第二章 ツッコミがキツい人魚姫③
「そんで、疑いもせず家に入れたのかよ……」
半分呆れ顔でユリネラが言った。僕は首を傾げる。
「え、だって、お父さんの知り合いだっていうから……」
「お前、変なとこで甘いのな……。うーん、まあいいや。そんで、四日間、姉さんと一緒に暮らしたわけだな?」
「うん。泊まるところも決めていなかったって言っていたし。でも、五日目の朝に、アリアラは突然いなくなってたんだ」
「ふーん……」
ユリネラは何かを考え込むように、腕を組んで下を向く。だが、少ししてその腕を解くと、僕の方に身を乗り出すようにして、小声で言った。
「で、雅、お前、姉さんとはどこまでいったんだよ?」
「え?」
ユリネラの意図がわからなくて目をパチクリさせる僕に、彼女は意地悪そうに口の端を吊り上げて笑った。
「男と女がひとつ屋根の下に何日も一緒にいて、何もないわけねえだろ?」
「な、な、なななな! なんにもあるわけないだろ!」
慌てて激しく首を横に振る僕を、ユリネラは胡散臭そうな目で見た。
「何もねーこたねえだろ。まーその、なんだ。Cまではともかく、チューくらいしたんじゃねえの? もしくは、未遂。チューしたくなっちゃったとかよ」
「そんな! そんなことするわけないじゃん! 大事なお客様にそんな、そんな失礼な……! 滅相もない! というか、玲がいるのに、なんてこと言うんだよ」
僕は部屋の隅で人形遊びをしている妹の方をちらりと見た。人形の髪のセットアップと衣装のフィッティングに夢中なご様子。こちらの話が耳に入っていないようなのでひとまず安心する。
安堵の溜め息を洩らしつつ、再びユリネラに視線を戻すと、彼女はなぜだか申し訳なさそうな表情を浮かべていた。
「あのさ……。アンタ、もしかしてホモだった? それなら悪いこと言ったな……」
「い、いや。僕は女の子を好きになる人だけど……」
「え、なら、おかしーよ。アンタ、大丈夫?」
ユリネラは怪訝な表情を浮かべていた。
え? 僕、おかしいの?
「一つ屋根の下に、年頃の女の子がいるんだぜ? しかも姉さんはとびきりの美人だ。スタイルだって相当なものだったろ? なのに、いわゆる男性的欲望がチラッとも湧いてこなかったのか?」
「よくぼ……! そんな、僕はそんなの……」
「なかったのかよ?」
「うん」
「少しも?」
「うん」
「ゼロ?」
「うん。ゼロ」
ユリネラは眉を八の字にして、胡散臭いものを見るというよりは、可哀想なものを見る目で僕を見た。僕はなんだかよくわからない不安に襲われ始める。
「え? なにかヤバいの、僕……?」
「うーん……いや、まあ、うーん……ていうか、姉さんはそういうことあってもいいつもりでお前んちに行ったはずなんだけどな……」
「え? なに? どういうこと?」
「お前さ、姉さんがなんでお前んとこ来たかマジでわかんねーの?」
僕はキョトンと首を傾げる。
「お父さんの知り合いだからでしょ?」
「そりゃ方便だな。怪しまれないようアンタに近づくための。人魚なのを隠してたのもそのためだろ。普通の人間は人魚なんて怖がって近づかねーだろうし」
それじゃあ、今のこの状態は何なんだろうか。という疑問は頭を掠めたけど、空気を読んで言わないことにした。
「アンタを騙してたのは確かだから、そこのところは姉さんに代わって謝るよ」
「いや、そんな……」
「そもそも人魚に親ってのはいねーんだ。人間とは殖え方が違うからな。平均寿命も人間とはだいぶ違うし。あたしと姉さんはだいたい三百歳くらいだしな。もうちゃんとは数えてないけど」
「へえ……」
