7.オレンジ・トマト戦争
花婿の家に到着した花嫁とその親戚たちは花婿の親戚や近隣住民から厚いもてなしを受け、やがて宴が始まった。通常ならば挙式の後に行われる宴会だが、天秤の男により婚約が白紙となる可能性を鑑みて、挙式は祭りの翌日に執り行われる。十一時から始まった賑やかな宴は何十種類ものご馳走やワインやデザートと共に朝まで続く。伝統舞踊や流行りの歌が披露され、緊張していたジュリエッタも食い意地に負けて甘いものを少しつまんだ。マルコも大人たちにメディチーナ名産のワインを飲まされていた。
やがて午後二時を過ぎると男たちはそわそわと落ち着きなく隣同士で言葉を交わし始めた。一人、また一人と〈白鳥〉の男たちが席を立ち、その姿が宴席から消えてゆく。ジュリエッタと新郎のマルコを初めとする〈鹿角〉の男たちは固唾を飲んで静かにそれを見守った。ジュリエッタの父親の姿が消え、〈鹿角〉と〈白鳥〉両陣営の女たちの姿が消え、とうとうジュリエッタの母親の姿が消えたちょうどその時、午後三時の鐘が鳴った。
八月三十一日、午後二時。〈白鳥〉陣営の男たちは市庁舎のある大広場に集結した。ある者は宴会を抜け出し、またある者は店番から逃れ、下は十五歳の少年から上は八十歳の老人までが集まった。〈白鳥〉の町内会長の演説と花嫁の父親の挨拶の後、彼らは一路ポポロ広場を目指しオレンジを積載した無数の荷車を押して行進を始めた。〈鹿角〉と〈白鳥〉の境にあるポポロ広場には両手にオレンジを握りしめた〈白鳥〉の男たちと同じくトマトを握りしめた〈鹿角〉の男たちがメディチーナ中から集まった。その中にはよそから訪れた祭り好きの観光客の姿もちらほらとある。
「よーし行くわよ!ユアン!コルガー!」
長い髪を後頭部でまとめてオレンジの布で覆い、男ものの白シャツとベストとパンツを身に付けた姿のヨイクが拳を振り上げる。彼女と似たような姿のユアンとコルガーが頷く。
「最高級メディチーナワインのために!」
「潜伏生活の鬱憤晴らしに!」
「とにかく勝負ごとには負けたくないわ!」
午後三時の鐘が鳴った。
完熟オレンジを軽く握りつぶし、コルガーは〈鹿角〉陣営に向かって軽く投げつけた。常人離れした、腕力によって投げ飛ばされたオレンジは大きく弧を描いて〈鹿角〉陣営の奥深くへ消えていった。
「手加減しろよ。死人が出たらシャレにならん」
ユアンが肩をすくめると、コルガーは不敵に笑った。
「大丈夫、ちゃんとグチャグチャの腐りかけのオレンジを選んでるもん」
二人が会話している間にヨイクは三つのオレンジを投げている。ヨイクは投げ縄で野生のトナカイを捕獲して暮らす北欧のサーメ人だ。オレンジを投げる速さもコントロールもピカイチだった。コルガーは負けてはいられないと慌てて足元に転がるオレンジを両手で拾う。ジュリエッタを救い出すことができればこの街の特産品であるメディチーナワインの最高級品を一樽もらえるのだ。張り切らないわけがない。
コルガーはほとんど無心で、オレンジを投げて投げて投げまくった。高速の人間投石機にでもなったかのような彼女の隣ではユアンが石畳に片膝をつき、コルガーにひたすらオレンジを手渡す役割に徹していた。ヨイクはコルガーを狙って投げつけられるトマトを板切れで上手に防ぎ、トマトを投げた人物に向かって正確にオレンジを投げ返した。
戦いが始まってから一時間も経たないうちに、じりじりと〈白鳥〉陣営が〈鹿角〉陣営を押し始めた。コルガーたちも最初に立っていた場所から百メートルほど前進しており、最前線でオレンジを投げまくるコルガーの周りには、いつの間にか町の若者たちが彼女を守る盾となって集まっていた。
「やるじゃないか、少年!」
横合いから声をかけられ、コルガーはオレンジを投げる手を止めた。トマトの汁を頭から垂らして破顔したのは花嫁の父親だった。
「……あんた、ジュリエッタの親父だろ?あの子がこの結婚を嫌がってるの知ってるか?」
「もちろん。うちで大暴れしてたからな。だから取り返してやるのさ、うちの末娘を、〈鹿角〉から」
ジュリエッタの父はにっと片頬を上げて不敵に笑った。
「は?」
コルガーが顔をしかめると、彼は大口を開けて笑みを深めた。
「俺はただ祭りがやりたかっただけだ。そりゃ、マルコになら娘をやってもいいが、あの子に結婚はまだ早い」
「つまり、あんた、自分の都合で娘を嫁がせといて、それをまた自分の都合で奪い返そうっての?最初からそのつもりだったのか?」
「その通りだ!父親が天秤の男になれば、天秤の男と花嫁に結婚しろなんて誰も言わないだろ!」
ジュリエッタの父は偉そうに胸を張った。コルガーはがっくりとうなだれた。父親に決められた運命を本気で嘆いていたジュリエッタが可哀想でならない。
「ねえ、ヨイクはなんで婚約したの?」
コルガーはふと思いついてヨイクに尋ねた。彼女は楽しそうにオレンジを投げながら小首を傾げた。
「私の育った村では結婚するのが当たり前だったからね。集団の中で人と違うことをしようとするのは大変だし、結婚せずに生きることを家族や親戚に理解してもらう努力をするのも面倒だったからかしら」
「それならなんで婚約破棄しちゃったの?」
「人と違う道を行く覚悟ができたからよ。きっと私は、一生結婚しないと思う」
勝気な瞳で微笑み、ヨイクは特別に力をこめてオレンジを遠くへ放り投げた。
「じゃあ、ユアンは?結婚したい?」
突然コルガーに話をふられ、ユアンは目を泳がせた。
「おれは、その時になってみないと分からないかな」
コルガーは珍しく歯切れの悪いユアンと、嬉々としてオレンジを投げまくるヨイクを交互に見やり、納得したように頷いた。
「自分の子供は欲しいと思うがね。コルガーはどうなんだ?」
ユアンに問われ、コルガーは視線を上に向けた。ロッキンガム東方貿易会社の背の高い商館の屋根に濃紺の法衣がはためいている。文字通り高見の見物をしているギーヴだ。
「オレは、どうかな」
商館の屋根の上でギーヴが微笑んだような気がして、コルガーは片手を振った。ギーヴも手を振り返した。
「結婚って形にこだわらなくてもいいのかもって思うよ。大切な人と少しでも長く一緒にいたい。ただ、そう思う」
戦いの激しさは時間を追うごとに増していった。両陣営の男たちはトマトとオレンジにまみれ、目の痛みに耐えながら戦い続けた。〈白鳥〉が優勢ではあったが、〈鹿角〉も粘り強かった。コルガーたちが花婿の家まではあと数メートルというところまでたどり着いた時、教会の鐘が午後七時を知らせた。