60.婚約破棄された公爵令嬢は初恋を叶えた!
絶句するアマーリアとエルマを見て、アマーリアの母のメリンダがはあっと溜息をついた。
「ほら、あなた。いい加減になさって下さい。リアのお支度も終わってしまったではありませんか。出席者の皆さんももう神殿の方でお待ちなのですよ。しっかりして下さいな」
クレヴィング公爵は、その厳つい顔をくしゃくしゃにして恨めしそうに妻を見上げた。
「分かっておる。分かっておるが……今日を境にわしのリアが屋敷を出て二度と再び一緒に暮らせる日が来ないと思うと」
「何を大袈裟な。他国へ嫁がせるわけでもありませんし、いつでも会えるではありませんか」
「そなたには分からぬ。小さな可愛い娘がよその男のものになって自分の懐から永久に奪い去られてしまう父親の悲しみなど、女親のそなたには……」
「ええ、ええ。分かりませんよ。私もソアラもそうやって生まれ育った生家を出て今の家で暮らしているんですから。それでも私はとても幸せですわ。リアもきっとそうなります」
メリンダがそういう側から、フランツが兄に劣らない泣き崩した顔で口を挟んだ。
「おお、兄上。わしには兄上のお気持ちがようく分かりますぞ。娘は父親にとって命そのものだ。その命をむざむざ取り上げられると知って、どうして平然としておられようか」
「フランツさまは少し黙っていて下さいな。だいたいどうしてあなたまでそんなに泣いていらっしゃるのですか」
「わしにも命にも代えがたいエルマという娘がおる。もし、万が一エルマがこのような日を迎えるかもしれぬと思うと、兄上のお気持ちに寄り添わんではおられぬのです。義姉上」
「お二人ともいい加減になさって下さい。今日はリアのおめでたい門出なのですよ。それをそんな風に奪い去られるだの、取り上げられるだの、ラルフさまに失礼ですわ」
メリンダはそう言って、アマーリアの方に向き直った。
「まあ、リア。綺麗だこと。まるで花の女神のようだわ。ほら、あなたもフランツさまもご覧になって」
そう言われて顔を上げたクレヴィング公爵はアマーリアの姿を見るやいなや、うっと声を詰まらせてまた激しく泣き出した。
アマーリアは慌てて父に駆け寄った。
「お父さま、そんなにお泣きにならないで。嫁いだとしてもまたいつでも会えるのですから」
「そうは言っても嫁いでしまえばそなたはクルーガー伯爵家の者になり、アマーリア・クレヴィングではなくなってしまうではないか」
「たとえ姓がかわってもリアはずっとお父さまの娘ですわ」
「おお、アマーリア……わしの愛しい、小さな姫」
アマーリアを抱きしめようとする公爵を、メリンダが背後から
「おやめください! リアのドレスと髪が乱れてしまいます!!」
と叱りつけて引き戻す。
「まだグズグズ仰ってるんですか。父上。それ以上ごねるのなら俺が代役をつとめますよ」
そこへやって来たヴィクトールが呆れ顔で言った。
公爵はいまいましげに息子をにらみつけた。
「何をえらそうに。おまえにもそのうちに嫌というほど分かるわ。ミュリエルが嫁ぐ時にな!」
「そんな心配は無用です。ミュルエルは俺の一人娘ですからね。どこにも誰にもやりません」
胸を張っていうヴィクトールに、公爵がムキになって言い返す。
「一人娘だとて、いずれは婿を取らねばならんだろうが!」
「ミュリーを妻にしたければ、剣術、槍術、馬術、すべてにおいて俺を打ち負かせるほどの相手というのが条件です。そして俺は当分、誰にも負けません!!」
きっぱりと言い切るヴィクトールを見て、ミュリエルを抱いてついてきていたソアラが溜息をつきながら、メリンダに言った。
「毎日欠かさずに鍛錬に励んでいるのはそのためらしいんです……」
「あなたにも苦労をかけるわね、ソアラ」
「いえ。私はお義母さまに色々と教えていただいて、助けていただいていますから、お義母さまが嫁いで来られた頃のご苦労を思えば……」
「そうねえ。あの人も若い頃は今よりももっと血気盛んだったから……」
強烈過ぎるクレヴィング家の血筋に協力して立ち向かわなければ日常生活がままならない為、クレヴィング公爵家の嫁、姑の関係はいたって良好だった。
「ほら、ミュリエル。リア姉さまにお祝いを言って」
ソアラが腕の中の娘をおろして言った。
「はい。おかあさま。リアねえさま、おめでとうございます!」
「まあ、ありがとう。ミュリエル」
アマーリアは微笑んで、淡いピンクのドレスと花冠でおめかししているミュリエルに手を差し伸べた。
「リア姉さま、とってもきれい。プリンセスみたい」
「ミュリエルこそ、とっても可愛いわ」
母のソアラに言い含められていたミュリエルは、祖父の公爵に歩み寄ってその頭を撫でた。
「おじいちゃま、いいこ、いいこ。なかないで。おじいちゃまにはミュリーがいるでしょう?」
「うう……ミュリエル……」
「きょうはリアねえさまのおめでとうの日だから、おじいちゃま、ないちゃだめ!」
