30【リヒト視点】概ね順調
結局、グラナティアとは話せないまま、残すところあと2日となってしまった。
グラナティアとの距離感は、変わらないままだった。
でも、グラナティアがあまりにも毅然としているから、気がつかなかった。
勝手に広がる悪評が、彼女にどんな仕打ちをしているのかを。
その日、僕は誰よりも早く学院にいた。
偶然、早くに目が覚めて、家で時間をつぶすのも勿体ない気がして、学院に来る事にしたのだ。
学院の図書室にでも行って、本を借りようかと思って。
でも、目的の図書室は、まだ開いていなかった。朝早くは空いていないなんて、知らなかった。
城の書庫は、いつでも司書のハートマンが僕が読みたい時に開けてくれたから……。
今度、何かお礼しよう。
教室に戻ると、数人の生徒が来ていた。まだ人数は少ないけど。
その内二人。男子生徒がふざけ合っている。
危ないなと思ったけど、特に何も言わないでいたら、一人がよろけてグラナティアの席にぶつかった。
椅子が派手に転がる。
ふと、その音につられて視線をあげると……
……椅子の底の裏側に、彼女への誹謗中傷が幾つも折り重なって書かれていた。
普段なら、誰も気がつかないだろう、その場所に……彼女は、気がついていただろうか?
呪いのようなこの椅子に、彼女は毎日毅然と座っていたのか……。
少し、楽観視し過ぎていたかもしれない。
人の悪意は、目に見えないのだ。
あからさまでない言葉こそ、態度こそ、人を傷つけるのだ。
僕は思わず立ち上がり、グラナティアの席に近付く。倒れた椅子を起こし、手で支え、軽く蹴るとばきっと音を立て足が折れた。
後ろを振り向くと、朱色の瞳を驚愕に見開いたグラナティアがいた。
「……ああ。スエロ公爵令嬢。おはよう」
「……お、はよう、ございます」
「ごめん。君の椅子、ふざけていたら壊してしまった。僕の椅子を使ってくれ。今、急いで新しいのを用意させるから」
僕は、側で茫然としていたクラスメイトに声を掛け、新しい椅子を手配して貰うよう頼んだ。
自分の席から椅子を持って来て、彼女の席にそっと置く。
「……ああ。そうだ、スエロ公爵令嬢」
「……はい!」
「今度、”春の祭典”の際に、”鎮魂歌”という儀式の見学会を行うんだ。……公爵から聞いているね?」
「……はい」
「……出来たら、君に来てほしい」
「……」
「待っているから」
それだけ言うと、僕は椅子を持って来てくれた生徒に礼を言い、席に着く。
グラナティアは、珍しく少しぼんやりとした雰囲気で椅子を眺めて、ゆっくり席に着いた。
ああ……学院の備品を壊してしまった。怒られるかな?
その夜、僕は皇太子殿下の私室にいた。兄上の私室に入るのは、幼い頃以来だ。
重厚感のある落ち着いた色合いが、兄上らしい。
”鎮魂歌”の最後の段取りの確認の為、話がしたいと言ったら、折角だからゆっくり話そうと、夕餉の後にここに呼ばれていた。兄上は、ようやく仕事が一段落したらしく、今湯浴みをしているそうだ。僕は、兄上の本棚などを眺めながら待っている。すると、ドアがノックされた。
「すまない……待たせたか?」
母上に似て、どこか妖艶な人だ。湯浴みで濡れた髪で、余計にそう思うのかもしれない。
僕と兄上とは、髪と瞳の色が似ているから、よく似ていると言われるけど……いつか僕もこうなれるのかな。
「ううん。全然。忙しい所、ごめんね」
「いや……可愛い弟が頼ってくれて嬉しいよ」
兄上はぽんぽんっと僕の頭を撫でる。まだまだ子供扱いだ。
兄上は僕が持ってきた書類にまずは目を通すと、ソファーに腰掛ける。その姿に、何となく……疲労の色が滲んで見えた。
「疲れてる?」
「ああ……まあ少し」
「何かあったの?」
兄上が忙しいと言うのは、国の有事の時だ。僕に知らせられるものかは、わからないけど。
「……う~ん。まあ、”あった”という程の事じゃないんだけど……気になる事があってね」
「気になる事?」
「ああ……最近、魔獣の動きがおかしいんだよ」
「え?」
僕は咄嗟に振りかえる。兄上は、ふぅと息を吐き、首を回しながら答える。
「まだシールドの外側の事だからね。騒ぐほどの事でもないんだけど……魔獣が急に人里におりて、シールドに体当たりしてきたり……夜行性のナイトバットが、昼間に現れてすぐ麓の熊や鹿を喰らっていたり……被害報告はまだないものの、そんな事件の件数が数件重なってね。シールドも、作っているのが人間である以上限界があるから……もしかしたら、義勇軍なり、何なり、対策が必要になってくるかもしれないという事で、調査に向かっていたんだ」
……まだ誰にも内緒だよと言い、兄上は書類に目を戻す。
……なんだか、恐いな。そう思いながらも、ふるっと頭を振って、兄達が懸命に対策してくれているから大丈夫だと自分に言い聞かせ、弱気な気持ちを振り払う。
ふと、本棚に目が留まる。学院側が用意した、兄上の中等部時代のアルバムがあった。
「ねえ、これ見て良い?」
「……ん?ああ、なんでも見て良いよ~」
兄は、こっちを向きもせず、手をひらひらと振る。
兄は、王都の王立学院ではなく、どうやら辺境伯領にある王立学院に行っていたらしい。
僕がちょうど引きこもっていた時期と被っていた為、知らなかった。
重たいアルバムを持ちあげ、表紙を開くと、今の僕より少し上……15~16歳の若者達の、水魔法で本物さながらに描かれた絵姿が並ぶ。
何ページか捲ると、兄の絵姿と名前を見つけた。兄の名前は長いから、すぐに分かった。
今より、だいぶ幼く見える。
ふと、同じページに並ぶ絵姿を見る。僕は、思わず動きを止めた。
”リヴ・オセアン”
ブルーグレーの髪に、濃い海の色の瞳の少年。
僕はこの時初めて、ずっと架空の人物だったリヴ・オセアンの形を見た。
「……兄上、これ」
「……なぁ、最近。婚約者とはどんな感じだい?」
兄上と、声が重なった。僕は、兄の質問に答える事にした。
「……どんなって、普通に、仲良くしているよ」
「……普通に?仲良く?」
兄上が首を傾げる。何か変な事言ったかな。
「”鎮魂歌”に向けて色々と話し合ったり、学院でも、放課後家まで送っていったりもしているし……今度、またエレノアも一緒に、ピクニックしようって言っているし」
「……ピクニック、ねぇ」
何だか含みのある言い方だ。僕は少しむくれる。
「……何が言いたいの?」
「いや……お前、二次覚醒はまだだったよな?」
話があちこちに飛ぶ。兄上の悪い癖だ。
「……そうだけど。13歳はまだ遅い方じゃないだろう?その内、その時が来るよ」
「ああ……そうだね。楽しみだな。その時が」
最後は、また優しい兄の顔に戻っていた。なんだったんだろう。
気がつくと、僕は、彼の事を聞きそびれてしまっていた。




