6. 嫁入り
夏草の葉の上で朝露が光る。早咲きの秋桜の咲き乱れる庭に立ち、東の空に輝く白い太陽を眺めながら、ジュリエッタはぼんやりと物思いにふけっていた。父親が勝手に取り付けてきたマルコとの婚約を受け入れる気はさらさらなかったが、色とりどりの美しい刺繍の施された花嫁衣装を身にまとい、細かく編み込まれた髪を結い上げられ、大人の女性のように華やかな化粧をしてもらった自分の姿を鏡で見たとき、このまま嫁ぐのも悪くないかもしれないと思ってしまった。
「ジュリエッタ、時間よ」
ジュリエッタの寝室の窓から母親が呼ぶ。ジュリエッタは花嫁衣装の裾を少しだけつまみ上げ、踵が高く慣れない華奢な靴で地面を蹴って庭を離れた。
「おいで、ジュリエッタ、髪飾り、つけたげる」
ジュリエッタの長姉が夕日のような琥珀の髪飾りを手に妹を鏡の前へ座らせる。その後ろで次姉はガーネットの耳飾りを準備している。二人とも美しく着飾り、嬉しそうに目を潤ませている。
「おめでとう、ジュリエッタ、幸せになるのよ。マルコとあなたは子供の頃から本当にお似合いだったから、いつかこんな日がくるに違いないって思ってたわ」
長姉はそう言って微笑みながらジュリエッタの髪に髪飾りを差した。
「おめでと、ジュリ!そんなに沈んだ顔してちゃだめよ、マルコとあんたなら、きっとうまく行くわ」
妹の小さな耳たぶにガーネットの耳飾りをつけてやりながら、次姉はジュリエッタの頬をつついて笑い飛ばした。その後は従姉妹たちが髪の編み目に白い小花を差してくれ、最後に母親が白いレースの手袋を履かせてくれだ。
「元気でいてちょうだい。そして私より長く生きて。私の願いはいつだって、それだけよ」
ジュリエッタは母親の言葉に胸がつまった。ジュリエッタは婚約を解消して家に戻ってくる気でいる。そしてそのことを母親は知っている。それなのに、まるで本当に嫁に行くみたいだ。もうこの家に帰って来られないような、両親や姉たちと疎遠になってしまうような、そんな切ない気持ちになって、ジュリエッタは唇を引き結ぶ。
「まあだめよ、お化粧が」
ジュリエッタが手袋の指先で涙をぬぐおうとすると、母親がそれを止めてハンカチを取り出す。ジュリエッタの目頭をハンカチで押さえると、母親はそれを末娘の手に握らせた。
「おい、支度はできたか?」
扉をノックする音と父親の声がして、ジュリエッタは母親のハンカチを潰れるほど握り締めて立ち上がった。次姉が扉を開けると礼服に身を包んだ父親が情けない顔をして立っていた。
「ジュリエッタ!」
泣きそうな声で娘の名を呼び、父親がジュリエッタを力いっぱい抱きしめる。末娘は再び胸がつまった。ジュリエッタは父親の背に手を回し、随分と久しぶりに彼に抱きついた。懐かしいぬくもりに心が蕩け、次から次へと涙がこぼれた。
「何かあったら、俺がこの手でマルコをぶっ飛ばしてやるからな」
父親はジュリエッタの手を取り、母親や姉たちと目配せすると、末娘を連れて玄関を出た。家の前には人だかりと無数の白い花で飾られた山車が花嫁を待っていた。父親はジュリエッタを横抱きにして持ち上げて山車に乗せ、自身は山車を引く二頭の白牛の引き綱を握った。
山車がおもむろに動き始めると、母親と姉たちが山車の両脇を歩き、その後ろに親戚たちが続く。ジュリエッタは山車の上の座席に腰掛け、生まれ育った自宅を省みる。緑の蔦の這う白い壁、赤レンガの屋根、傷だらけの黒いドア、娘たちの誕生を記念して父親が植えた三本のポプラ…。寂しさに胸を締め付けられてジュリエッタは両手を膝の上で固く握った。
花嫁を乗せた山車は町の人々の祝福を受けながら〈白鳥〉の通りをゆっくりと抜け、人影のまばらなポポロ広場の脇を抜けて〈鹿角〉の路地へ差し掛かる。そこで花婿が待っていた。礼服をまとったマルコは石畳みの通りの真ん中に立ち、後ろには彼の両親や兄弟や親戚たちが並んでいる。
ほとんど同時に両家の女たちがドレスの裾をつまんで貴婦人のような礼をした。それを合図に花婿が山車へ乗り込み、花嫁の隣の座席に腰掛ける。両家の親戚縁者が山車を取り囲み、先ほどよりも一層ゆっくりと〈鹿角〉の通りを練り歩いた。
「やけに大人しいね」
いつも通り落ち着いた顔つきのマルコが、ジュリエッタに囁く。緊張と悲しみで金縛りにでもあったかのように強張った表情で見世物になっていたジュリエッタは、聞き慣れたマルコの声を聞いて密かにホッとした。うっかり涙が出そうだった。
「……うっさいなあ」
紅を塗られた唇をとがらせた花嫁が花婿にそっぽを向く。その時、ポポロ広場の教会が午前十時の鐘を鳴らした。