65.前王太子アドリアンはさすがに少しは学習する
「私、あなたのことが好きです。はじめてお逢いしたときから、ずっとお慕いしていました! だから、その、せめて、お名前を教えて下さいっ」
そう言われたアドリアンは、顔を引きつらせて後ずさった。
(なんだ、この女…いきなり……はっ、これもまた誰かの罠なのか!?)
さすがにマリエッタとの一件が巻き起こした影響は、強烈な「体験学習」として脳裏に刻まれていた。
(『知り合って間もなく、露骨に好意を見せてくる女は危険』)
それがマリエッタ事件からアドリアンが得た教訓であった。
おおむね正しい。
(そもそも名前を教えろ、だと? 王都にいる貴族の令嬢が私の顔を知らないなどあり得ないだろう!)
そういえばマリエッタも、初めて会った舞踏会の夜、アドリアンが王太子だということを知って大袈裟に驚き、恐縮してみせていた。
あの時は、彼女のまぶしいものを見上げるような崇拝の視線にすっかり気を良くして、気を許してしまったのだった。
目の前の少女は、いかにも社交界にデビューしたばかりといったような初々しい風情だった。
淡い金色の瞳と青い瞳が誰かを思い起こさせる。
光を集めたようなふんわりとした巻き毛と、くるっとした丸い瞳が愛らしい。
だが、こういうタイプこそが危険なのだ。
(これは関わらないに限る)
そう決めると、アドリアンは
「いや、私は名乗るほどのものではないので」
とそっけなく言って、踵を返した。
「あ、お待ち下さい」
「悪いが、急ぐので失礼する」
怪我した足を引きずりながら、少女の方を振り返らずに歩き出す。
愛の告白(?)をしたあとで、こんな態度をとられたら普通の令嬢ならば恥ずかしさにいたたまれずに涙ぐみ、その場を立ち去るはずだ。
だが、少女は怯んだ様子もなくアドリアンのあとをついてくる。
「まあ。ではまた日を改めて伺います。お名前を教えて下さい」
(しつこい…! ますます怪しい)
そもそもこんな人気のない場所に、貴族の令嬢が供も連れずに一人でいるのがおかしい。
そう言えば、出会った日のマリエッタもそうだった。
舞踏会の場に供がいないのは当然としても、あれだけ愛らしく、親しみやすく、優しげな令嬢に一緒にいる友人の一人もいなかったことが今から思い返せばおかしかったのだ。
(と、なると先日あの熊のような犬をけしかけたのも私に近づくための口実か。あの日から私に近づく機会を虎視眈々と狙っていたのか)
そう言えばあの時もこの女は自分の目の前に忽然と現れた。
ずっと見張られていたのかもしれない。
アドリアンは背筋がさっと冷えるのを感じた。
(あの獣をけしかけたのも、私に怪我を負わせたうえで助けて恩を売ろうとしたのかもしれぬ。なんと周到で悪辣な…っ)
もともと思い込みの激しい性格である。
だからこそ、短期間でマリエッタにあれだけのめり込んだのだ。
そして、取り返しのつかない失策をおかした。
(今度という今度は騙されん。そうだ。今度こそ毅然とした態度で追い返してやる)
アドリアンは足を止め、少女をまっすぐに見た。
「いい加減にしてくれないか」
「え?」
「君は本当に私が誰か知らないというのか」
「はい…ですから先ほどからお名前を伺っています」
(しらじらしい…なまじ愛らしい顔をしている分腹が立つ)
「ならば教えよう。私の名は、アドリアン・クラウス・シュトラウス。まさかこの姓に聞き覚えがないとは申すまいな」
アドリアンが精一杯の威厳をこめておごそかに告げると、少女の大きな瞳がゆっくりと見開かれた。
「アドリアン……シュトラウス……え、ええっ!!」
両手を口元にあてて飛び上がり、そのまま恐縮しきったように身を縮める。
「お、王太子殿下! わ、私、なんという失礼を…っ」
おろおろと膝を屈め、貴族の令嬢のする最上級の礼をとるのを、アドリアンは冷ややかに見降ろした。
