第二章 ツッコミがキツい人魚姫⑥
ヒヤッと冷たい感触が顔にあたり、ハッとして目を開けると、僕は今まで眠ってしまっていたらしいことに気が付く。冷たい感触の正体は湿ったタオルだった。
「そんな格好で寝続けたら、顔中日焼けで真っ赤になるんじゃねーの?」
そう言って僕の顔を覗き込みながら笑ったのは、ユリネラだった。
「これ、ユリネラが?」
「おう。あっちの蛇口の水で湿らせただけだけど。少し冷やしといた方がいいぜ」
「ありがとう……」
僕はタオルで顔や首を拭った。ひんやりして気持ちいい。
「お兄ちゃんもこれ食べようよ」
妹はカップアイスを三つ持っていた。
「丁度、アイスクリーム売りが来たんだよ。リヤカーっていうの? そういうのに、氷の入った箱が乗っかってて。うまそうだから買ってきた」
「ありがとう。色々悪いね、ユリネラ」
「いいから食おうぜ」
僕達は、それぞれアイスにかぶりつく。妹は幸せそうに相好を崩し、ユリネラは青い瞳を驚いたように見開いた。
「なんだこれ!」
そして、嬉しそうにその目を細める。
「冷たくて甘ーい!」
僕達は夏の暑さを吹き飛ばすように、夢中でアイスを貪り食った。
「さあ、どうぞ」
僕は紙コップを配り、水筒の麦茶を注いだ。一気に飲み干すと、汗で水分が抜けた体に染み渡っていくようだった。
僕とユリネラが麦茶をお代わりしている間に、妹は近くの砂をいじって何やら作り上げていた。
「玲、なんだよ、それ」
「ユリネラお姉ちゃん知らないの? ゲームだよ」
妹は砂山を作り、その頂上に、近くに転がっていた小さい木の枝を刺した。
「この砂山のね、横をね……こうやって、砂を少しずつ掻き出すの。で、この棒を倒しちゃった人の負け」
「へー。面白そうだな。やろうぜ、雅も」
僕達は妹の作った砂山の回りに座った。妹、ユリネラ、僕の順で砂山の砂を両手で削り取っていく。二周しても砂山は崩れなかった。
「なかなか崩れねーもんだな。よし、あたしがここで、雅にぶっこんでやんぜ!」
ユリネラは大胆な量の砂を掻き出す。と――。
「あああああ!」
「ユリネラお姉ちゃんの負けー!」
頭を抱えて絶叫するユリネラ。妹はきゃっきゃっと歓声を上げていた。ユリネラの大胆な一掻きで、木の棒はあっさりと地に落ちてしまったのだ。
「残念だったね、ユリネラ」
「くっそー! リベンジ! もう一回、もう一回勝負だ!」
「いいよ」
妹が再び砂山を作り、頂上に棒を刺した。負けたユリネラから順に、再び砂を掻き出していく。
「そういやよぉ」
僕が自分の番で砂を崩していると、ユリネラが口を開いた。
「姉さんとも海に来たのか?」
「うん。何回か来たよー」
妹が砂を削りながら頷く。
「姉さんと雅の様子はどうだったよ?」
「あのねー……」
「ちょ、ちょっと!」
僕は妹が続けようとするのを遮った。
「さっきから、このパターン、僕が怒られる展開にしかならないんだけど……」
「テメーは黙ってろや」
ユリネラは青い瞳で僕を睨みながら、砂山を崩す。
「オラ、雅、さっさと砂掻けよ! ……で、玲、姉さんはどうだったんだ?」
僕に対するものとは全く違う優しい表情を、ユリネラは妹に向けた。渋々と砂を掻く僕のことを無視して、妹は口を開いた。
「えっとねー。アリアラお姉ちゃんも水着でね、わたしと貝殻拾いとかしてたの。でもね、寒くなってきちゃったみたいで、ビニールシートに座ってるお兄ちゃんの方に行って……」
「ほうほう」
「何か、砂に字を書いてお兄ちゃんに見せてたよ」
「ほほーう?」
どうして妹はこんなに記憶力がいいんだ!