「そうだな……わしにはまだ可愛いミュリーがおるな」
「そうよ。だからおじいちゃま、お式でのおしごとがんばってね」
「おおお、ミュリー……なんと優しくて可愛らしいのだ」
「お、お義父さま、頬ずりはちょっと……ミュリーの髪飾りが……っ」
「そうですわ。あなた。それに本当にもうお時間が!」
ソアラが慌ててミュリエルを抱き上げ、泣きながら縋ろうとする公爵をメリンダが引き戻す。
アマーリアがすかさず父公爵の手を取った。
「お父さま。リアはやはりこの生涯一度の大切な日、お父さまに手をとっていただいてお式に臨みたいです」
「おお、そうか。そうだな。おまえの大切な日だ。ヴィクトールなどにはまかせておけん」
涙を拭きながら言う公爵にヴィクトールが苦笑しながら言う。
「本当に大丈夫ですか? 泣き過ぎて足腰立たないんじゃないですか? 祭壇の前で転んだらいい笑い者ですよ」
「馬鹿者! わしを誰だと思うておる。誰がそんな醜態を晒すものか!」
そう言うと公爵は、
「リア、少し待っていてくれ。顔を洗ってくるから」
と言い置くと、にわかにキビキビとした足取りを取り戻して控室の方に歩いていった。
「おおお、兄上。ご立派です。なんと勇敢な……なんと気高い……」
あとに残されたフランツは、兄の心中を思いやってかまだ泣いている。
「ほら、叔父上も顔を洗ってきて下さいよ。冬眠しそびれて荒れている灰色熊みたいな顔になってますよ」
ヴィクトールが促す。
「ううう……ヴィクトール、そなたは冬眠しそびれた灰色熊に知り合いでもおるのか……」
「ものの例えですよ。ほら、涙を拭いて、タイも曲がってる」
「うう、ヴィクトール。優しいな。そなたは」
「いいからしゃんとして下さいよ。うわあ、もう抱きつかないで下さい」
「ううう、リアが嫁いでも兄上にはミュリエルがおるがわしには誰にもおらん! わしは一人ぼっちになってしまう! どうしたらいいんだ、ヴィクトール!!」
「知りませんよ!」
「もう、そなたでいい! ヴィクトール、この哀れな年老いた叔父を一人にせんでくれ!」
「痛い痛い痛い! それだけ力があればまだ哀れでも年老いてもいませんよ! だいたいなんでエルマのかわりが俺なんですか。ジャンルが違い過ぎるでしょう」
「お父様、しっかりなさって」
「おお、エルマ……エルマああああ!!!」
「きゃあああ! しがみつかないで下さい! ドレスに涙と鼻水がついちゃう!!」
エルマに渾身の力で突き飛ばされたフランツが床に思いっきり転がる。
「これは……エルマの時が思いやられるわね……」
アンジェリカがこっそりとミレディに囁く。
「ちょっと先だけどミュリエルの時もね。いざとなったらエリックさまやクレイグ兄さまにも出動をお願いしないといけないかも……」
ミレディも苦笑まじりに頷く。
そんな波乱の末に、なんとか無事に結婚式は始まった。
神殿付きの楽隊の奏でる厳かな音楽の流れるなか、父公爵に手をとられてアマーリアは進む。
それを祭壇の前で待ち受けるラルフは、こちらもルノリア渾身の作品の、黒地に銀の縁取りの刺繍を施した丈の長い上着に、膝まである黒の革のブーツという華やかな礼装姿である。
肩から腰に斜めにかけた青と白の懸章には、クルーガー伯爵家の白馬の紋章が燦然と輝いている。
過日の事件のあと、妻の不始末の責任をとって爵位の返上を申し出た父のハンスにかわってラルフは正式にクルーガー伯爵の地位を継承していた。
異母弟のレイフォードは、特に罪に加担したわけではなかったがザイフリート家のルーカスとしばらく行動をともにしていたこともあって、しばらくの間は、謹慎の上、監視を受けることになっていた。
その伯爵という地位をもってしてもまだ、この縁組は自分には身に余る幸せだ。
かねてから感じていた想いを、父公爵のエスコートをうけて神殿に入ってきたアマーリアを見た瞬間、ラルフはよりいっそう強く感じた。
純白のウェディングドレスをまとったアマーリアは、まるでたった今天から降りてきた女神のように美しかった。
それまでもアマーリアのことを可愛らしい女性だとは思っていた。
だが新進気鋭のデザイナー、ルノリア・オリアーノが持てる技術と情熱のすべてを注ぎ込んで作り上げたドレスに身を包んだアマーリアの気高さ、美しさはまるで一幅の絵画のようだった。
(この女性が、今日から俺の妻になるのか)
そう思うと、空恐ろしいような気さえした。
だが、そんな気持ちもアマーリアが自分の横に並び、ヴェール越しにこちらを見上げた顔をみた瞬間、瞬く間に消え去った。
一点の曇りもない信頼とひたむきな愛情がそこには溢れていた。
アマーリアが自分にずっと向け続けてくれていたこの視線。
それにこたえたいとラルフは心から思った。
神殿長が祭壇の前に現れ、厳かに式が始まった。
数ヶ月前の夜。
思いがけない婚約破棄宣言から始まった突撃令嬢の初恋は、今こうして幸福な実を結ぼうとしていた。




