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第一章 本当に人魚なの? ②

 しばらく歩くと、妹は僕から手を離して防波堤によじ登った。バランスを取りながら、その上を器用に歩き始める。

「気を付けろよ、あきら

「うん」

 順調に歩いていた妹だったが、急に顔を上げて足を止めた。

「どうした?」

「お兄ちゃん、アレ、なにー?」

 妹は、海側の少し離れた場所を指差した。僕は防波堤から身を乗り出してその方角を覗き込む。

 遠くの、波打ち際から少し離れた砂浜に、うつ伏せで誰かが倒れているように見えた。髪は淡い色で、ジーンズを穿いているのか、下半身は青く見えた。最初は人形かと思ったけど、それにしては生々しいようにも感じる。

「まさか、人……?」

 僕達は防波堤を乗り越えて慌ててその人の元に駆け寄った。だが、駆け寄ったはいいものの、僕は呆然と立ち尽くすことになる。

「わー、人魚姫だー!」

 目を輝かせる妹が言うように、砂浜にうつ伏せで横たわった人は人魚だった。何を言っているのか僕自身もよくわからなくなってきたが、とにかく、その人はアニメや絵本で見るような、いわゆる人魚的形状をしていた。近くの波打ち際には、この人の持ち物なのだろうか、斜め掛けバッグも落ちていた。

 短く切られた銀色の髪、目が閉じられ少し苦しそうな表情の顔、日に焼けた背中、それら上半身は普通の人間と全く変わらないのだが、それより下の、本来足が二本生えているべき下半身が人間ではありえない形をしていた。その人の腹部から下は、アジやイワシの尾側と同じような一本の肉体で、その先端には立派な尾ひれが付いていたのだ。

 でも、アジやイワシなんかと比べたら失礼かもしれない。この人の下半身はスーパーで見るような魚よりも、なんというか、肉感的な優しい曲線だし、それを夏の空よりも濃い青色の鱗がキラキラと輝きながら覆っていた。

 コスプレ? ドッキリ? それとも、危ない人? なんなんだ、これは!

 頭がグラグラと揺れているような気がした。人間の脳みそは、見たものを瞬時に判別できない場合もあるのだと、僕は今日初めて知った。

 呆気にとられる僕をよそに、妹は目をキラキラさせながら、人魚らしき人物の鱗とおぼしい形状のものに触れようと手を伸ばす。

「きれーい! キラキラしてるー!」

「ま、待って!」

 妹の手が鱗に触れる直前に、僕は慌ててその手を掴んだ。こんな得体の知れないものを触らせるわけにはいかない。新手の変態か何かかもしれないじゃないか。亡き両親に代わり、僕には妹を守る義務がある。

「えー、なんでだめなのー?」

「よく知らないものに触ったらダメだろ。危険かもしれないし」

「綺麗なお姉さんなのにぃ」

 妹はぶうと膨れた。

 妹の言うとおり、上半身から察するに、人魚的格好をしているのは女性のようだった。銀色の髪が隠す顔は、僅かに見える部分からも優しい顔立ちなのがわかる。背中や腰は女性らしい曲線を描いているし、うつ伏せの身体の下には押しつぶされた胸が微かに覗いていた。

 というか。

 僕は今さら気がついて、目眩に襲われる。

――この人、下半身はともかく、上半身は裸じゃないのか……?

 僕は顔から火が出るくらいに赤くなって、その場にへたり込んだ。

「どうしたの、お兄ちゃん? 気分が悪いの?」

 妹が不思議そうな顔で僕の顔を覗き込む。僕は、はっとして首を大きく振った。

「い、いや、何でもないよ」

「ふうん? なんだか顔が赤いみたいだけどー?」

「そ、そんなことは……そ、そうだ! それより早く救急車を呼ばないと!」

 そうだ。そうだよ。たまたま人魚のコスプレをしていた人が昨日の強風の中で海に来て、飛んできた何かに頭をぶつけて倒れてしまった可能性だってあるじゃないか!