「私はもう王太子ではない。そのようなことを軽々しく口にすれば、現王太子殿下に対する不敬にあたる。それとも、おまえは私が現王太子に叛意を抱いているという嫌疑をかけようとして、わざわざ私にそんな呼びかけ方をするのか!」
言っているうちに、自分の言葉に刺激されて次第に感情が昂ってくる。
そうだ。そもそも、よりにもよって、新王太子の立太子の儀が行われたばかりのこの夜に、こんな女が狙いすましたように自分に近づいてきたのがおかしいではないか。
貴族の中には、アドリアンに対する国王の措置を「甘すぎる」「将来に禍根を残すのでは」と不満に思っているものもいると聞いている。
そのうちの誰かが、自分を再び陥れ、今度こそ完全に王家から排除してやろうと目論んだとしても不思議はない。
一度その考えが頭をよぎると、そうとしか考えられなくなった。
「そもそもおまえは誰だ! 王都に住むその年頃の子女が私の顔を見知らぬなどあり得ぬ。それを知らぬふりをして何故、私に近づいた。何を企んでいる!」
「企むなど…私は本当に、最近まで父の領地で暮らしていて、王都に上がったのも最近で…殿下のことは肖像画や、学院の中で遠目で拝見したことはあったのですが、このような間近で拝謁するのは初めてで……」
その言い分も、おろおろと涙ぐむ頼りなげなさまも、すべてがマリエッタを思い起こさせる。
(そうだ。マリエッタも、事あるごとに領地から王都に上がったばかりで何も知らないと言っていた。それを真に受けて、宮廷のしきたりや作法を知らぬことも、そういうものかと見逃していた自分の、なんと愚かだったことか…)
そしてまた似たような手口で罠を仕掛けられるとは、なんと甘くみられたものか。
ここで下手に寛容な態度を示せば、
「アドリアン王子は周囲のものにいまだに王太子殿下と呼ぶよう命じている。王位への野心を捨ててはいないようだ」
などといいう噂をたてられかねない。
どうみてもまだ十代前半にしか見えない少女を相手に、気が引けないではなかったが、ここで毅然とした態度をとらねばわが身の破滅だ。
アドリアンは精一杯険しい顔をして少女を睨みつけた。
「もういい。誰に命じられたのか知らぬが、このような子どもを使って誑かそうとは見くびられたものだ。今、立ち去ればおまえの罪までは問わぬ。さっさと立ち去るがいい」
「そんな…」
少女はさっと青ざめると、大きな瞳にたちまち涙を溢れさせた。
「無礼は幾重にもお詫び申し上げます。でも…でも、企むとか、誑かすとか…何を仰っておられるのでしょう? 私はただ…」
「ええい、もういい。聞きたくない。それ以上しつこくするなら衛兵を呼ぶぞ!!」
縋るような視線を断ち切るようにさっと腕を振る。
「ひどい…」
少女はその場で泣き出した。
「泣き崩れる」というような儚げな表現は相応しくない、ぺたりとその場に座り込み、うわあん、と声を放って泣くという派手な泣き方だった。
アドリアンはさすがに怯んだ。
「お、おい…」
(この子どもじみた振る舞いも計算のうちなのか? いや、それにしても色仕掛けで取り入ろうというのにこの色気もなにもないやり方は…)
その間も少女は、天を仰いでわんわんと泣いている。
途方に暮れてそれを眺めていたその時、うなじの毛が逆立つような悪寒が全身を貫いた。
思わず振り向いたアドリアンの目に、凄まじい形相でこちらへ走って来る男の姿が映る。
(!?)
「☆◎&$%★×△〒◇ーーーーーーー!!!!」
獣の咆哮のような叫び声が、近づいてくるにつれ、
「貴様ーーーーーエルマに何をしたーーーーーー!!!!」
と言っている、というのをアドリアンが理解したのと、その男──エルマの父・フランツに渾身のラリアットをくらって仰向けにひっくり返ったのは、ほぼ同時だった。




