姉のような彼女
物心ついたときには、クリストファーの中には彼女がいた。
『おはよう、クリス』
彼女は一言でいうと神の消し忘れらしい。幼いころから顔も名前も知らない彼女がいるのが当たり前だったクリストファーは、皆心の中にそのような存在がいるのだと思っていた。
『クリス、私はね生まれる前の貴方なの』
前世。人は死ぬとまた別の誰かに生まれ変わる。本来なら前世で積み上げた記憶は、綺麗さっぱり消されるはずであったがどういうわけかクリストファーの場合残ってしまった。
例外的に残ってしまった自我は、まだ幼いクリストファーの自我をそのまま塗り潰そうとしてしまった。しかし彼女はそれを許さなかった。
生まれたばかりのクリストファーに比べて、強い自我をもつ彼女自身を消すのは難しい。だが、彼を残すことはできる。
彼女自身をクリストファーのもう一つの人格とし、主人格として幼い赤ん坊を守ったのだ。
『教育は大事よ。知識はなによりも貴方を守ってくれる』
勉強の連続でつい逃げてしまったクリストファーを諭すその口調は、まるで姉のようであった。
彼女は他にも色々なことを教えてくれた。勉強のことや人との接し方、些細なことや大事なことまでクリストファーは彼女が誰よりも自分の味方だと感じていた。
『確かに私は貴方の味方。でも私の言うことを全部鵜呑みにしちゃだめよ。私の生きた世界とクリスの生きている世界は文字通り違うのだから』
彼女が生きていた世界は、身分制というものがなくなったものらしい。誰もが教育を受けられるのだと聞いたとき、クリストファーは耳を疑った。
クリストファーが想像もつかないような世界で生きていた彼女、だからこそ自分が生きる世界で教えられたそれが正しいのかどうか見極めるべきだと彼女は言った。
心の中の彼女のおかげで、クリストファーは聡明な王子として名を馳せていた。その一方彼女は自分の名前も言わず、クリストファーに誰にも話させなかった。
『私は本来ならいないはずの存在、名前はないわ』
『私の存在が知られたら、貴方の地位が危なくなるかもしれない。誰にも知られたらダメよ』
どんなときもクリストファーを優先する彼女に、自分は何か返せるものはないかと思った。
そして彼女がないと言い張る名前をつけることにした。
「母上、エレノアの名前はどうやって決めたのですか?」
「あら、どうしたの急に」
「少し気になりまして」
「そうねぇ、エレノアは輝く、明るいって意味なのよ」
確かに妹は明るくて可愛らしい。まさに名前の通りといった性格だ。母の助言を参考にしてクリストファーは、彼女にもふさわしい名前を見つけることにした。
『おはよう、クリス』
(おはよう、フレイヤ)
本を読んだり、教師に聞いたりして見つけた名前で彼女を呼ぶと驚いたような気配を感じた。
不思議なことに顔がわからずとも、なんとなく感覚で彼女の感情がわかるのだ。
『…もしかして、私の名前?』
(そうだよ、気高い立派な女性という意味なんだ)
『なにかコソコソしていると思ったら…。プライベートは守るべきだと詮索はしなかったけど、そんなことしなくてよかったのに』
(僕にとってはそんなことじゃないんだ。君はいつも僕を助けてくれる)
安心できるはずの家であっても、王宮では全ての人間が信用できるわけではない。幾度となくあった暗殺や誘拐を、未然に防いでくれたのは彼女だ。
『馬鹿ね、貴方を守ることは私を守ることになるのよ。自分の身を守っているにすぎないわ』
(だとしても僕はフレイヤに感謝しているよ)
どことなく照れている様な気配を感じる。いつも自分を守ってくれていた姉のような存在が見せたふとした素顔に、クリストファーは自然と口が弧を描いた。
『…ありがとう、クリストファー』
多分、そんな長くはないです。