37. 継母エリザベートの妄執
「もうやめてくれ。エリザベート。そんな話はもう聞きたくない!」
国王シュトラウス二世──その時はまだ王太子だったヴェルナー・シュトラウスがその温かな茶褐色の瞳を悲しげに曇らせてそう言った日をエリザベートは今でも忘れられない。
王太子の婚約者となることが内定していたパメラ・クレヴィングがこともあろうに庭師の男と駆け落ちした直後のことだ。
パメラを愛していたヴェルナーの憔悴ぶりは傍目にも痛ましいものだったが、それはエリザベートにとっては願ってもない好機だった。
パメラにかわって王太子妃の座につけるのは、同じ四大公爵家の令嬢である自分以外にいない。
そう思ったエリザベートは次の日から王太子ヴェルナーの側に張り付き、自分の魅力を精一杯アピールした。
自分がいかに昔から彼のことを慕っていたかを切々と訴える一方で、パメラのしでかしたことが、いかに王家を馬鹿にしきった不敬で不遜で、恥知らずな行為なのかということを繰り返し語った。
その結果、ヴェルナーからかえってきたのが冒頭の台詞だったというわけだ。
「これ以上パメラを悪く言うのはやめてくれ。彼女は僕を選ばなかった。だがそれだけだ。僕は彼女が愛する人と幸せになってくれるよう祈っている。そんな風に醜い言葉で人を悪しざまに罵るのはもうよせ。聞いているだけで耳が爛れそうだ」
エリザベートは茫然と立ち尽くすしかなかった。
それ以降、ヴェルナー王太子はあからさまにエリザベートを避けた。
学院内で挨拶をしても、丁寧な会釈がかえってくるだけでそれ以上、話しかけることは許されない雰囲気だった。
数か月後。
ヴェルナーの婚約が発表された。
相手は王族の血を引く家系の現王妃クラウスだった。
パメラを失って悲しむヴェルナーに、ただひたすら黙って寄り添い慰め続けたのがきっかけで彼の心をとらえたとのことだった。
その後のエリザベートは、「自分は本来ならば王妃になるはずだった」との思いから縁談を片端から断り続けた。
そうでなくとも、次期国王である王太子に疎まれているという評判の令嬢にあえて求婚しようとする高位貴族の子息は少なかった。
気づいたときには嫁き遅れ、父公爵のつてと権威で、人のいいクルーガー伯爵の後妻として押しつけられるようにして嫁ぐほか道がなくなっていた。
(それもこれも全部クレヴィング家のせいなんだわ)
先日、謝罪と称して訪れた際のクレヴィング家の面々の顔を思い出してエリザベートは顔を歪めた。
思い出すのも腹が立つあのヴォルトブルク伯は論外だとしても、あのラルフの婚約者のアマーリアとかいう娘。
あの淡い金色の髪と藍色の瞳。
ラルフをかばってエリザベートの前に立ちはだかり一歩も引かない気概で睨みつけてきたあの気の強さ、自分は少しも間違っていないとでもいいたげな高慢さは、あのパメラ・クレヴィングにそっくりだった。
叔母と姪なのだから似ているのは当然だろうが、その因縁あるパメラの姪が今また、自分と愛するレイフォードの前に立ちはだかろうとしていると思うと許せなかった。
居間に足を踏み入れたエリザベートは、室内を一瞥して顔をしかめた。
部屋のなかが、雑然としている。
暖炉の上の飾り皿は埃を払うときに動かしたのか、不揃いな向きに並んでいるし、ソファのクッションは潰れたまま。
飾り窓の上の鉢植えのまわりには枯れた葉が落ちてそのままになっていた。
今朝の朝食の席ではフルーツに添えられたクリームが十分泡立てられていなかったし、昨晩の夕飯では果実酒が冷えていなかった。
エリザベートは、声高に侍女頭を呼びたてた。
しばらくして、やってきた侍女頭は不満そうな顔で「人手が足りないのです」と口答えをした。
「奥様が急に何人も辞めさせてしまったので」
「もういいわ! 今言いつけた仕事をすぐにしなさい!!」
エリザベートはヒステリックに叫んだ。
ラルフが絶縁宣言をした日の直後、エリザベートは前々からラルフに好意的だった執事のバートラムと侍女頭だったクララに暇を言い渡した。
二人はあっさりと承諾し、それから数日後には荷物をまとめてこの屋敷を出て行った。
バートラムは沈黙を貫いていたが、クララの方は去り際に、
「ちょうどこちらからお暇を願い出るところでした。ラルフさまが二度とお戻りでないこちらのお屋敷にいても仕方ありませんので」
と捨てセリフを吐いていった。
腹を立てて、今後どこの屋敷でも二人を雇う者がいないように紹介状も渡さず、それどころか悪評をまき散らしてやろうと思ったが、それを命じられた使用人は、言いづらそうに、すでに二人はクレヴィング家に雇われることが決まっているのだと言った。