 こういう場合、まずは意識の有無の確認をしないといけないんじゃなかったかな。

 僕は妹から目を逸らしつつ、人魚の格好をした人の傍らに跪いて、肩を軽く叩きながら呼び掛けた。

「もしもし、もしもし! 大丈夫ですか? 意識はありますか、痛みは?」

 僕の声に応えるように、その人の背中がピクリと震えた。そして、口から「うーん」という、呻き声が漏れる。

 僕は少しほっとして、さらに呼び掛けを続けた。

「大丈夫ですか! お名前はわかりますか!」

 女の子の呻き声は次第に大きくなり、ついには大きく伸びをしたかと思うとのろのろと起き上がった。

「よ、よかった!」

 喜んだのも束の間、僕はその人に思い切り頬を殴られて吹っ飛んだ。

「パ、パンチ……ナンデ……!」

 殴られた頬を押さえながら僕が砂浜から起き上がると、その女の人ははっとした表情になり、次いで僕を殴り飛ばした自分の握り拳を見つめた。自分が何をしたのかを把握したらしい彼女は、銀色の髪を掻きながら申し訳なさそうな顔をした。

「わ、わりぃ……」

 たぶん僕と同じくらいの年だろう。ぱっちりと開いた青い瞳が印象的な女の子だった。スッと通った鼻筋なんかの顔立ちを見ても、日本人じゃないのかもしれない。でも、この顔はどこかで見たことがあるような……。

「あたし、寝起きがすげー悪くてよ……その……ホントにごめんな?」

 ぶっきらぼうな言葉だったけれど、彼女は素直に頭を下げてくれた。いつもの僕だったら、「いやいや、そんなに痛くなかったし、大丈夫だよ」と言うところだ。

 だが、いかんせん、彼女は上半身が裸なのだ。起き上がったせいで丸見えになったそれを、隠してもいないのだ!

 健康な青少年であるところの僕は、妹の前であるにも関わらず、本来の意思に反して、彼女のぷるんと震えるきれいな形の胸に目が吸い寄せられてしまう。

「な……なに見てんだよ!」

 僕の視線に気づいたらしく、彼女は顔を赤くしながら、慌てて両腕で胸を隠した。

「ご、ごごごごごめんなさい! わ、悪気はないんです!」

 僕は慌てて後ろを向いた。

「そ、その。体は大丈夫ですか? 救急車とかは……」

「あのなあ。あたしは人魚なんだぜ? 病院なんか行ったら大騒ぎだろうが」

「え、ええ? えええ?」

「それとも、人魚を診てくれる医者の知り合いでもいるのか?」

「い、いやあ……」

「だよな。普通の医者が人魚なんか見たら発狂すんだろ」

「えっと……」

「まあ、あたしは大丈夫だ。台風のせいで太平洋泳いで渡るのに遠回りしちまって。で、疲れたからここで寝てただけだしよ」

「はあ……」

 ジョークを言われているんだろうか。でも、彼女の声は普通のトーンみたいに聞こえるし、特に笑いを狙う調子ではなさそうだった。

 もしかして、これは体じゃなくて心の病院に行ってもらうべき案件なのかもしれない。そう思ったものの、口に出せずにモゴモゴしていると、チッと舌打ちする声が聞こえた。

「あたしの言う事、信じてねえな?」

「いや、そんな……」

「よっしゃ。この世には不思議なことがあるってこと証明してやんよ。オラ、こっち向けや」

「いや、そんな……!」

「いいから、向けやあ!」

 彼女に片腕を引っ張られ、独楽回しよろしく回転させられた僕は砂浜に倒れ込んだ。顔をあげると、目の前には片手で胸元を押さえる人魚がいた。キラキラ光る青い鱗と、鱗と同じ色の瞳、何よりうっすら日焼けした上半身が僕の目には眩しすぎた。

「見てろよ」

 その人は近くに落ちていたカバン――ボディーバッグというのだろうか、背中に背負うタイプの小振りのカバンだ――を片方の手で引き寄せると、中から何かを取り出した。錠剤の入った小瓶だ。片手でそれを開けようとするのだが、蓋が開かない。しまいには歯を使いだしたんだけど、それでも開かなかった。

「うがー。なんでこんな固いんだよ、コレ!」

「わたしが開けてあげるー」

「お、わりいな」

 僕の止める間もなく、妹が両手で掴んで蓋をクルリと回すと瓶は簡単に開いた。

「ありがとな、玲」

 その人は妹に向かって人懐っこそうな顔でにこりと笑った。

 あれ? この人、どうして妹の名前を知ってるんだろう?

