決断
部屋に入ってきたイルナスを見て、ヤンはハッと息を飲んだ。金色の流れるような髪。透き通るような粉雪のような肌。その中性的な顔立ちは、母であるヴァナルナースの面影を非常に感じさせる。聡明さを感じさせる鮮やかな青の澄んだ瞳は、皇帝レイバースと瓜二つだ。
「……っ」
愛らしさがとんでもない。これには、ヤンが生来持っている庇護欲を大いに刺激した。元々、彼女は大の子ども好きである。
将来の夢は童子を教える授士になること。宮仕えや側近の英才教育を施す師とは異なり、ただ可愛い子どもたちに囲まれながら生きていくことを夢見る少女は、困った表情を浮かべている美童子にギュッと胸が締め付けられる。
「どうだ? お眼鏡に叶ったかな?」
「くっ……」
ヤンは悟った。ヘーゼンに自分の下心をすべて見抜かれていることを。ゆっくり考えたかった。ゆっくりと目の前の可愛い子をスリスリして、ナデナデして自分の欲望を一通り満足させた後で決めたかった。
でも、もう時間……ない。
事態はかなり深刻である。考える時間はもうない。
ならば、自分の良心を信じようと思った。目の前の子どもが困っているとき、自分に恥じない行動をとろうと。ヤンは、コクリと頷きイルテスに微笑み返した。
「では、3分やろう」
「……固麵じゃないんですから」
黒髪少女の例え冗談が、師に全く響かなかったところで、急いで身体を翻す。イルナスが側近も護衛もつけずに来たと言うことは、状況はかなり逼迫している。
ヤンは、服棚の奥から衣類を取りだす。もう二度と着ないと思っていた灰色ローブ。身体が成長していて胸が少しきついが、ウエストは入るので安心した。ところどころ、破れやほつれ、ツギハギがあるので少なくとも、貴族が変装してるとは思われないだろう。
残り2分。ヤンは大きな漆黒のマントを羽織り、銭袋に大銀貨5枚、小銀貨20枚、大胴貨30枚を詰め込みポケットに入れる。そして、大金貨と小金貨はヘーゼンに手渡した。
逃亡したとわかれば、絶対に家宅捜査される。その時、金貨が残っていれば、必ず平民に偽装したことがバレるだろう。
残り30秒。すべての準備を完了させたところでヤンは、3年住んだ部屋をグルリと見渡した。
初めてここに連れてこられた時に、泣き暮れたベッド。一週間で読破しろと言われて、不眠不休で読みあさった本棚。訓練で重傷を負って、血みどろになったまま倒れ込み、取れなくなった床の血痕。
……まったくと言っていいほど、いい思い出がない。思い浮かばない……でも、不思議だ。ろくな思い出もないのに、苦しい想いしかしたことがないのに、なぜだか胸にじんわりと熱いものがこみ上げてくるなんて。
ヤンは静かに漆黒の瞳を開けた。
「時間だ」
「……はい」
「選別だ。これを持って行け」
ヘーゼンに手渡されたのは、整った細い枝のような棒だった。ひんやりとした鉱物特有の感触。ヤンがそれを掲げると、うっすらと黒く輝き、身体からじんわりと魔力が流れていく。
「ま、魔杖じゃないですか!? いいんですか?」
魔状は、魔法を放つことのできる武器である。慣例としては一人前の魔法使いになった時に師から与えられるもので、ヘーゼンから授与されたのは、唯一兄弟子のアルバスのみだ。
「帝都を出るまではできる限り使うなよ」
「……それは、こちらが師にお願いしたいとこなんですが」
ヤンが笑顔で言い返す。実際、国家的犯罪者になった時点で、帝国選りすぐりの精鋭たちに追われることは間違いない。
犬狢、蛇封、古虎……彼らのような冷酷無比な集団と対峙すれば、魔法をいかに駆使したとしても生き残れるかわからない。
なので、魔法を使わないようにするには、ヘーゼンが宮でどれだけの策を巡らせるかにかかっている。
準備ができた時、ふとイルナスの視線に気づく。その不安そうな表情は、ヤンの胸をギュッと締めつける。利発そうな童子だった。顔立ちが非常に整っていて、背も思ったよりも小さい。
黒髪の少女は思わず、自分がここに連れてこられたことを思い出した。あの時、自分は13歳の頃だった。それでも、不安で、独りぼっちで、怖くてどうにかなりそうだった。
……しかも、私と同じなんて。
ヤンは、彼の元に片膝をついて礼をした。少しでもイルナスが安心できるように。少しでも、彼の恐怖を和らげることができるように。
愛想を尽かされてしまうかもしれない。途中で、ダメ魔法使いの烙印を押されてしまうかもしれない。
ただ、今だけは、自分だけが頼りなイルナスのためだけに、ヤンは満面の笑顔と自信を持って、有能な臣下の儀礼をとった。
「イルナス皇太子殿下。安心してください、私が必ずあなたをお守りいたします」




