八月の蝉
以前彼が私に、こんな話をしてくれたのを覚えている。
あれは真夏の日。じりじりと照りつける太陽の下、隣を歩いていた彼が突然声を上げた。
「蝉だ」
彼の視線の先にいたのは、アスファルトの道の端に転がっている1匹の蝉だった。じじ、じじ、と力のない声で鳴きながら必死に動いている。起き上がってはひっくり返り、また起き上がっては転がって..。虫嫌いな私だから、1人で帰っていたら目を逸らして通り過ぎていただろうが今日はそうもいかない。案の定、彼は蝉に近づいて行き、そっとしゃがみこんで見つめている。細い道だから、人の邪魔にならないか念の為確認して(炎天下の中外を出歩いている人も少なかった)、私も彼の隣にしゃがみこんだ。
ちらり、と横にいる彼を見やった。白い制服の襟元から出る首筋、そこに光る汗が夏を感じさせる。
相変わらず蝉はもがいている。羽を震わせて、懸命に立ち上がろうとしている。「かわいそうだね」思わず私は呟いた。
すると彼は、「どうして?」と首を傾げる。どうしても何も、この状況なら何が可哀想かわかってもいいんだけどなぁ…。「飛べないから…」私はポツリと答えた。
「まだ飛べるよ、この子」
力のこもった声に私は「え?」と顔を上げた。
「羽が綺麗だから、成虫になりたてなんだよ。飛ぶのに慣れてないだけかも。」
「あ、そう…なの?」
「ほら、見てごらん」
彼は蝉の羽の編み目のような模様を指さした。くっきりと、葉脈が広がっているような、人の手で作り出すのも簡単でないような一種の芸術がそこにあった。
「ほんとだ、綺麗だね」
普段虫を見ても綺麗だなんて思わない。むしろ気持ちが悪くて、極力近づきたくない。だがこの時ばかりは、蝉を綺麗だと思った。こんな模様を身にまとって生きている蝉が眩しく思えた。
「あ、見て、そろそろ行けそうだよ。あっ、起き上がった!」
珍しく彼がはしゃいだ声を上げた。それに応えるように、蝉の動きも次第に活発になり、じじじ、とさっきよりも元気に鳴き出した。そしてわずかな間が空いてから、私たちの前から飛び立った。
「わっ…」いつもの虫嫌いが少し出て、私は仰け反った。蝉はそのまま、近くにあったマンションの木に止まった。
私たちは再び歩き出した。
坂を登りながらふと、疑問に思ったので彼に聞いてみることにした。
「ねぇねぇ」
「ん?なに?」
「蝉の一生って短いよね?小さい頃に幼稚園の先生が言ってたの。蝉は1週間しか生きられませんって。やっぱり可愛そうな生き物なんじゃないかな?」
すると彼は何を思ったのか、くすりと笑った。何よもう、と思って私は頬を膨らまして彼を見た。
「ごめんごめん、そんな顔しないでよ。ただ、面白いなぁと思ってさ」
「何が面白いのかわからないんだもの」
「蝉の一生が1週間ってちょっと違うかなって思ったんだよ」
「えっ?私ずっとそうだと思ってた」
「確かに、地上に出てからは1週間しか生きられないんだよ。じゃあ、それまでどのくらいの期間土の下にいると思う?」
「うーん。3ヶ月とかそれくらい?」
「だよね。俺も最初聞かれた時そのくらいだと思ったよ。でも答えはね、10年なんだ。アブラゼミだと6年とか、種類によるけどね」
「えええっ」私はぽかんとした。10年?そんなに長い間?ってことは、実際蝉ってそんなに短命じゃないんだ…。
「土の下にいる間にも、何回も脱皮を繰り返して、地上に出る日の為に準備するんだよ」
「てことは、10年時間をかけて準備して、やっと地上に出て、そこで生きられるのはわずか1週間?」
「そういうこと」
「すごいねぇ、蝉」
私は素直に感動した。そんなにも長い年月をかけて蝉は土の下で地上を夢見て生きているのか。
でもそれで、蝉は幸せなんだろうか。人生のほんの少しの時間しか望んだ場所で生きられないなんて。
「他にもね、面白い話があるんだ。聞く?」
彼はまだ語りたそうだ。その様子が少し可笑しいのと嬉しいのとで、私はこくりと頷いて彼の言葉に耳を傾けた。
「蝉は地上で生きている間に、自分のパートナーを探すんだよ。誰と結婚しようか、その1週間で決めなくちゃならない」
「人間で言う、一目惚れからのスピード婚だね」
私が真面目な顔で言うと、彼はまた笑う。間違ったことは言っていないはずだ。
「そう。だけどここからがまた不公平な話なんだよ。蝉のメスはオスと何度も交尾が出来るんだ。だけど、オスは1回だけしか出来ない……って、何かすごく変な話してるね、俺たち」
「いつもの事だよ」今度は私がそう言って笑う。彼は少し困ったように眉をひそめて続ける。
「男には1度しかチャンスがないんだよ?それに比べて女は沢山のチャンスがある。ずるいね」
そんなそんな、ふてくされたように言われても私は蝉じゃないからなぁ。
「でも、一生の中でたった一人の人を好きになるってとても素敵なことだと思うけどな」
私はぽつんと呟いた。丁度通りかかったトラックのエンジン音にかき消されて、その言葉は彼には届かなかった。もう一度言うのもどこか照れくさいので、心の中にそっとしまい込んだ。
夏の蒸した風が耳元をくすぐって通り抜けた。あの日のように蝉の鳴き声が鳴り響く8月の午後。
私は1人であの道を歩いている。
今、私の上を飛んでいったのは蝉か。あぁ、この蝉もあの時懸命に動こうとした蝉の子供だったりするのだろうか。そうやって少しずつ、何かを失くして何かを生んで。命だけでなく、心だってそうだ。あの時は確かに近くにあったものも、時間が経てば変わっていく。自分が気づかないままその時間は過ぎていく。全部乗せながら、今日も地球は回ってみせる。
蝉の中にあの日の彼を探した。嬉しそうに蝉の一生を語る彼。私の言葉に優しく笑っていた彼。
もう、あの時の彼はどこにもいない。