳に心を動かされた母親は、ドキリと胸を打たれた。彼の言葉には何の陰りもなく、企みを感じることはできなかった。母親は玄関の扉をゆっくりと開き、「とりあえず入って」と昴を招き入れた。


 昴は中に上がるよう促されたが、「ここで良いです」と固辞し、土間から真一の名前を呼んだ。


「真一!」


 その声には切実な響きが込められていた。母親はその声に驚き、昴の様子をじっと見守った。廊下に響いた声が虚しく消えると、昴は靴底を床に擦りつける音と共に、再び呼びかけた。


「なあ、出てこいよ!」


 しかし、その声もまた冷たく反響するだけだった。昴は母親と目を合わせた。母親の眼には微かな涙が滲み、昴の瞳も揺れていた。母親は目の前の健気な少年の純粋な心に打たれ、微笑を浮かべて言った。


「ごめんなさいね……。あの子、もう少ししたら元気になると思うから」


「いいんです」と昴は苦笑しながら応えたが、ふと思い出したように尋ねた。


「真一は何か言ってましたか?」


「ううん、何にも。学校のことは普段からあまり話さないの」


「そうですか……。俺、真一のこといつも待ってるって、伝えてくれませんか?」


 母親はできるだけ明るい声で、「分かったわ。あなたみたいに優しい子が友達でいてくれて、安心ね」と答えた。


 玄関先で帰ろうとする昴の背中に、母親は思わず声をかけた。


「昴君、今日はありがとうね。……きっと、大丈夫よね?」


 その言葉を発した瞬間、母親は自分が目の前の少年に対し、無意識に助けを求めていることに気づき、恥じ入った。しかし、昴の存在は、頼る相手のいなかった母親にとって、一筋の光明のように思えたのだ。


「はい!」


 昴は母親の前で屈託なく笑い、その言葉を力強く答えた。彼もまた、母親の優しさに触れ、心の奥底で希望の光を見出していた。


 その日の夕餉の食卓、食器が机や箸と触れ合う音が静かに響く中、母親は口を開いた。


「優しい友達がいるのね。いつでも待ってるよって。ちゃんと大事にしなきゃだめよ」


 物言わぬ真一を気遣いながら、母親はさらに続けた。


「そうだ、おばあちゃんから桃が届いたの。食べる?」


 真一は「もうお腹いっぱい」と答えた。


「そう、なら明日の朝にしようか。熟れて逆に美味しくなるわよ。朝切って冷蔵庫に入れとくから」


「うん」


 真一は静かに立ち上がり、自室へ戻った。暗い部屋に消えていく真一の背中を見つめ、母親の目には静かな涙が浮かんでいた。


 ──真一は玉を投げた。それを追ってトタが駆け出し、軽快な足音を立てて玉を咥えて戻ってくる。真一はその玉を手に取り、再び遠くへ投げる。トタはまた駆け出し、戻ってくるたびにその目は喜びに満ちていた。


 気だるい昼下がり、居間の静寂の中で、真一はただ一人、トタと共に時間を過ごしていた。繰り返される単調な遊びに没頭し、トタの期待に満ちた眼差しをぼんやりと見つめながら、彼は思った。トタは、どれほどまでこの遊びを続けるのだろうか。自分が投げ続ける限り、トタはその命が尽きる瞬間まで飽きることなく走り続けるのだろうか。


 次第に遠のく視線の中に、昴の面影が浮かび上がった。昴は今、何をしているのだろうか。彼の心にはもう何の感情もないのだろうか。今更謝っても、昴は自分の存在など忘れてしまっているかもしれない。それでも良いのかもしれない、と真一は心の中で呟いた。その声は誰にも届かず、ただ彼の心の中で静かに反響するばかりだった。


 真一は脇に置いていた色紙を手に取り、その上に記された文字に目を凝らした。多くの言葉は視界からこぼれ落ち、真一の視線は健太の整然とした筆跡と、昴の荒々しい文字に引き寄せられた。


「また一緒に遊ぼうぜ」と書かれた健太の言葉。「また」と「一緒に」の響きが、真一の胸に甘く切ない鼓動をもたらした。


 一方で、昴の言葉は「とりあえず来い」だった。その瞬間、真一の心に冷たい衝撃が走った。「とりあえず来い」の先に何が待っているのだろう。昴は何かを話すつもりなのか。それとも、ただの義務感から出た無感情な言葉なのかもしれない。


 それでも、真一はその文字から目を離せなかった。その文字に触れることで、昴の存在を直に感じられる気がしたからだ。


 ふと気づくと、トタはいつの間にか隣で座り込み、玉を齧っていた。その体の下には、佐藤さんからもらった「もものかんづめ」が下敷きになっていた。真一はその微笑ましい光景に目を細め、心の中で静かに願った。この静かな時間が永遠に続けば良い、と。


 明くる日、春の風が夕暮れ時に優しく吹き抜ける中、真一はいつものようにトタを連れて散歩に出かけた。

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