8.決戦
日没は八時だ。ジュリエッタは宴会場の奥にマルコと並んで座ったまま、天秤の男の登場を待っていた。教会の鐘はつい今しがた七時を報せたばかりだった。
ジュリエッタを助けに来るはずの天秤の男はまだ来ない。さすがに不安になってきた花嫁はそわそわと居住まいを正し、黙して座り続ける花婿に声をかけた。
「ねえ、マルコは結婚って何のためにするものだと思う?」
マルコは表情を変えず、目だけジュリエッタの方へ向けた。
「君は自分の家が好き?」
「もちろん!」
「お父さんとお母さんのことは?」
「大好きよ!」
「お父さんがいて、お母さんがいて、もうお嫁に行っちゃったけどお姉さんたちがいて、それで幸せだなって思う?」
「とっても思うわ。だから家を離れるなんて考えられない!」
「そういうことじゃないかな」
マルコはジュリエッタから視線をはずし、遠くを見るような目で微笑んだ。その横顔が急に大人びて見えて、ジュリエッタはマルコが大人の男なのだということに気がついた。
「結婚て、僕と君とでそういうものを作り上げて維持していくことなんじゃない?種を蒔き、苗を植えて、水をやって、雑草を抜いて日に当ててさ」
まるで彼の趣味のガーデニングのような言い方だった。
「僕はそういうのやってみたいと思うんだ。父さんや母さんが僕にそうしてくれたように、温かくて楽しい家庭をつくりたい。君は?」
マルコに再び見つめられ、ジュリエッタは顔が熱くなるのを感じた。
「今までそんなこと考えたことなかったわ」
うつむいて膝の上で手を握る。
「それに私、決めてるの。いつか白馬に乗った王子様がやって来て、私の足下に跪いてプロポーズしてくれたら結婚するって。ちゃんと愛を囁いて、プロポーズをして、キスして抱きしめてくれなきゃ絶対に嫌なの」
マルコが呆れたように肩をすくめた時だった。玄関の方から男たちのどよめきと玄関の扉が力任せに破られる音がした。
「来た!」
ジュリエッタは腰を浮かせた。玄関の方から男たちが次々に倒されるような物音が聞こえ、軽やかな靴音と共に小柄な人影が宴会場に踊り込んできた。
「お待たせ!」
頭からつま先までトマトの汁にまみれたコルガーだ。天秤の男はにっこりと笑った。
「何とか間に合ったぜ!さ、逃げよ!」
コルガーはトマトの汁だらけの手でジュリエッタの手をつかむと引っ張り上げるように彼女を立たせた。ジュリエッタは計画通りに事が進んでいることを喜びながらも、このままマルコを置いて行っていいものか躊躇した。マルコは落ち着いた表情でジュリエッタを見上げたが、その瞳は行かないで欲しいと言っているように見えた。
「君の人生だ。君の思う通りにしていいよ。君が選んでいいんだ」
ジュリエッタはマルコを見下ろしたまま立ち尽くした。ここへ来て躊躇うとは思ってもみなかった。とっくに自分の心は決まっていると思っていた。だが、ジュリエッタは動けなかった。彼女の手を引くコルガーについて行くべきか、この場に留まるべきか。
「どうしたのさ、早く行こうよ」
コルガーに急かされ、ジュリエッタは思い切った。花嫁衣装の裾を両手でつまみ、コルガーに向かって深く頷く。
「行くわ」
マルコは何も言わなかった。天秤の男に連れられて立ち去ろうとする花嫁を悲しげに見ているだけだ。ジュリエッタは急にどうしようもなく腹が立って、マルコの胸ぐらをつかんだ。
「あんたねえ!」
マルコは目を丸くした。
「あんたはどうなのよ!あんたはどうしたいわけ?!そんな被害者面するくらいなら、力を尽くして私を引き止めてみなさいよ!好きにしていいなんて寛容ぶってるけどそんなのただの無責任だわ!私たち二人の人生なのよ!私にだけ道を選ばせて、私にだけ責任を負わせないで!」
ジュリエッタの舌は止まらなかった。
「私はねえ、あんたがそんなだから結婚したくないのよ!普段はともかく、こんな時くらいしっかりしなさいよ!」
花嫁に大声で怒鳴りつけられ、花婿は叱られた犬のように目を伏せた。
「ごめん」
「ふん!」
ジュリエッタは鼻息荒く踵を返し、花嫁衣装の裾を乱暴に持ち上げて大股で花婿の家を飛び出した。彼女のあまりの迫力に面食らっていたコルガーは豪華な刺繍がほどこされた花婿衣装の裾を小走りに追いかけた。