ユリネラはニヤニヤと笑いながら僕を見た。
「雅、姉さんはなんて言ってたんだよ」
「え、ええと、確か……えーと……」
「男ならはっきり言えや!」
「ひぃ!」
ユリネラの剣幕に、僕はびくりと肩を震わせる。二時間ドラマで刑事に恫喝された容疑者になった気分だ。僕は自白を強要された容疑者よろしく、震えながら言葉を吐きだした。
「ア、アリアラは『寒くなったので、雅の隣にいてもいいですか』って……砂の上に書いてて……」
「はーん? それで?」
「なんか……その……アリアラは僕の隣に座って、ぴったり寄り添ってきまして……」
「姉さんやるな。で、アンタはどうしたよ?」
興奮気味に鼻息を荒くするユリネラを恐る恐る見上げながら、僕は弱々しく最後の告白をした。
「『それなら、ちょうどいいのがあるよ』って、妹のために持ってきておいたショールを貸しました……。それで、僕は妹の貝殻探しに付き合うために、アリアラを置いてビニールシートを離れました……」
ユリネラはしばらく、目を点にして僕を見ていた。
「確認だけどよ。水着姿の姉さんが雅に寄り添って来たんだよな」
「はい……」
「コイツもしかして俺に気があるのか、くらい思わなかったわけ?」
「全く……。外国の方だから、スキンシップが多いのかな、と……」
「水着の女の子が密着なんてラッキー、とかは?」
「いや……嬉しい気もしたような気もしたけど……でも、恥ずかしいというか、間が持たないというか、逃げ出したい気持ちというか……」
僕の告白を聞いたユリネラは、おもむろに水筒を手にすると、それを僕の頭に降り下ろした。
「痛い……!」
「バカ野郎! そんときゃ、『俺が暖めてやるよ』くらい言って、ぐいっと肩を抱きゃあいいんだよ」
「そ、そんなことできるわけないよ!」
「姉さんがそこまでやったのに、それかよ。情けねえな、この弱腰野郎が!」
再び、ユリネラは水筒を降り下ろした。
「痛い! ごめん、ごめんったら!」
当然のことながら、ユリネラは手加減して叩いてくれている。でも、痛い。ぶつけられた頭がじゃなくて、男としてのプライドが痛手を受けているような気がする。
精神的にふらふらになった僕は砂浜に突っ伏した。そんな僕を尻目に、ユリネラはふんと鼻を鳴らして、枝の刺さった砂山から砂を削った。
「おら、次はおの番だぞ、雅」
僕はなんとか起き上がり、震える手で砂を掻いた。
結果、倒れる木の枝。
「お兄ちゃんの負けー!」
「うっひゃっひゃっひゃっ! やっぱり精神的な揺さぶりに弱えーな、雅は」
勝利のガッツポーズを決める妹と、笑い転げるユリネラの姿を見て、僕はがっくりと項垂れた。まったく、踏んだり蹴ったりじゃないか。
情けない男であるところの僕を置いて、女子二人は再びビーチボールの投げ合いに興じていた。僕はビニールシートに体育座りをしながら、その様子をぼうっと眺めている。
日は西に傾き、二人の女の子の微笑ましい姿を橙色の混じり始めた光で照らしていた。ボールを弾く二人の影が砂浜に長く伸びていく。腕時計を見ると、もういい時間だった。
「玲、僕はそろそろ夕飯の買い物に行かなきゃいけないけど、どうする?」
妹は手を止めて、こっちを振り返った。
「わたしも、お兄ちゃんと行く!」
情けない男の僕なんかは放ってユリネラと遊び続けるんじゃないかと思っていたから、妹の言葉が思いの外、嬉しい。僕は心の中で歓喜の涙を流しながら、いそいそと荷物を片付け始めた。
「ユリネラはどうする? 先にウチに帰ってる?」
心なしか、ユリネラに対する態度にも余裕が出てくる。
「あたしもスーパー行きてえな。替えの服とかパンツとか買わねえと」
「ぱ、ぱんっ……! だ、だったら着替えてきなよ」
ユリネラが海岸の隅にあるシャワー施設で着替えをしている間に、妹と一緒にビニールシートを畳み、ビーチボールから空気を抜いてバッグにしまった。
ミンミンゼミやアブラゼミ、ツクツクボウシの鳴き声がけたたましく響くなか、夕暮れに染まりつつある道を僕達はスーパーに向かってゆっくりと歩いた。防砂林の作る影が長く伸びている。いつもは自転車で行く道だけど、たまには時間をかけて歩いていくのも悪くない。
「夕飯は何にしようか」
「鍋!」
「それはさすがに今の時期は暑いでしょ」
「おでん!」
「本気で?」
スーパーでは僕と妹が食料品を買っている間に、ユリネラは自分の着替えを調達した。帰り道、ユリネラは興奮気味に買い物の様子を話してくれた。
「レジってーの? あれ、おもしれーな! ピッてやって、数字がパッと出て、合計がポンッと出るやつ。水着買った時は店員がポチポチちっちゃい計算機みたいのを叩いてたけど、それよりレジのが楽しいな!」
「人魚の世界にああいうのはないの?」
「あんまり見ねえけど、一応はあるぜ。魔女が作った魔法の会計天秤。秤の片側に買うものを置いて、もう片方には真珠とか金塊とかの代金を置いてって、価値がつりあうと天秤のつりあいもとれるんだ」
「へえ、便利そうだね」
海の世界は海の世界で、僕らとは違う技術が発展しているらしい。僕が感心していると、ユリネラは眉間に皺を寄せた。
「でも、魔女は海坊主と特許で揉めてるって噂だぜ。裁判になりそうとかどうとか」
「へー」
海は海で色々と、人間の世界と変わらない難しい争い事があるらしい。