4.天秤の男
西陽の差し込む夕暮れのカフェに足を踏み入れたジュリエッタは店主と目を合わせると微笑んだ。
「ミステル、来てる?」
「らっしゃい。ほれ、あそこに座ってる、若い方の男だ」
店主は黒い髭をたっぷりとたくわえた顎で窓際のテーブルを指し示す。
「本当にあの人?昨夜、酒場でならず者にからまれてる人を助けて二十人くらいのマッチョを数秒で全員ぶっ飛ばしたって噂の?」
「この目で見たんだ、間違いねえ。あれはただ者じゃねえよ」
「わかった、ありがと。あ、ジュースお願いね。オレンジをみっつ」
「了解」
店主が店の奥へと消えて行くとジュリエッタは橙色に染まる店内を進み、窓際に向かいあって座り親しげに何か話している二人の男たちの前で足を止めた。
「お願いがあるの!」
ジュリエッタが声をかけると、二人は会話をやめて彼女の方を訝しげに顧みた。二人の男たちはずいぶん歳が離れているように見えた。年長の男は壮年、年少の男は二十歳手前といった様子だ。それまで逆光でよく見えなかった彼らの顔が見え、ジュリエッタは目を見張った。
「うわあ、超美男&美青年」
年長の男は古代の神々の彫刻のように整った目鼻立ちをしており、背中でゆるく結んだ長い髪は金褐色に輝いている。眠そうに瞬きを繰り返す目は翡翠のような緑色で、黒い詰襟の上に濃紺の法衣という出で立ちはどこから見ても聖職者だ。
「やあ、ええと、君は誰かな?」
ゆったりとした口調で年長の男が尋ねる。ジュリエッタは胸を張って右手を差し出した。
「私はジュリエッタよ、この町の住人。あなたたちは祭りを見に来た旅人?」
ジュリエッタの右手を握り、年長の男は年少の男へ助けを求めるように視線を向ける。年少の男は困ったようにわずかに眉を下げ、ジュリエッタと握手しながら彼女を見上げた。
「まあ、オレたち、確かに旅人だけど……お願いって?」
年少の男は中性的で人懐こい顔立ちをしており、茶色の髪に同じ色の瞳、細身の体にオリーブグリーンの上着とズボンを身につけている。ジュリエッタは年少の男の右手をがっちりとつかみ、彼の顔を覗き込んだ。二十人のマッチョをぶっ飛ばすようなツワモノにはとても見えなかったが、店主が言うなら間違いないのだろう。
「あなたに協力して欲しいの!ダメじゃないよね?!」
「はあ?いきなり何?」
「アランシア・エ・ポモドーロに参加して、花嫁を奪う天秤の男になってほしいの!」
「ヘイお待ちどお、オレンジジュースだ」
「ありがとミステル」
三人分のオレンジジュースがテーブルに置かれると、ジュリエッタは近くの椅子を引き寄せて腰を下ろし、自分の分のジュースにさっそく手を伸ばす。今日も一日暑かったので、地下水で冷やしたオレンジジュースは素晴らしくおいしかった。
「どういうこと?オレたちアランシア・エ・ポモドーロには参加するつもりだけど」
年少の男がそう言って年長の男と視線を交わす。
「うん、四十年ぶりの奇祭だって聞いて絶対に参加したいってテンション上がっちゃった人がいたから、ね」
二人の男たちはジュースを飲み干したジュリエッタへ困惑の目を向けた。
「実はオレンジとトマトを投げて戦う祭りってこと以外、あんまり知らないんだよね」
ジュリエッタは唇の端を上げる。
「説明するわ。アランシア・エ・ポモドーロは〈白鳥〉という町内会から〈鹿角〉という町内会へお嫁に行く女の子をめぐる、町内会同士の戦いなの。まず、午後三時からよその町内会も巻き込んで両陣営がオレンジとトマトを投げて投げて投げてまくる。日没まで花嫁を守り切ることができれば〈鹿角〉の勝ち、〈白鳥〉陣営の誰かが花嫁を奪い返すことができれば〈白鳥〉の勝ち。花嫁を奪った人は祭りの勝敗を決めることから「天秤の男」って呼ばれるの。花嫁は自分を奪った天秤の男と祭りの後に結婚するのよ」