何と反応するべきかわからなくて生返事みたいな返事をすると、ユリネラは口を尖らせた。
「雅、お前、やっぱり、あたしらのこと信じてねえだろ? ふん。まあ、いいや。とにかく、お前は親父さんの知り合いだって言われて、姉さんを家にあげたわけだ」
少し背中を丸めながら、僕は小さく頷く。
「姉さんには親父さん達のことを話したんだろ?」
「うん。そしたら、お悔やみの言葉をもらって、もしよければ最初の予定通り滞在させてくれないかって……」
「それだよ!」
ダン、と畳の床を叩いて身を乗り出すユリネラに、僕は驚いて体を引いた。
「な、なに?」
「当初招待してくれたって設定の親父さんがいないにも関わらず、お前んちに居座ろうとした! つまりは、何か目的があったわけだ」
「ああ。そういえば、日本文化に興味があるって言ってたね!」
僕がポンと膝を叩くと、ユリネラは近くの座布団を僕の顔に投げてきた。
「痛い……!」
「バッカ野郎! そんなのも方便に決まってるだろうが! 日本文化が知りたいなら、京都とか奈良とか鎌倉とか富士山とか富岡製糸場とか、もっと行くべき場所がたくさんあんだろーが!」
額に血管が浮き出る勢いのユリネラの意図がわからず、痛む頭を擦りながら僕は再び首を傾げた。
「どういうこと?」
「ここまで言って本当に姉さんの目的がわかんねーのかよ」
「うーん……?」
ユリネラは盛大な溜め息をつくと、短い銀髪をガシガシと掻き回し、その青い瞳からギロリと鈍い光を放ちながら僕を睨むように見た。そして、一文字に結んだ唇から、重々しく言葉を紡ぎ出す。
「姉さんはアンタが好きだったんだ。だから、近くにいたくてこのウチに来たんだよ!」
ポカンとする僕。
突然に古代ヘブライ語を話されたみたいな状態で、ユリネラの言ったことの意味が全然掴めない。音声だけがグルグルと頭の中を回っている。
なんだろう、これは本当に日本語なのか? うん、日本語だな。日本語には違いないようだけど、しかし……。
徐々にユリネラの言葉の意味が理解できるようになるにつれて、僕の口の端には小刻みに震えが生じ始めた。僕は絞り出すように、掠れた声で言葉を吐き出す。
「ま、またまたー。そんな冗談言われても困るよ。アリアラみたいな美人が僕を相手にするわけないじゃん。僕、顔もよくないし」
「そうだよな。姉さんにはもったいない、普通の顔だよな、雅は」
「運動神経もよくないしさ」
「見るからに鈍臭そうだよな、お前。学校の持久走大会とか下位側なんじゃね?」
「社交的な方でもないし、おしゃれでもないし」
「礼儀はよさそうだけど、女の喜びそうなセリフは言えなそうだよな。服装も冒険しないっつーか、可もなく不可もなくっつーか。あれだな。雅はじーさんばーさんに好かれるタイプだろ。優等生で、同級生からは煙たがられたり、メンドくさい仕事を押し付けられたりするんじゃね?」
「うちは裕福じゃないし」
「姉さんの美貌なら、どんな金持ちでも落とせるだろうからな」
なんか、いちいち言ってくるユリネラの言葉が逐一そのとおりで泣きたくなってしまうんだけど。でも、だったら――。
「アリアラが僕なんかを、す、好きになる根拠がないじゃないか!」
「まあ……そうなんだけどよお……」
そう言って小さく溜め息をついたユリネラだが、鼻息をフンと吐き出し再び僕を睨んだ。
「それでもなあ。姉さんはお前に惚れたんだよ! これは確かだ!」
「まさか……。ユリネラの思い違いだよ」
「思い違いじゃねえ。アンタに会うために、アンタの生活に合わせるために、姉さんは自分の声を売って、魔女から人間になる薬を買ったんだからな」
「え!」
その薬は、童話に出てくるあの薬?