なんでもクレヴィング公爵夫人から直々に、ぜひ我が屋敷に来ていただきたいとの要請があったというのだ。
それを告げた使用人は明らかに羨ましそうだった。
(どこまでも忌々しいクレヴィング家。それならそれで構わないわ。実家にいって、あんな者たちよりもっと質のいい使用人を10人でも20人でも寄越して貰うから)
そう思って実家に手紙を書くと、しばらくして兄のニコラスが直々にこの屋敷にやってきた。
嫁いで以来、兄の方から訪ねてくるのは初めてだった。
ここぞとばかりにクレヴィング家から受けた無礼な仕打ちの数々を訴えたのだが、兄はうんざりした様子を隠さずに、
「その差し出口を陛下に疎まれたというのにまだ懲りないのか、おまえは」
と言い放った。
「だって、あまりに人を馬鹿にした酷い仕打ちではありませんか。お兄様は私たちがクレヴィング家に侮辱されたままでもよいと仰るのですか? レイフォードはお兄様には甥ではございませんか!」
「甥であると思えばこそ忠告にやってきたのだ。
良いか? 間違っても、夫をせっついて無理矢理に爵位を我が子に継がせようなどとは思うなよ。
国王陛下はそなたの気性をよくご存じだ。
クレヴィング公爵家の婿となった嫡男を差し置いて、たった十五の次男に爵位を継がせたりしようものなら、おまえの仕業だと思ってさぞや不快に思われるだろうよ。
そんなことになれば我がザイフリート家の名誉にも関わる。
そなたはカタリーナの叔母──未来の王妃の叔母なのだ。
くれぐれも、くだらぬ真似はしてくれるな。今日はそれを言いにきた」
冷ややかな口調で言うだけ言うとニコラスは、さっさと帰ってしまった。
あとに残されたエリザベートは、これまでさんざん自分の権威の象徴として持ち出してきた実家のザイフリート家が、もう自分のためには何もしてくれないことを悟った。
エリザベートの胸に激しい屈辱と怒りと憎しみが嵐のように吹き荒れた。
(何故!? どうしてこんなことになってしまったの!)
黒い感情の波に翻弄された末にエリザベートの脳裏に浮かんだのは、
(すべてはラルフが悪い)
との結論だった。
確かに、いつだって自分の前に立ちはだかって邪魔をするクレヴィング家は憎い。
しかし、そのクレヴィング家と再び関わりを持たなくてはならなくなったのは、ラルフがアマーリアと婚約したからだ。
それさえなければ、たとえアマーリアが王妃となり外の世界ではクレヴィング家が権勢を振るったとしても、この屋敷の中では自分は今まで通り、公爵家出身の女主人として威厳と権威を保って、快適に過ごせていたはずだ。
ラルフさえいなければ……。
いえ、ラルフがアマーリアと婚約してさえいなければ、こんなことにはならなかったのに。
ラルフとアマーリアを別れさせることが出来れば……。
クレヴィング家の後ろ盾がなければラルフなど、ただの無力な一人の青年に過ぎないのに。
エリザベートは、ラルフが今手にしている幸せを壊してやりたいという思いに取りつかれて過ごした。
それから数日後。セオドールと名乗る男が屋敷を訪ねてきた。
「イルス男爵令嬢からのお手紙を預かって参りました」
普段ならば、男爵家風情からの手紙など見もせずに放っておくのだが、差出人の名前が気になった。
「イルス男爵令嬢?」
どこかで聞いたことがある、と思って記憶を辿ったエリザベートは思わず、あっと声をあげた。
イルス男爵令嬢とは、前王太子アドリアンが廃位に追い込まれる原因となった女ではないか。
本来ならば重罪に処されるところを、被害者であるクレヴィング公爵家がアマーリアの新たな縁談の前にあまり事を荒立てたくないということで神殿での奉仕活動という処分にとどめられ、ゆくゆくは王籍を剥奪されたアドリアンの妻となることが内々に許されたとの噂を聞いていた。
そんな女が自分に何の用なのだろう。
マリエッタの手紙を開いたエリザベートの目が驚きに見開かれた。
読み進むうちに、その口元にゆっくりと笑みが浮かぶ。
エリザベートは手紙から顔を上げた。
「セオドールと言いましたか。あなたはイルス男爵令嬢の……」
「は。側近としてお仕えさせていただいております」
「そう。……奥の部屋へどうぞ。お手紙の内容について、もう少し詳しくお話を伺いたいわ」
「承知いたしました」
エリザベートが人払いをした客間の中からは、低い声で何やら相談する声がそれから長い時間聞こえていた。