 僕の疑問をよそに、彼女はガラス瓶の中の一粒を摘まむ。瓶の中には何錠かの白い錠剤と青い錠剤が入っていて、摘まんだのはそのうちの白い一錠だった。彼女はそれを自分の舌の上に乗せる。

「悪いけど、その中身くんねえ?」

 彼女が僕の持つ水筒を指差したので、麦茶だけどいいのかなあと思いつつ、僕はコップに中身を注いで渡した。

「まさか、変なクスリじゃ……ないよね……?」

「そんなんじゃねーよ、これはもっといいもんさ」

 そう言いながらも、彼女の口の端は微かに震えていた。緊張しているようにも、何かを怖がっているようにも見える表情だった。

 本当は悪いクスリなんじゃないのかと、僕は少し警戒する。いつでも連れて逃げられるように妹の手を握った。

 彼女は目を瞑り、覚悟を決めたような表情で、コップの麦茶と共に口の中の錠剤をゴクリと飲み込んだ。それに合わせて喉がもぞもぞと動く。

 僕は彼女の変化を見逃すまいと注視しつつ、妹の手を握る力を強くした。もし彼女が暴れたり、わけのわからないことを喚いたりしだしたら、すぐに妹を抱えて避難しなければ。それから救急車に電話して――それとも警察に電話すべきだろうか。事情聴取ということになったらなんと言って説明すればいいのかなあ……。

 そんな風に、もしも彼女がおかしくなったらという状況に対するシミュレーションを僕は重ねていたのだが、結局、それは無駄になった。彼女は喚いたり、暴れたりといった意味でのおかしな行動をとることはなかった。とることはなかったのだが、それ以上におかしなことになってしまったのだ。

「な、なんだよ……これ……!」

 僕は目を見開き、呆然とする。

 彼女の足元――いや、魚の尻尾元と呼ぶべき?――のあたりが突然キラキラと輝き始めたのだ。当然、照明器具なんかはないし、急に空が明るくなったというわけでもない。何のきっかけもなく、眩しいほどの光が急に出現したのだ。彼女の足元の光はだんだんと勢いを増し、眩しさに耐えきれなくて僕は目を細めた。

 呆然とする僕達兄妹を前に、白い光を放つ彼女の魚的形状の下半身が奇妙な気配を見せ始めた。

 まるで、二重写しされた画像のように、あるいは、合成された映像のように、青い鱗の覆う魚的な下半身の上に、人間の女の子のすらりと伸びた脚がうっすらと見え始めたのだ。何度目を瞬かせても擦っても、そう見える。魚の尾部と人間の脚が重なって見えるのだ。そうこうしているうちに、光はさらに増し、人間の脚のシルエットは濃く、逆に魚の尾部のシルエットは薄くなっていった。

 ついには魚だった下半身が消え、女の子の二本脚だけが残った。

 なんだ、これ? ドッキリ? イリュージョン?

 でも、わざわざお金をかけて僕らにそんなことをする人の心当たりがない。

「や、やっべ! そういや、人間って股も隠さなきゃいけねえんじゃねーか!」

 彼女は再び真っ赤になって、手でその辺りを隠した。僕は鼻血を押さえながら眼前の光景を見ていたが、もはや何が見えているのか、頭の処理が追い付いていなかった。

 妹は水泳用のビニールバッグからバスタオルを取り出した。

「お姉ちゃん、わたしのタオル使う?」

「サンキュー。何度もわりーな、玲」

 そんなやりとりの後、彼女は妹の着替え用バスタオルを体に巻くことでとりあえずは落ち着いたようだった。猫のキャラクターの描かれた、片方の長辺にゴムが入ったバスタオル。それをすっぽり被って頭と腕を出した彼女は、てるてる坊主みたいだった。

 そのてるてる坊主みたいな彼女は、短い銀髪の間から除く青い瞳でギラリと僕を睨んだ。

「てめえは有坂雅ありさかみやびだな!」

 僕は怖気づいて一歩後ろに下がる。

「ど、どうして僕の名前を……? 妹の名前も知っていたみたいだし……」

 彼女はふふんと鼻を鳴らして笑った。

「アンタのことは少し調べさせてもらったぜ?」

「ど、どうして?」

「アンタがあたしの姉さんを誑かしたからさ」

「姉さん? 誑かす?」

 そう言いながら、僕は思い出していた。髪の色や使う言葉の雰囲気は全く違うけど、青い瞳と顔立ちはそっくりだ。彼女はいなくなってしまったあの女の子によく似ていた。

「あたしの名前はユリネラ・パパシーカ。アリアラ・パパシーカの妹だ! アンタがどうやってあたしの姉さんをタラシ込んだか知るために、しばらくアンタの家に厄介になるぜ!」

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