2.息子の独り立ち
それからしばらくして、コーデリアはガスリー伯爵家現当主・クラークから呼び出しを受けた。
「そろそろ、アーサーをハルフォード家に預けようと考えているのだが」
コーデリアはどきりとした。
「先日もお茶会にお邪魔しただろう。両家は親交が深いし、何よりアーサーがサミュエルを慕っているのでね」
軍人貴族たちは横の繋がりが強い。縁者の結びつきが強ければ強いほど、のちのちの出世は約束される。一も二もない提案に違いないのだが、コーデリアは青くなった。
いずれにせよ、彼女は伯爵家当主の意見には逆らえない。
コーデリアは荷造りしたアーサーを伴って、後日再びハルフォード家を訪れることとなった。
家を出る息子は、母の目にはどこかいつもより逞しく見える。
真っ先にハルフォード邸の玄関先に迎え出たのは、サミュエルその人であった。
身構えるコーデリアに代わり、アーサーが前に進み出る。
「騎士見習いの件、了承していただき幸いです」
コーデリアは息子の大人びた様子に胸をじーんと震わせながら、サミュエルに作り笑顔で挨拶する。
「息子をよろしくお願い致します」
すると流れるように、アーサーがこんなことを言い出した。
「では母上、私はハルフォード伯爵の元に挨拶して参ります」
えっ、とコーデリアが疑問を呈する間もなく、アーサーはさっさとハルフォード邸の階段を上がって行く。
ぽつねんと玄関ホールに取り残されたコーデリアとサミュエルは、二人気まずそうに向かい合った。
「コーデリア様」
声をかけられ、彼女は真っ赤になった。
「先日は申し訳ありませんでした」
コーデリアは、そろりとサミュエルを上目遣いに見る。
サミュエルは真剣な顔をして、こちらを見つめていた。人生をかけて、彼女の出方をうかがっている。その顔が明らかに〝男性〟の顔をしているので、コーデリアは羞恥で転げまわりたくなった。
見慣れた小さなサミュエル、部下のサミュエルの顔ではない。
男性。異性。そのものだった。
その瞬間、コーデリアの中で何か新しい感情が噴出しそうになったが、彼女はそれに蓋をした。
「こちらこそ申し訳ありません。声を荒げてしまって」
あくまで、気持ちは受け取らない姿勢を貫く。すると彼の方から、思いがけない言葉を押し込まれた。
「私にとって、初めての恋でした。いつかお伝えしようと──」
コーデリアはびっくりして後ずさる。けれど、なぜだか今日はサミュエルから目を離せなくなってしまった。その瞳の瞬き、その手の動き、その唇から紡ぎ出される言葉全てに目を奪われる。物理的にも精神的にも逃げ場を失った彼女は、怒りをぶつけるように彼を問い詰めた。
「……そんなことを今言い出したのは、なぜ?夫を亡くして、弱っていると思われたからですか」
その言葉に、さすがのサミュエルもムッとする。
「違います。アシュトン様への忠誠心があったからです。その時は、奥様への気持ちは墓まで持って行こうと決めていました」
その強固な意志に、図らずもコーデリアは心を揺さぶられた。政略結婚でも、夫は夫。サミュエルに亡き夫への敬意があったことは、彼女にとって少なからず嬉しかった。
その気配を感じ取ったのか、思い詰めた表情でサミュエルは言った。
「……立ち話も何ですから、少し庭を歩きませんか」
彼は自分の前で、いつだって男の顔をする。きっともう二度と、あの頃の二人には戻れないのだろう。
「……はい」
たぶらかされている、と警戒する気持ちは、彼女から徐々に失せていた。
けれど。
(私……一体これから、どうしたいんだろう)
誰かの指示するままに生きて来たコーデリアには、そんなことを考えるのも初めてのことであった。
茶も菓子も伴わないまま、ふたりで初夏の庭を歩く。
花だけが、ふたりの様子を息をひそめて見つめていた。
コーデリアは、歩くたびにふつふつと彼への疑問が湧いて来る。
「あなたは、そろそろ結婚しないの?」
サミュエルは立ち止まると、ふふっと笑った。〝愚問だ〟とでも言うように。
「今は夢を見ています。コーデリア様と暮らす夢を」
隙あらば口説いて来るので、コーデリアは苦笑した。しかし、徐々にそれにも慣れて来ていた。
「また、そういうことを言うのね……私は今までもこれからも、ガスリー家で暮らして行くのよ」
「お言葉ですが奥様。アーサーもチェルシーも屋敷を出て行ったら、あなたはどうなりますか?」
気になっていた事を言い当てられ、コーデリアは言葉に詰まった。
「ガスリー伯爵夫妻と……一生、同居を?」
彼にそう続け様に問われると、コーデリアは負けじと強がりを言って見せた。
「ええ、それもいいわね」
「あなたもトライヴァル伯爵家の次女。多額の持参金を持って嫁いだはずですが」
「お金が何を保障してくれるの?必要なのは家と家の繋がりよ。特に貴族は信用が大事……」
「そのように教育されたのですね」
ずきんと彼女の胸が疼いた。
「私は、心を優先させて生きて行きたい」
そう言うと、振り返ってサミュエルは微笑む。その笑顔が眩しくて、コーデリアはうつむいた。
「私も騎士団や家制度に縛られていますから、心だけは自分らしくありたいのです。一時、気持ちを誤魔化してしまおうと努めたこともありますが、それでは自分の人生を生きたことにはならないと思い至りました。戦場を歩けば、尚のことそう思わざるを得ない」
軍人はその仕事に、文字通り、命を懸けている。コーデリアの心中はざわついた。
自分の甘さを突き付けられた気がしたのだ。
そう思った時。
「……あなたには分からないのよ。女が、どうやったら安寧に生きられるか」
口をついて、こんな言葉が出て来た。サミュエルは顔を曇らせる。
「男の人はいいわね、力があるし、職もあるから……でも私たち女には、何もない」
「コーデリア様……?」
「女が男性や家制度にすがるしかない日々が、どんなに不安かあなたには分からないのよ!」
コーデリアは、なぜ今更こんな言葉が自分の口をついて出たのか皆目分からなかった。けれどこの怒りは、こちらに好意を向けてくれるサミュエルの前だからこそ、曝け出せたのかも知れない──とも思う。
コーデリアは彼に背を向けると、目をぎゅっと瞑って逃げるように走り出す。
淑女とはかけ離れた醜態がそこにあった。