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十二

 いつもの登校の道を、真一は重い足取りで歩いていた。玄関を出ると、地面が顔の寸前に迫ってくるような錯覚に陥った。昴に対する拒絶感は日増しに強まり、それはまるで心を守るための最後の砦のように感じられた。


 無機質な廊下の冷たい床を踏みしめ、教室の扉に手をかける。もし上方に黒板消しが挟まれていたなら、真一はそのまま頭にぶつけていただろう。誰の目も見ないように、眠そうな目を装いながら自席に腰を下ろした。


 その時、優しい声が斜め後ろから響いた。「おはよう」


 振り返ると、佐藤さんが微笑んでいた。同じように微笑みを返しながら、真一も挨拶を返した。


「寝坊したの? いつもより遅かったから、もう来ないのかと思った」彼女の表情には心配と優しさが滲んでいた。


「うん、初めてかも。正直もう休みたかったよ」真一は笑顔を作って答えた。通学路での暗い気持ちが、佐藤さんとの会話で少しずつ和らいでいくのを感じた。今日も大丈夫、と心の中で自分に言い聞かせた。


 やがて、先生が教室に入り朝礼が始まった。今日の日直は昴だった。


「起立。気をつけ。礼」と昴の低い声が二つ後ろの席から響く。ガラガラと一斉に椅子が引かれる音が教室中に反響し、真一も変わらぬ日常の一部として昴の命じる声に従い、再び席についた。


 いつものように朝礼が終わり、教室は静かに一時間目の授業を迎えた。黒板に書かれる文字一つ一つが、普段と寸分違わぬ日常を映し出しているかのように思えた。授業が終わり、五分間の休み時間が訪れ、再び次の授業が始まる。淡々とした時間が、まるでベルトコンベアーのように無機質に流れていく。


 そのはずだった。


 昼休み、真一がいつものように佐藤さんと教室を出ようとした瞬間、扉の向こうからやってきた昴と正面で向き合った。昴の瞳と真一の瞳が揺れながら交錯し、一瞬の静寂が二人を包み込む。その刹那、教室の喧騒は遠のき、真一の心に潜む疑念と不安が一層際立った。


 それはまさに一瞬の出来事だった。昴は突如として真一を抱きしめた。その抱擁は、割れ物を扱うかのように限りなく優しく、真一の身体を包み込んだ。しかし、そのか弱い優しさに逆らうように、真一の身体は固くなっていった。「お前最近どうしたよ?」と昴の低く柔らかな声が耳元に届く。真一の心は混乱し、その言葉の意味を掴むことができなかった。昴の温もりと声の響きに揺さぶられ、彼の心は深い混迷に陥った。


 数日間会話がなかったのに、昴はなぜ突然こんな行動に出たのだ。そして、なぜ今も離れずにいるのだ。隣の佐藤さんの表情や周囲のクラスメートの視線が気になりながら、真一は何も言えなかった。


 その間にも、胸からは熱が湧き上がり、脳がとろけるような感覚に包まれていった。視界が霞み、意識が遠のきかけたその瞬間、外の廊下から近づく足音が耳に届いた。それは、かつて真一に「なぜ昴と仲が良いのか」と尋ねてきた女子たちの話し声を連れていた。すりガラス越しに二人の影が見えたその瞬間、真一の全ての感覚が鋭く目覚めた。


 体の内側から凍てつくような恐怖が襲いかかり、心の奥底で眠っていた疑念と不安が一気に噴出した。それは彼の全身を貫き、まるで冷たい雹のつぶてが心の中を吹き荒れるようだった。真一はその恐怖に慄いた。


 胸の鼓動が最高潮に達し、二人の影が教室の入り口に差し掛かる寸前、限界だと感じたその瞬間、昴は突然真一から身を離した。真一は命を繋ぎ止めたかのように安堵し、昴の顔を見つめた。昴の唇が微かに動き、何か言いたげだった。そして、はにかんだ微笑を浮かべながら、右手を真一の頬に伸ばした。


 それが引き金となり、真一の心は崩れ去った。


 反射的に、真一は昴の手を勢いよく払いのけた。その瞬間、昴の顔に浮かんだ弱さと驚きが真一の心に深く刻まれた。昴がこんなにも脆い表情を見せるのは初めてだった。


 真一は一度も振り返らず、昴の横を通り過ぎた。周囲の視線や囁き声にも耳を貸さず、ただひたすらに歩みを進めた。


 図書室の静寂の中、佐藤さんが囁くように言った。


「喧嘩してるの? ダメだよ、すぐに謝らなくちゃ。どれだけ望んでも、二度と喋れなくなっちゃうこともあるんだから」


 真一はその言葉をゆっくりと飲み込んだ。自分が昴に対して行った行動は、確かに最低だった。しかし、どうするのが正解なのかが分からなくなっていた。心は迷いの中にあった。


 昼休みの終わりを告げる予鈴が校内に響いた。教室に戻ろうとする真一の前に、昴が現れた。昴は教室から出てきて真一の方に向かって歩いてきた。真一はすれ違いざま、謝ろうと口を開いた。しかし、昴は目が合ったにもかかわらず、視線を逸らし、何事もなかったかのように横を過ぎ去っていった。その瞬間、真一の胸に冷たい実感が広がった。それこそが、自分の望んだ光景なのかとも思った。少し前の夏休み、それよりも前、出会ったその日から、昴はいつも笑いかけてくれた。笑いかけてくれていたのに。そして、つい数十分前も。


 ──さっきのは実験だったのだろうか。


 ──それとも、自分はただの面白いおもちゃなのか。


 訳の分からない疑念が頭の中で浮かび、激しい自己嫌悪の渦に飲み込まれていった。


 本鈴が鳴った。次の日、真一は普通に登校した。その次の日、真一は学校に行かなくなった。

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