「どうだ。姉さんの本気度がわかったか」
ユリネラは腰に手をあてて胸を張る。でも、僕は首を傾げた。
「だけどさ。ユリネラも同じの飲んでたよね?」
「あ、あれは……魔女の店からパクって……いや、借りてきただけだ! あとでそっと戻しておくから問題ねえ!」
飲んじゃった分は戻らないのでは、という突っ込みは、入れづらい雰囲気だった。
「あれってたしか、足が痛くなるんじゃなかったっけ?」
「ああ、その辺の副作用は改良されてるから平気」
そう言うと、仕切り直すようにユリネラはコホンと咳払いをした。
「とにかく、姉さんは自分の全てを捧げてもいいくらい、お前に本気だったんだよ。だから、お前に対してなんらかアプローチをしたはずだ」
「そんな……まさか……そんなの全く身に覚えがないよ。好きとか言われたり……文字のメッセージでもらったりしたこともないし」
僕は眉間に皺を寄せながらアリアラと過ごした日々を振り返ってみたけど、それらしい記憶が全くない。アリアラが僕を異性として好きだなんて、そんなこと考えたこともなかった。
だが、このとき、今まで黙って部屋の隅で人形遊びをしていた妹が、急に顔を上げてこっちを向いた。
「えー、アリアラお姉ちゃんは、ずっとお兄ちゃんのことをうっとりした目で見てたよー」
「ええ! 嘘だろ?」
妹の仰天発言に、僕は大きくのけ反る。だが、そんな兄の様子にはお構いなしに、妹は人差し指を口元にあてつつ、記憶を掘り起こしながら証言を続けた。
「アリアラおねえちゃんはねー、お兄ちゃんにぴったりひっつこうとしたり、一緒に出掛けようとしたりして、お兄ちゃんともっと仲良しになりたいように見えたよー?」
「そ、そうだっけ?」
「ほら、やっぱりな!」
ハンカチで大汗を拭う僕を、ユリネラ勝ち誇ったような笑顔で見下ろした。
「で、でもさ、アリアラはいつ僕のことを? ユリネラの話が本当なら、僕のウチに来る前から僕のことを知ってたってことだろ? 僕には人魚の知り合いなんて……」
そこで、はたと思い付く。
「もしかして、フェリーの事故の時、助けてくれたのが……アリアラだったの……?」
海の中で支えてくれた腕。流れ着いた砂浜で見た黒い髪の人。あれは、アリアラだったのだろうか。
「でも、だとしても、どうして僕を好きになんて……?」
「さあ。そこまではあたしも知らねえ」
ユリネラは不満そうに口を尖らせた。
アリアラ。本当だろうか。本当にアリアラが僕を? だとしたら、今、アリアラはどこに……?
「姉さんは今、海に帰ってるよ。誰かさんのあまりの朴念仁ぶりに、自分の恋を諦めてな。一人で失恋のショックを癒す傷心旅行に出たのさ」
ユリネラは吐き捨てるように言った。僕は何も言い返すことができず、申し訳ないような、情けないような、複雑な気持ちを抱えながら下を向いた。
「姉さんとあたしはずっと二人きりで暮らしてきたんだ。だから、今あたしは手持ち無沙汰でよ。そんで、姉さんがお前のどこに惹かれたのか、ここでどんな生活を送ったのか、調べさせてもらおうと思ったんだ」
ドンと大きな音を立てて膝立ちになったユリネラは僕に顔を近付け、真正面から僕を睨み付けた。青い視線に射すくめられ、僕は身動きが取れなくなる。
「あたしから大事な姉さんを取ったアンタだ。イヤとは言わせねえぜ?」
ユリネラが低い声でそう言ったとき、誰かのお腹がギュルルル~と鳴った。途端にユリネラの顔が真っ赤に染まる。
「と、とりあえず、昼食にしようか……ね?」
僕が提案すると、赤くなって俯いたユリネラが「おう」と小さく返事した。