童皇子 イルナス
「イルナス皇子。あなたとの婚約を解消させて頂きます」
華やかな庭園で響く淑女の声が、一瞬にして周囲を沈黙させた。
イルナスには状況がよく整理できていなかった。招待されたお茶会の場で、上級貴族のマリンフォーゼから突然の宣告。よく、晴れた日だった。
「そう言うことだ。まあ、残念だろうが現実を受け入れろ。マリンフォーゼは、そなたにはもったいない」
隣の男がイルナスの肩をポンポンと叩く。燃えるような赤毛を持つ、頑強な肉体を持つ男。垂れ下がった細い眼光は明らかに勝ち誇ったような微笑みが垣間見える。そんな皇位継承候補第一位、エヴィルダース皇太子は、彼女に近づき婚約の誓いである口づけを躱す。
「本日この場を持って、マリンフォーゼは我の正式な婚約者となった」
まるで、劇でも見ているようだった。悲劇ですらない、喜劇。それを証拠に、マリンフォーゼとエヴィルダースの側近は下を向きながらクスクスと笑っている。イルナスの側近たちも、彼を擁護することなく下を向く。
マリンフォーゼの頬は真っ赤に染まっていた。もはや、イルナスなどは眼中にもなく、一心にエヴィルダースを見つめている。他国から噂されるほど美しい彼女は、残酷なまでに女の表情をしていた。
イルナスは黙って庭園を後にした。
部屋に戻ると、母のヴァナルナースが笑顔で待ち構えていた。金色の流れるような髪。透き通るような粉雪のような肌。『傾国の美女』とまで噂されている彼女は、皇帝陛下の側室である。
「早かったですね。久しぶりに会ったのだから、もう少し、マリンフォーゼとお話をしてくればよかったのに」
「……ははっ」
イルナスの精一杯は作り笑顔を浮かべることだけだった。遅かれ早かれ、目の前の優しい母はこの事実を知ることになるだろうが、こんな自分が情けなくて、どうしても伝えられなかった。
彼女と親子のように仲がよかった母様は、どんなにガッカリされるだろう。
無論恋愛ごとにいいも悪いもない。要するに、マリンフォーゼがイルナスを捨て、エヴィルダースを選んだだけだ。あのお茶会は、エヴィルダースが戯れに画策したのだろうが、そんな嫌がらせにも、もう慣れている。
ただイルナスの心に、母への申し訳なさと自身の情けなさが溢れてくる。
「……少し疲れているので、もう寝ます」
なんとかそうつぶやき、母に背を向けてベッドにダイブする。泣いている顔は見られたくない。自身の涙を布に吸わせて、寝たふりをした。
やがて、母が帰るとイルナスは仰向けに寝転んだ。そして、自分の姿を鏡で見て、はぁと大きくため息をついた。
「なんで……こんな身体に生まれたのだろう」
金色の流れるような髪。透き通るような粉雪のような肌。その中性的な顔立ちは、皇帝の寵愛を受ける側室ヴァナルナースの面影を感じさせる。聡明さを感じさせる鮮やかな青の澄んだ瞳は、皇帝レイバースと瓜二つ。誰もが羨むような容姿だった。
しかし、彼の容姿は異常なほど異質だった。
ノルマンド帝国の皇子として生を受け、国中が生誕を祝った。誰もが彼を羨望の眼差しで見つめた。その明るい未来を誰もが疑わなかった。実際、イルナスは母と父の愛情を受けて、真っ直ぐに育った。その時、上級貴族のマリンフォーゼと婚約をして順風満帆な貴族生活を送っていた。
『イルナス皇子が病気である』と噂が立ったのは、8歳の頃だった。
母のヴァナルナースも心配し、国中の魔医に診察させたが原因はわからなかった。兄のエルヴィダースの嫌がらせは、この頃からどんどん酷くなった。周囲からは嘲笑や同情の眼差しで見られるようになった。そして、更に2年後には誰もが確信した。
ああ、イルナスは異常なのだ、と。
誰もが羨むような容姿であるのは疑いない。このまま大きくなれば、誰もがため息をつくような美男子になる。帝国中の貴族の女性の羨望の的になり、容姿端麗なマリンフォーゼと美男美女のカップルとしてもてはやされるのは間違いない。
ただし、このまま大きくなればの話だ。
鏡に映ったイルナスの姿は、小さな手のひら。細く短い手足。クリクリとした瞳。そして……女性が簡単に抱き上げられるほどの、小さな身体。それは、16歳とは思えないほど異常さである。
皇子の成長が5歳のまま止まってしまっているのだ。