浴室のこども
一応R15ですがそこまで性的でも残酷でもないはずです!!!!!!
背後では、ずっとシャワーの音がしている。激しい音としっとりした温もりが、私のうしろで浴槽に落ちていった。
私はどうしようもない寒さを感じながら、頭を抱えて震えている。私の下には男がいて、濡れた髪がその表情を隠しているけれど、恐らく笑っていた。
浴槽の嵩はまるで変わらない。あんなにさあさあとシャワーは動いているのに。
「あんたを殺せばいいの」と、私はうめきながら呟く。こぶしを握りしめていないと、持っていた包丁が落ちてしまいそうだった。「そうすりゃ全部終わるの」なんて、答えてほしくもない問いがこだまする。
「お前がそうしたいなら」
いつだってこいつはそう。まるで、全部が私の思う通りのようなずるい言い方をする。それをわかっていながら、私だって「そうよね」と甘えるずるい女だ。
だけど今日は、今日だけは否定してほしかった。
「やだなぁ、そんな顔すんなよ」
男が私の頬に手を伸ばし、ゆっくりと髪をかき上げた。冷たい頬に温かい指先が触れて、一瞬だけ震えがおさまる。
「……お前のピアスも、肩の可愛い子鼠ちゃんも、俺の趣味なのに。他の男にくれてやんのはヤだなぁ」
肩に彫られた鼠のタトゥーを目で追いながら、男は言った。「お前、俺が死んでも俺の女でいろよ」と。
どうすればいいのかわからないまま、私は「いや」とだけ短く答える。
「どこが嫌なの? 俺の女でいること?」
「そうよ」
「それとも、俺が死ぬこと?」
「ねえあんた」
「可愛い」
「どうして」
その時、ようやく男の表情がはっきり見えた。男はひどく疲れたような顔をしていた。
どうしてこうなったんだっけ、と私はぼんやり夢想する。
私たち、出会いから異常だったんだっけ。あんた、何にそんなに疲れてんのか、私にはわからないの。私のせいだったかもしれないし、こいつ自身の問題だったかもしれない。だけれど疲れ果てて、私のことを見ているのは事実だ。そうして私に「終わらせてあげる」とまで言わせたのだから。
「ねえあんた、死にたいの」
「かもしれない。お前どう思う」
「あたしにはあんた、とっても疲れているように見えんのよ」
「ああ、そうかな。そうかもしれねえ」
だからといって何も変わりはしないのだけど。
私はただ包丁を持って、男を見下ろしている。濡れた白いシャツが肌に張り付いて、恐ろしく生々しい夢を見ているようだ。
「眠れないんだ」と呟いたのは、一体どっちだったのか。シャワーの音にかき消されて、確かめることもできなかった。
この狭い浴室で、ふたりとも押し込まれて、ふたりで果てちゃえればそれでよかったのに。それなのにあんたは「終わらせて」と訴える。私の手で丁寧に、この喜劇を終わらせることを心待ちにしている。
ずっと震えている私を、憐れむように男は私の頭を抱き寄せた。そのまま触れるようなキスを一度して、髪を撫でる。
今度はまぶたの上に口づけを落とし「俺じゃなきゃよかったのにね」とささやいた。「でも俺じゃなきゃダメだったでしょ」と。くすぐったいほどに、甘い声で。
腹から何か熱いものが広がっていく感覚に、私は身を委ねた。
男はまた口をふさぐようにキスをする。もう何も言えやしない。噛みつくみたいなキスだったから、私も口を開けて受け入れる。舌が侵入してきて頭がぼんやりした。煙草の苦さと私のなめてたキャンディの甘さが混ざって、最後にはいやらしさだけが残る。
息が上がれば上がるほどに、酸素が足りない。呼吸ができない。ただやわらかな唇の感触に、どうかこのままで、と窒息を望む。
男が私の手首をつかんで、ゆっくりと自分の胸にうずめた。小さなうめき声が、唇を重ね合った隙間から漏れる。
私の手の中の包丁は、ずぶずぶと男の胸に沈んでいく。私は自然に手を動かして、包丁を抜いた。濃い紅色が、浴槽の中にヴェールのようにやわらかく広がった。
男が私のことを弱々しく押し、唇が離れる。苦しげに息を吐く音が、あまりにも弱くて水の音にかき消された。そのまま何かに耐えるように目をつむっていたが、やがてへらへら笑いながらまた私の首筋に吸い付く。
まるで赤ん坊が母親の肌を求めるように、そこにあるものと疑わないように。
「痛い?」
「たぶん」
「そんなものなの?」
「痛いよ。すっげえ痛い。生きてるって感じがする」
「かわいそう」
心からそう思って、私は男の胸にぽっかり空いた穴を片手でいじった。男はつらそうにうつむいて、それからちょっと笑う。「なんか、ヤりたい気分になってきた。俺ってそういう趣味だったのかな」と茶化した。
「マゾヒストってこと? あんた、天性のサディストでしょ」
「もっと痛い思いさせてよ」
私は男の傷に、指を深く突っ込みながら小首をかしげた。「ねえお腹に穴が開くと、ちっちゃな穴でも腸が出てきて花のつぼみみたいに可愛いんだって」そのまま指を動かして、中をぐるぐるかき混ぜてみる。男は声を押し殺したが、こらえきれなかった痛みが小さく喉を鳴らした。
「やってみろよ」と男が言う。息も絶え絶えに、それでも余裕ぶってからかうように言う。
子供だから、という言葉がふと蘇った。
『あの人はただの子供だから』とこの男の、前の女が言っていた。『だけど子供っていうのは、みんな等しく損なわれていくのに』と。
あの女はできなかったのだ、と思う。この男を大人にすることが。そして自ら子どもになることも。私もそうなのかもしれない。子守りの気分でいたら、ついていけやしなかったのに。今さらになってようやく、ちょっとは理解できるような気になった。
張り付いた髪さえ愛しげに撫でながら、色を失いつつある唇に温もりを押し付ける。
吐息ばかりが耳に障った。彼の少ない酸素を奪うように深い口づけを繰り返す。
「大丈夫、痛くないよ。大丈夫」
言い聞かせるように呟くと、男は朦朧としながらも頷いた。焦点の定まらない目。確かに私の存在を認め、夢見るように閉じられた。
気付けば浴槽の中は真っ赤に染まっていて、「これ全部、あんたの血だっけ」と惚けて言ってみる。シャワーは依然として、水を流し続けていた。
あんたが疲れちゃったの、ちょっとだけわかるよ。
両手で顔を覆いながら、私はひとりで呟く。誰も答えやしないし、私も答えなんか求めていない。
きっと生まれたときから、優しく頭を抱かれて眠ることを夢見ていて。だから眠れなかったんだね。ただの一度も。だから、疲れちゃったんだね。
「かわいそうなひと。『愛して』以外のわがままなら、飽きるほど言えたくせに」
シャワーの音も聞こえなくなって、浴室は美しいほどの無音だ。ただ一人分の呼吸音がうるさくて、私はちょっとだけ声を震わせて泣いた。
こんな男でいいですか?(いいわけがない)