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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

転生聖女

永遠の誓いをあなたに

 波の穏やかな湾の内側にあるとはいえ、海のうえの筏は揺れる。

 筏のそのうえに建てられたナオたちの暮らす小屋は、ひっきりなしに寄せては返す波に揺られてちゃぷちゃぷと鳴っていた。


 とは言え、赤児のころから慣れ親しんだ音を今さら気にするでもなく、ナオは長い棒に尖った石をくくりつけた銛を片手に、海をにらみつける。


「……っし!」


 海中にひるがえる一瞬のきらめきを逃さず、突き出す動作と同時に細く息を吐いた。


 ざぱ、と引きあげた銛の先で踊る魚に、ナオは年相応のあどけない笑顔を見せる。はしゃぐ気持ちを表すように、伸ばしっぱなしの黒髪が揺れた。


「ロウー! 見て見て! とれたよー!」


 長い前髪に隠れた目元はうかがえないが、形の良いくちがうれしさを表している。

 喜びの声を向けるのは陸ではなく、海のさらに沖。

 ナオの声に反応するように、ぱしゃんと水しぶきがあがる。


 しぶきに続いて水面に現れたのは、黒髪の青年。

 眉の濃い、精悍な顔立ちをした彼が筏めがけて波をかきわける。


「ナオ、跳ねると危ない」


 ひた、と筏に手をかけた青年は揺れる筏に器用に登り、小言ついでに髪からしたたる水を海に散らす。

 その腰に巻かれた草の茎には、何匹もの魚がぶら下げられている。


 自分の捕らえた一匹と、青年の腰に下がる魚たちを見比べて、ナオはぷくりとほほをふくらませた。


「ロウ、あたしも潜りたい! 潜ればあたしだってもっと!」


 とがらせたくちびるをしょっぱい指につままれて、ナオの声が途切れる。

 ふたりだけの筏のうえで、ナオのくちびるをつまむのはロウ以外にいない。


「濡れちゃいけない。潜るのは俺の仕事。ナオには筏のうえでの仕事がある」


 海に潜るのは、食料を手に入れるため。ふたりが食べるためと、物々交換に使うための海の幸を得るために潜る。


 筏のうえでは、海の幸に加工をする。魚は傷みにくいように内臓を抜いて血を洗い、貝は割って中身を取り出す。そしてその日に食べる分と干して保存する分とに分ける。


 加工も大切な仕事だ。

 陸地に土地を持たない流民のナオとロウが暮らすのに、海の幸だけでは足りない。

 その不足を補うために干した魚や貝が必要なのだと、わかってはいる。


 けれど飲み込めない気持ちを抑えるために、ナオは自分の胸元を握りしめた。


「この痣さえ無ければ……」


 ぎゅう、とつかんだ服のしたには、忌々しい痣がある。

 十二年前、赤児だったナオを拾ったときにはすでにそこにあったと、ロウが語る痣だ。


 痣があったせいで捨てられたのか、捨てられてロウの元に流れ着くまでの間についた痣なのか、ナオにはわからない。

 けれど、その痣を晒すと良くないものを呼び寄せると語られながら育ってきた。


 痛くもかゆくもない赤い痣のせいで海に入ることを禁じられている状況に気持ちがささくれ立って、ナオは顔を歪めた。


「ナオ」


 強張るほほにロウの手がやさしく触れ、低い声が静かに耳をくすぐる。

 ゆっくりと顔をあげたナオと視線を絡めて、ロウが目を細めた。滅多に表情を変えないロウの笑顔に、ナオの胸がぎゅうっと熱くなる。


「俺とふたりで生きればいい。俺は海に出て、ナオの待つ筏に帰る。それでは嫌か?」

「……ううん」


 ゆるく振った頭ごとロウの広い胸に抱きこまれて、ナオはほっと身体の力を抜いた。

 ロウが海に出て、筏で待つナオを目指して帰ってくる。それは素晴らしい未来で、大切な今だ。

 これからもずっとその幸せが続くならば、多少の不満など数えるまでもない、とナオはロウの胸に顔を寄せた。 


 *****


 風がひどく騒ぐ。重く垂れこめた雲は今にも大粒の雨を降らせそうで、登っているはずの太陽を拝むことはできなかった。

 ナオがロウの腕のなかで眠ったその翌日。

 前日の穏やかな海は一転して、うねりぶつかり合って白波を散らしては、どうどうと鳴っている。


 ひどい荒れように、海のうえのちっぽけな筏はぎしぎしと軋み、不安な音を立てた。


「ロウ、筏がこわれちゃう」

「壊れたらまた作ればいい。俺から離れるな」


 あちらこちらのすき間から海のしぶきが漏れ入る小屋のなか、胡坐をかいたロウの膝に乗せられたナオは、たくましい腕に囲われる。

 おかげで身体が震えることはない。けれど万一、海に放り出されて離れ離れになってしまったら、と思うとナオの身体に力がこもる。


「ナオ、痣を」


 ふと、波がやわらいだ瞬間にロウが抱き込んだナオの身体を離した。

 拳ひとつぶんほど距離のできた身体の間で、ナオは言われるがまま服の胸元を引き下げる。


 現れたのは、奇妙な赤い痣。小刀で何度も切りつけたかのように細かな線で構成された痣が、ふた塊並んでいる。


 潮に荒れ、貧しさに痩せた胸にロウが顔を寄せる。

 自らの唇に犬歯を突き立て、ぷくりと盛り上がった血をなすりつけるように、痣に口づけた。


「ん……」


 一方の痣が血で隠されれば、もう一方へ唇を寄せる。

 ときおり胸元の薄い肉を食むのは傷口から血を押し出すためであったけれど、それはまるで愛撫のようだった。


 物心つく前から行われてきた毎朝の儀式。

 だというのに、このごろのナオは義兄が胸元に口づけるたび心臓がうるさく鳴るのだ。


「ロウ、もう……」


 もういいだろう、とかける声は変に弱弱しい。


「……ああ」


 ようやく顔をあげたロウが唇に残る血を指で拭うのを見ていられなくて、ナオは視線を逸らした。

 ついでのように、互いの身体の距離をさらに遠くする。


「ナオ、あまり離れるな」


 伸ばされた手をナオが避けたのは、羞恥にたまりかねてのことだった。

 けれど、それがいけなかった。


 ドォン!