「オレに花嫁を奪えってこと?〈白鳥〉陣営の誰かがやればいいんじゃないの?っていうか、花嫁、奪っちゃっていいの?」
年少の男がオレンジジュースに口をつけながら首を傾げる。
「今回のアランシア・エ・ポモドーロの花嫁は私なの。相手はマルコっていう幼馴染みなんだけど、祭りをやりたいがために親同士が勝手に婚約しちゃって、マルコのバカタレったらその言いなりなのよね。町の人たちもどういうわけか、私たちのことお似合いだって喜んで結婚させようとしてて、〈白鳥〉陣営は絶賛劣勢。たぶん、まともにやったら負ける」
ジュリエッタは父親とマルコと町の人々に対する憤りを言葉に込め、両手で拳をつくった。
「だから、お願い!あなたすごく強いって聞いたわ!どうか私を奪って、マルコとの婚約をぶっ飛ばして欲しいの!天秤の男と花嫁は結婚する決まりだけど、あなたは旅人だもの、祭りが終わったらメディチーナを去るでしょ。そうすれば私は自由の身!」
男たちは顔を見合わせた。
「いいじゃない、君、引き受けなよ、人助け人助け」
年長の男が愉快そうに年少の男の頬を指でつつく。年少の男は照れたように年長の男を軽く睨みつけ、唇をとがらせた。
「簡単に言わないでよ。引き受けるからには勝たなくちゃいけないんだから。一人の女の子の人生がかかってるんだよ」
「でも、君以上の適役はいないと思うよ」
年長の男がにっこりと微笑む。すると年少の男はジュリエッタに向き直り、期待に瞳を輝かせている少女に右手を差し出した。
「ひとつ、条件」
年少の男はにやりと笑った。
「オレ、昨夜、酒場でさ、アランシア・エ・ポモドーロの花婿と花嫁の父親たちはワインの醸造会社を共同経営してるって話を小耳に挟んだんだよね。つまり君はワイン会社の社長令嬢というわけで」
ジュリエッタは彼の意図するところを悟り、にっこりと笑ってテーブルに身を乗り出した。
「わかった!一番上等なメディチーナワインを一樽くすねてあげる!それで引き受けてくれる?!」
「よっし!任せろ!」
ジュリエッタと年少の男はがっちりと手を握り合い、年長の男は呆れ顔でオレンジジュースをすすった。
「まったく、本当に君って、美味い酒につられるんだから」
「へっへーん、何とでも言って〜!そうだ、オレの名前、コルガーな。アイルランド人だけど今はローマに留学して建築学の勉強をしてるんだ、よろしくな」
年少の男――コルガーが思い出したように自己紹介すると、年長の男もそれに倣う。
「俺はギーヴ。見ての通り聖職者だよ。生まれはフランスで、訳あってスコットランドに住んでるんだけど、彼女を訪ねてイタリアにはときどき来るんだ」
ジュリエッタはギーヴとも二回目の握手を交わし、小首を傾げた。
「彼女?」
「うん、彼女。この人、俺の彼女」
ギーヴはコルガーを指して頷く。
「えええ?!」
ジュリエッタは信じ難い思いでコルガーの頭からつま先まで穴が空くほどまじまじと見つめた。コルガーの唇からため息が漏れる。
「そうは見えないだろうけど本当に女だよ。だから安心していいよ、君とは絶対に結婚できないから」
「う、うん」
「大丈夫、祭りが終わってこの町を去るまで、バレないようにやるからさ」
「女だって言わない限りバレたこと一回もないもんね」
「一回だけあります!」
コルガーはテーブルの下でギーヴの足の甲を踏みつけ、飛び上がるギーヴを横目に喉を鳴らして冷たいオレンジジュースを飲み干した。