格好
法陣で飛ばされた場所は、貧民地区だった。ここがヘーゼンが指定し、転送した場所である。
刺客への狙撃防止のため、外に転移する場所は指定地内の無作為で選ばれる。
この場所はその中でも、生活環境が劣悪な住宅街だ。イルナスは思わず鼻を抑えるが、ヤンは若干の腐臭と濡れた獣の匂いが懐かしい。大きく深呼吸した後、彼女は目の前にいる少年の姿を眺める。
「まずはその格好をなんとかしなくちゃいけませんね」
「格好? これは、ヘーゼンが用意してくれたが」
「師は生粋の貴族ですからね。わかってないんですよ生粋の平民を。多少付き合いはあっても、富裕層や神官がほとんどなんです。ここ、貧民地区ではイルナス皇……様のお姿は綺麗過ぎます」
いや、むしろ可愛すぎる、とヤンは心の中でつぶやく。もともと孤児院出身で子どもの世話が大好きな黒髪少女は、目の前にいる美童子をナデナデしたくて仕方がない。
「……見ててください。こうやって、ゴロゴロするんです」
「そ、そなた豪快だな」
イルナスは地面に転がる黒髪少女の姿をマジマジと見つめる。汚れることにまったく抵抗がない。いや、むしろ楽しんでいるようすら見える。
これが……平民か、と元皇子はよくわからない感心をした。
しかし、もたもたする訳にはいかない。イルナスもヤンを真似て、地面にゴロゴロと転がった。
「うーむ……まだ、駄目ですね。イルナス様の高貴さが全然隠れてないですよ。髪だって、ほら。こんなにサラサラだし…………なんて柔らかい髪の毛でしょう……はふぅ」
「そ、そなた……なですぎではないか?」
思いきりドン引きされてしまっているが、真実である。生まれた時から最高の手入れを受けてきたなめらかな髪。太陽にも当たってないから、平民特有の天パ感、獣感がまったくない。
しかも、『そ、そなたの髪もではないか』と悔しそうにつぶやく童子がまた可愛い。
確かにヤンの髪もかなり柔らかくなめらかだ。修道院育ちで髪は常にローブをしていたし、室内で本を読むことが多かったので陽でチリチリになることはない。
しかし、黒髪少女は力説する。私の髪は元々黒いから目立たないし、頭もキチンと汚していますと。
「なるほど……では、こんなものでどうだ?」
「全然駄目ですね」
「くっ……そなた、厳しいな」
イルナスは悔しそうにつぶやくが、ある程度は仕方ないとヤンは思う。彼女自身が最も多く接してきたのは、炊き出しなどで長蛇の列をつくる平民たちだ。
自力で生活できず、洗濯もしない。住む家もない。そんな極貧平民たちの姿と帝国の皇子を比べてしまうと、どれだけ汚しても汚したりない。
「イルナス様がかわ……綺麗過ぎるんですよ。普通に汚したって、その整った輪郭や、真っ白に輝く歯などは隠せませんからね。むしろ、やりすぎなくらいじゃないと」
「……なるほど。平民とは、このような厳しい生活をしているのだな」
元皇子は、まったく的外れな見識を備えた。同時にやはり自分がどれだけ豊かな生活をしていたのかを反省する。
民の身になって生活をせよ。皇帝教育でよく言われていることなのに、やはり実際の現場はひと味違うと生真面目なイルナスは思う。
「そうですね……類稀なき高貴さ、史上稀に見る清廉さを打ち消すにはためには……イルナス様、どこかに犬の糞落ちてませんかね?」
!?
元皇子は我が耳を疑った。平民の師であるヤンの言葉が、あまりに衝撃的過ぎて、全く意味がわからなかったからだ。
そんな彼の衝撃など知る由もなく、黒髪の少女は、もしかしたら最悪『口に入れろ』と指示する可能性すらある不敬物を捜索すべく地面を見渡す。
そんな彼女をよそに、イルナスはその不敬物でなにをされるのか怯える。そして、その中でも最悪の選択肢でないことだけが気に掛かった。
「まさか……そなた、口に入れろと言うんじゃなかろうな?」
「……なるほど」
「て、提案じゃないぞ!?」
お、恐ろしい。平民というのは、かくも恐ろしい生態をしているのかと恐怖を覚える元皇子。
しかし、ヤンの黒い瞳は真剣そのものである。当然だ。すでに、誘拐犯となっている彼女は捕まれば死罪。自分の身を守るためだけじゃなく、彼女のためにも、頑張らなければと思う
……しかし、しかし、さすがに口に入れるのはと、イルナスは心の葛藤を繰り返す。
「私が提案しようと思っていたのは、髪の毛に擦りつけるぐらいのライトなやつです。さすがに、口の中に入れるというのは不敬かなと」
「う、うーむ……髪でも十分に不敬だと思うが」
恐るべし平民感覚。いずれにせよ、時は待ってくれない。これから、本格的に貧民街をうろつこうと言うのに、貴族とバレる事態は絶対に避けなくてはいけない。
そもそも、糞なんて所詮は排泄物だ。考えを切り替えれば、別にそう騒ぎ立てることでもない。『汚くない、汚くない』、イルナスはそう心の中で連呼する。
ちなみに、ヤンが見ていたのは狩人や農家、牧家などだ。狩人は人の匂いを消すために、農家は肥料のために、牧家は家畜の健康状態を図るために、それぞれ糞を使用する。
その断片的な記憶だけが残り、結果として元皇子×糞の組み合わせが完成した次第だ。
「あっ、ありました。ここにありましたよ、イルナス様、大漁です。さあ、握ってください。ギュッと」
「ヤン……そなた、手本を見せてくれ」
「わ、私は髪黒いですから。イルナス様はキラキラと輝いてらっしゃるから」
「くっ……し、しかし……いや……そうか」
覚悟を決めるしかない。追っ手からできるだけ逃げるために、最初の一歩でつまずく訳にはいかない。
元皇子は恐る恐る近づき、わりかし大きなサイズのやつに両手を伸ばす。手のひらを、不敬物のすぐ側まで移動し、後は握りつぶすだけ。
だが、それができない。どうしても、触れて握りつぶすための力を込めることができない。
「……お前ら、さっきから糞の前でなにやってんだ? 臭えだろ」
通りがかりの平民の青年につぶやかれ、2人は正気に戻った。