 ひときわ強い波が突き上げるように筏を直撃し、打ち砕く。

 バラバラになった筏とともに、ナオとロウの身体も波にさらわれ引き離される。


「ナオっ」

「ロウ!」


 互いに伸ばした手が届いたのは、奇跡だったのか。

 けれど奇跡は続かず、ふたりの身体は波に呑まれた。


 うねる波に引きずり込まれ、突き上げられ、それでも腕のなかのナオを離さず、ロウは陸を目指す。

 海に投げ出された筏の破片に上半身を預け、陸へと焦る身体を波が沖へと引き戻し、ふたりは容赦なく翻弄される。


 そのせいで、ナオの胸元の痣を隠す血が流れてしまったと気が付いたときには、ロウの足に冷たい波が絡んでいた。


「海が、黒くなってる!」


 懸命に陸を目指すロウとナオの周囲に、黒い波が混じりだす。水の冷たさとは異なる冷ややかな波が絡まり、波の黒さがみるみる増していく。


「なに!? これ!」

「まずい、気づかれたっ」


 ロウが唸ったとき、黒い波間を裂くようにして背びれがぬぅっと現れた。

 ずるずると伸びあがる背びれが、海上をただようふたりにゆっくり近づいていく。

 銛を手にしていたなら突き刺せただろう、それほどの距離にまで近づいた巨大な背びれがぬらぬらと光る。見る者の神経を逆なでする薄気味の悪さだ。


「泳げ、ナオ!」


 恐怖に固まるナオの背に、ロウが覆いかぶる。筏の破片を浮きにしたロウは、ナオを腕の間に庇いながら波を蹴った。

 その足の指先をかすめるように、気味の悪いひれの持ち主が鼻先をもたげる。


「なんなの、あれ……」


 ぞおっと波を引きつれて海上に姿を現したのは、巨大な海獣だった。

 灰色にざらつく皮膚に覆われた丸々とした身体の海獣は、その背に巨大なひれを持っている。

 ナオたちの筏よりよほど大きく、その巨体の半分近くまで口が裂けた異様さ。


 ひとふたりくらいひとくちで飲み込んでしまえるであろう口のなかには、刃物のようにとがった牙がびっしりと並んでいる。


訃渦(フカ)だ……」


 ロウがつぶやいた。

 あれに噛まれればやせ細ったナオの身体など、ひと噛みで砕けてしまうだろう。そう思ったとき、白目のない瞳がぐるりと動いてナオを捉えた。


「ひっ」


 息を飲んだナオは、けれど悲鳴をあげることはできなかった。

 どぷりと黒い波間に沈んだ巨体が、ナオの足裏を撫でていったのだ。


 いつ食ってやろう。

 そう言っているかのように、訃渦はふたりの周りをゆったりと回る。


 ぬたり、ぬたりとかき回される波が、懸命に泳ぐロウの身体を翻弄する。


「くそっ、進まない!」


 悪態をつくロウを助けようと、彼の腕に囲まれながらナオも水を蹴った。

 けれど、はじめて浸かった海は冷たく、波がまとわりついた身体はひどく重たい。


 そのうえ、いたぶるようにふたりの身体にひれをすりつけて泳ぐ海獣が、負けまいと抗う心を弱らせていく。


 いくらもしないうちに、ナオのか細い手足は動く気力を失くして波に揺さぶられるままになった。今や、その身体が海中に消えないよう引き留めているのはロウの腕だけ。


「……ロウ、行って」


 朦朧としはじめた意識のなか、ナオはつぶやいた。


「なにを!」


 途端に眉を吊り上げ自分のために怒ってくれるロウに、ナオが弱弱しく笑いかける。


「あれは、あたしを狙ってるんでしょ。だったら、ロウはあたしを置いて」

「嫌だ」


 皆まで言わせず、ロウがはっきりと言った。

 打ち付ける波にも負けない、強い声だった。


「ナオは俺が海で拾ったとき、泣いたんだ。俺の腕のなかで泣いて、生まれたんだ。だから、ナオは俺のものなんだ」


 ぎり、と歯をくいしばりロウが波をこぐ。嘲るように浮き沈みして姿を見せてはまたもぐる訃渦をにらみ、陸を目指す。


「手放すわけ、ない」

「ロウ……」


 ロウの決意は固く、その目に宿る光は生を諦めていない。

 けれど、それさえ口散らかしてやらんとばかりに、大きく開いた訃渦の顎が耳元をかすめる。


 がちんっと鳴ったのは鋭い歯がぶつかり合う音か。

 いよいよ死を覚悟したナオが、ロウの首筋に顔を埋めて目を閉じようとした、そのとき。


「これにつかまれ!」


 吹きつける風を切り裂いて、飛来したのは石を括り付けた縄。

 いつしか水面を打ち付けはじめた雨と荒れる波しぶきの向こう、ちらりと見えた縄の先を握るのは、村の隅に住む赤毛の男だ。


「アカが、どうして……」


 困ったときに助け合うような仲でもない相手の姿に戸惑うナオをよそに、ロウは投げ入れられた縄をしっかとつかむ。


「引いてくれ!」

「おう!」


 短いやり取りのあと、ふたりの身体が波に逆らい、陸へと引かれていく。波に翻弄されながら泳いでいたときとは明らかに違う、ぐんぐんと引き寄せられる力が頼もしい。


 助かるかもしれない。


 ナオが抱いた希望を打ち砕こうとするように、真後ろで訃渦が口を開けた。ロウの肩越しに開かれた口のなかを直視してしまったナオが固まる。


「ひぃっ」

「こ、のっ!」


 引きつった悲鳴を聞いたロウが、波を蹴る脚を横に薙いだ。

 その脚は、今まさに食いちぎろうと迫っていた訃渦の目を直撃した。


 びくんっと巨体をくねらせて、訃渦が遠ざかる。


「離すな、離すなよ!」


 アカの声の近さで陸がもうすぐそこだと知った。

 だというのに、諦めてほしい、と願うナオの願いもむなしく、訃渦が再びふたりに迫る。

 先ほどまでの獲物をいたぶるような動きから一転、俊敏な泳ぎで迫る訃渦の黒い目は、怒りに染まっているようだった。


「ああっ」


 眼前に迫る死を覚悟して、ナオがロウにしがみつき、固く目を閉じたとき。

 ぐんっ、と一層強く引かれた縄が、ふたりの身体を海から引き揚げた。勢いで宙に舞ったふたりの足元に、訃渦が踊り出る。


 顎を限界まで開ききり、牙を剥きだしてナオとロウを食らわんとする訃渦の牙は、ロウの左脚をかすめて、閉じた。


 ナオたちが地上に投げ出されるのと、ざばん、と訃渦が波間に落ちる音が響いたのは同時だった。


「無事か!」


 雨のなか、駆け寄ってくるアカは転んだのか泥にまみれ、ぐっしょりと濡れ、ひどいありさまだ。


「ナオ、ナオ!」


 脚から血を流すロウにかき抱かれ、ナオはその身体にすがりつく。

 駆け付けたアカが傷口を布で縛り付けるのも気にならないのか、ロウはナオの身体を強く抱きしめて息を吐いた。


「ああ、良かった。ナオ、ナオ……」

「ロウ、生きてた。あたしたち、生き延びられた」


 喜びに涙を流すナオの顔を覗き込んで、ロウが微笑む。


「ナオ、俺のナオ。もう離さない。ずっと、ずっと、俺たちは死ぬまでいっしょだ」

「うん、ロウ。うん、うん……」


 むせび泣き笑い合うふたりの頭上では、垂れこめる雲のわずかなすき間から光が射しはじめていた。

訃渦フカのシーンのBGMは、デーンデン、でお願いします!

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― 新着の感想 ―
[良い点] 二人の関係が尊い……! 日常から溢れる二人の関係の温かさ、そして嵐のシーンでの臨場感、どれも素晴らしかったです! 自分でテーマを出しておきながら、まさかこのような作品に仕上がるとは思って…
[良い点] 流れるよう文章がとても美しいです。話の雰囲気と文体が非常にマッチしていて、読んでいて気持ちよさを感じました。 筏で暮らすってどういうことだーと思っていたらちょっと色っぽいシーンをはさみつ…
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